礼拝宣教 ヨブ32章~33章
先週は19章からヨブの嘆きと祈りの言葉に聞いてきました。その後も3人の友人たちはたたみかけるように因果応報律による論法、つまり「あなたが何か悪いことをしたから、こういう事が起こってきたんじゃないか?」と、ヨブの罪責を問い詰めます。
それに対してヨブも必死で彼らに自分の正当性を主張していくのであります。
殊に29章においてヨブは、神に対して、かつての神に守られた「繁栄の日々」を返してくれ、と訴え嘆くのですが。けれど、そこを読んで浮き彫りになってくるのは、ヨブが「何をもって自分を正しいとしているのか」ということです。
29章11節から読んでみましょう。
「わたしのことを聞いた耳は皆、祝福し、わたしを見た目は皆、称讃してくれた。わたしが身寄りのない子らを助け、助けを求める貧しい人々を守ったからだ。わたしは正義を衣としてまとい、公平はわたしの上着、また冠となった。わたしは見えない人の目となり、歩けない人の足となった。貧しい人々の父となり、わたしにかかわりのない訴訟にも尽力した。不正を行なう者の牙を砕き、その歯にかかった人々を奪い返した」。
ヨブはこのように述べ、自分の正しさを証明しようとするのです。
こんな風に自分は正しい人として生きてきた。人に対しても何も憎まれ恨みをかわれるようなことは一切していない。人も自分を祝福し称讃してくれた。
それにもかかわらず、なぜこのような災難に自分や家族が遭わなければならないのかと、ヨブは切々と神に訴え嘆きます。
このような、ヨブの自らの正しさを主張する言葉は延々と続きますが。それは31章の終わりに「遂にヨブは語り尽くした」とあるように、ヨブの胸中にあった思いを、その隠れていた部分まで言葉に出す、取り出すことをしたんですね。
これは私たちが「神さまなぜですか?」というような状況に陥ったときの、ある意味大切な作業なのかとも思えます。感情や思いにフタをして、ただぐっと忍耐し、やり過ごそうとしても、人はそんなに強くはできません。どこかで違った方でそれが噴き出してくるかも知れません。そんなときに気持ちを出し尽くすまで書き留めてみたり、信頼のおける友に聞いてもらうのもよいことかも知れません。しかし、まあここまでヨブが自分の無罪性、正当性を主張し続けたため、3人の友人らはこれ以上、ヨブと議論して、説得しても無理だとあきらめたのか。ヨブと友人らの間は膠着状態に陥った、もう行き詰まってしまたんですね。
そのように人はそれがどんなに立派なことを言う人であっても、すべてを理解してもらえるような存在ではないということでしょう。
さて、そうして本日の32章に、エリフという人が突然登場するのであります。
彼は神と人の間に立つような、いわば「橋渡し」となるような不思議な存在感をもった人物でありますが。そんな彼はヨブとその3人が議論し合っていたのをずっと見聞きしていたようであります。彼は3人のヨブの友だちの知り合いなのでしょうか。彼がヨブの友人であったかどうかは何も書かれていないのでわかりません。
このエリフはこれまでのヨブと3人の年長者たちの議論を見聞きしながらずっと黙っていたようですが、遂に堪忍袋の緒が切れたのか?いやそうではなく8節以降にあるように、自分の腹の内で霊が駆り立て、その腹は、新しいぶどう酒の酸味の強さで、それを入れた革の袋が張り裂けんばかりのような状態になったので、ヨブと3人の年長者に対して怒りをあらわに語り出した、ということであります。いわば聖霊が強く働かれて口を開かないわけにはいかなくなった、ということでありましょう。
「エリフがヨブに語ったこと」
エリフはヨブが、「自分が正しい」と確信し、「神よりも自分の方が正しいと主張した」。それを怒ります。又、ヨブの3人の友人に対しても怒るのでありますが。それは単なる怒りというより、義憤;神の前における正しさがそこには無いじゃないかという激しい憤りだったのです。
33章8節以降でエリフはヨブが『わたしは潔白で、罪を犯していない。わたしは清く、とがめられる理由はない。それでも神はわたしに対する不満を見いだし、わたしを敵視される。わたしに足枷をはめ、行く道を見張っておられる』と言った言葉に対して、その12節でヨブはこう言うのです。
「ここにあなたの過ちがある」と。「ヨブが神より自分の方が正しい」と自分を正当化してあたかも神さまが間違っていると神と争おうとするかもように語った、そのことにエリフは怒ったのです。
ヨブは自分が一般的な意味で間違ったことをしてない点については、信念をもっていたのでしょう。そういう自分の力で義を、正しさを立てて来た、というところに彼はどこか神の愛と憐れみを無益にするようなおごりがあったのかも知れません。
そして彼は「正しい生き方をしている自分に災難や苦難が起こるのはおかしい」、神は間違っていると、神に恨み節を吐くほかなかったんですね。
自分はこれこれの正しい事をしてきたのだから、又自分はこれだけ善行を積み、人々に仕え助けてきたのだから、それに見合った見返りと祝福をもらえて当然。この「そうなって当然」という考えも又、因果応報と同じですね。それは物事が順風満帆に進んでいるときは表に出ませんが。何か苦難や災難に遭えば、そういう思いが噴き出すかのよに
あらわになっていく。それが正しい生き方をしてきたヨブでさえそうであったわけですから、私たちも決して「自分は大丈夫」なんて言えませんね。
「自分はこんなに礼拝を大事にし、奉仕も心がけてきたのに」となりますと、このときのヨブのように、自己正当化して神の愛と憐れみではなく、自分の義に生きようとするかも知れません。そうなるともはや十字架の救いの恵みはいらないと言っているのと同じことです。ともあれエリフは、「神よりも自分が正しいと主張する」人間の傲慢さをここで暴いているのです。
イエスさまは福音書の中で、「わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである」とおっしゃいました。人の正しさと神の正しさ、どこに私たちは救いを見出していくのか、深く考えさせられます。
「エリフが3人の年長者に語ったこと」
さて、エリフはヨブだけでなく、3人の年長者に対しても怒りを露わに非難しました。その理由は、彼らが因果応報律でヨブを説得しても、一向にヨブが悔い改めることなく、手をこまねいてしまい、膠着状態になっていたことにいらだちを感じていたからです。
エリフがこれまでヨブに話しかけるのを控えていた理由について、「3人が皆、年長者だったので」と書かれていますが。エリフ自身6節で「わたしは若くあなたたちは年をとっておられる。だからわたしは遠慮し、わたしの意見をあえて言わなかった。日数がものを言い、年数が知恵を授けると思っていた」と言っているとおりです。彼は、若者は心が高ぶりやすいこと。忍耐して待つのもできないこと。自分をより多く示したいということを、重々自覚していました。そこで様々な思いをもちながらもあえて年長者3人の議論を聞き続けていたのです。
けれど、遂に焜着状態になってそれが中断すると、エリフは「人の中には霊があり、悟りを与えるのは全能者の息吹なのだ。日を重ねれば賢くなるというのではなく、老人になればふさわしい分別ができるものではない」(8-9節)と口火を切って語り出すのです。
ここで、エリフが主張したことは、神がお造りになった人間、誰の中にも「霊」がある。
人間は霊的存在なんだ、ということです。その霊的存在の私たちに悟りを与えるのは年月や学問や知識ではなく、それらを遙かに超越される「全能者の息吹」だということであります。単に年長だということが、必ずしも真理に近い訳ではないのです。
私たちは時に唯泣いたり笑ったりしている赤ちゃんの中に神の英知を感じる時がないでしょうか。又よく子どもがいう何気ない一言が真理を突くような鋭いことばだったりするということがあると思うんですね。大切なのは、すべての人間の中におられる神の霊の、そのようなお働きを認めることです。たとえ自分が年若くても、又どんなに小さい存在であるように思われたとしても、神の霊が自分の中にあるのだということ。それは又他者も同様に全能者の息吹に生かされていることを知らされる時、人を高ぶらせる世の知恵、知識を超えた神の英知、神の摂理を認めて生きることができるのではないかということを、エリフは訴えているのです。
聖書は、私たち人間は皆、創造の初めの過程にあるように、「神の息吹」によって造られた霊的存在だと語ります。それは年長者とか若年者とかの年齢、又性別、身分や地位などとは一切関係なく、全能者の息吹によって真理と神の摂理を悟って生きる霊的存在として造られているということです。
人間が持っている知恵や能力には限界がございます。それは時と状況によって移り変わるような不確定なものなのです。だからこそ、私たちは日々「神の御言葉の前に謙虚に学んでいく」必要がございます。日常の生活において、その真価が問われることが起こって来た時、このエリフのように全能者の息吹によって立ち得る者とされたいと切に願うものです。
さて、エリフはヨブと話す前に、まず年長者の3人がヨブに語ったことをよく聞いてから、ヨブと年長者たちに語り出しました。そういう中で彼が13節で3人の年長者たちに向けて次のように語っている言葉は印象的です。
「いい知恵がある。彼を負かすのは神であって人ではないと言おう」などと考えるべきではない。ヨブがわたしに対して議論したのではないが、わたしはあなたたちのような論法で答えようとは思わない。」
ここには2つのことが語られているように思えますが。
その1つ目は「あとは神が彼を諭されるから、もう自分は黙っておこう」などと考えるべきでない。ちゃんと議論することを放棄すべきではないと言っているんです。
日本人は、とかく議論するより、自分が我慢すれば場が収まるからとか、相手を不快にさせてはと遠慮をし、余計な争いになっては面倒などと、顔と顔とを合わせての意見を言って議論を避ける傾向が強いんではないでしょうか。
確かに人の話に耳を傾けるのは大変なことでもあるでしょう。又、口を開き自分の意見を語るというのは勇気も気力もいります。けれども語るべき時に語らないことは、決して謙虚とはいえないのです。語らなければならないときに、率直に語るのは神の前に誠実な態度であることをエリフはここで伝えているのですね。しかしそれは、自分の主義主張を相手に押し付けることとは違います。
そしてさらにエリフは2つ目のこととして、「わたしはあなたたちの論法で答えようとは思わない」と言っています。
それは、3人の友人が語った因果応報というような世の知恵や知識によるものでない、「神の知恵」。エリフはこの「全能者の息吹によって与えられる知恵」によって語ったのです。
最後にそのエリフの言葉をご一緒に読んで、本日の宣教を閉じたいと思います。
33章23節「千人に一人でもこの人のために執り成し その正しさを示すために 遣わされる御使いがあり 彼を憐れんで『この人を免除し、滅亡に落とさないでください。代償を見つけて来ました』といってくれるなら 彼の肉は新しくされ 若者よりも健やかになり 再び若いときのようになるであろう。彼は神に祈って受け入れられ 歓びの叫びの内に御顔を仰ぎ 再び神はこの人を正しい人と認められるであろう。彼は人々の前でたたえて歌うであろう。『わたしは罪を犯し 正しいことを曲げた。それはわたしのなすべきことではなかった。しかし神はわたしの魂を滅亡から救い出された。わたしは命を得て光を仰ぐ』と。まことに神はこのようになさる。人間のために、二度でも三度でも。その魂を滅亡から呼び戻し 命の光に輝かせてくださる。」
アーメンです。「全能者の息吹によって」与えられる神の知恵。それは私どもにとりまして神の救いイエス・キリスト。私たちの罪の贖いの代償となってくださったこのお方である。そう信じるものであります。
私たちも日々、御言葉の養いを得ながら、蓄えつつ、試練の折が来た折には神の霊とその息吹によって、救いの御言葉が命の光として輝かせてくださる。その望みをもって歩んでまいりたいと願います。
今週も主の先立ちのもと、ここからそれぞれの場へと遣わされてまいりましょう。
先週は19章からヨブの嘆きと祈りの言葉に聞いてきました。その後も3人の友人たちはたたみかけるように因果応報律による論法、つまり「あなたが何か悪いことをしたから、こういう事が起こってきたんじゃないか?」と、ヨブの罪責を問い詰めます。
それに対してヨブも必死で彼らに自分の正当性を主張していくのであります。
殊に29章においてヨブは、神に対して、かつての神に守られた「繁栄の日々」を返してくれ、と訴え嘆くのですが。けれど、そこを読んで浮き彫りになってくるのは、ヨブが「何をもって自分を正しいとしているのか」ということです。
29章11節から読んでみましょう。
「わたしのことを聞いた耳は皆、祝福し、わたしを見た目は皆、称讃してくれた。わたしが身寄りのない子らを助け、助けを求める貧しい人々を守ったからだ。わたしは正義を衣としてまとい、公平はわたしの上着、また冠となった。わたしは見えない人の目となり、歩けない人の足となった。貧しい人々の父となり、わたしにかかわりのない訴訟にも尽力した。不正を行なう者の牙を砕き、その歯にかかった人々を奪い返した」。
ヨブはこのように述べ、自分の正しさを証明しようとするのです。
こんな風に自分は正しい人として生きてきた。人に対しても何も憎まれ恨みをかわれるようなことは一切していない。人も自分を祝福し称讃してくれた。
それにもかかわらず、なぜこのような災難に自分や家族が遭わなければならないのかと、ヨブは切々と神に訴え嘆きます。
このような、ヨブの自らの正しさを主張する言葉は延々と続きますが。それは31章の終わりに「遂にヨブは語り尽くした」とあるように、ヨブの胸中にあった思いを、その隠れていた部分まで言葉に出す、取り出すことをしたんですね。
これは私たちが「神さまなぜですか?」というような状況に陥ったときの、ある意味大切な作業なのかとも思えます。感情や思いにフタをして、ただぐっと忍耐し、やり過ごそうとしても、人はそんなに強くはできません。どこかで違った方でそれが噴き出してくるかも知れません。そんなときに気持ちを出し尽くすまで書き留めてみたり、信頼のおける友に聞いてもらうのもよいことかも知れません。しかし、まあここまでヨブが自分の無罪性、正当性を主張し続けたため、3人の友人らはこれ以上、ヨブと議論して、説得しても無理だとあきらめたのか。ヨブと友人らの間は膠着状態に陥った、もう行き詰まってしまたんですね。
そのように人はそれがどんなに立派なことを言う人であっても、すべてを理解してもらえるような存在ではないということでしょう。
さて、そうして本日の32章に、エリフという人が突然登場するのであります。
彼は神と人の間に立つような、いわば「橋渡し」となるような不思議な存在感をもった人物でありますが。そんな彼はヨブとその3人が議論し合っていたのをずっと見聞きしていたようであります。彼は3人のヨブの友だちの知り合いなのでしょうか。彼がヨブの友人であったかどうかは何も書かれていないのでわかりません。
このエリフはこれまでのヨブと3人の年長者たちの議論を見聞きしながらずっと黙っていたようですが、遂に堪忍袋の緒が切れたのか?いやそうではなく8節以降にあるように、自分の腹の内で霊が駆り立て、その腹は、新しいぶどう酒の酸味の強さで、それを入れた革の袋が張り裂けんばかりのような状態になったので、ヨブと3人の年長者に対して怒りをあらわに語り出した、ということであります。いわば聖霊が強く働かれて口を開かないわけにはいかなくなった、ということでありましょう。
「エリフがヨブに語ったこと」
エリフはヨブが、「自分が正しい」と確信し、「神よりも自分の方が正しいと主張した」。それを怒ります。又、ヨブの3人の友人に対しても怒るのでありますが。それは単なる怒りというより、義憤;神の前における正しさがそこには無いじゃないかという激しい憤りだったのです。
33章8節以降でエリフはヨブが『わたしは潔白で、罪を犯していない。わたしは清く、とがめられる理由はない。それでも神はわたしに対する不満を見いだし、わたしを敵視される。わたしに足枷をはめ、行く道を見張っておられる』と言った言葉に対して、その12節でヨブはこう言うのです。
「ここにあなたの過ちがある」と。「ヨブが神より自分の方が正しい」と自分を正当化してあたかも神さまが間違っていると神と争おうとするかもように語った、そのことにエリフは怒ったのです。
ヨブは自分が一般的な意味で間違ったことをしてない点については、信念をもっていたのでしょう。そういう自分の力で義を、正しさを立てて来た、というところに彼はどこか神の愛と憐れみを無益にするようなおごりがあったのかも知れません。
そして彼は「正しい生き方をしている自分に災難や苦難が起こるのはおかしい」、神は間違っていると、神に恨み節を吐くほかなかったんですね。
自分はこれこれの正しい事をしてきたのだから、又自分はこれだけ善行を積み、人々に仕え助けてきたのだから、それに見合った見返りと祝福をもらえて当然。この「そうなって当然」という考えも又、因果応報と同じですね。それは物事が順風満帆に進んでいるときは表に出ませんが。何か苦難や災難に遭えば、そういう思いが噴き出すかのよに
あらわになっていく。それが正しい生き方をしてきたヨブでさえそうであったわけですから、私たちも決して「自分は大丈夫」なんて言えませんね。
「自分はこんなに礼拝を大事にし、奉仕も心がけてきたのに」となりますと、このときのヨブのように、自己正当化して神の愛と憐れみではなく、自分の義に生きようとするかも知れません。そうなるともはや十字架の救いの恵みはいらないと言っているのと同じことです。ともあれエリフは、「神よりも自分が正しいと主張する」人間の傲慢さをここで暴いているのです。
イエスさまは福音書の中で、「わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである」とおっしゃいました。人の正しさと神の正しさ、どこに私たちは救いを見出していくのか、深く考えさせられます。
「エリフが3人の年長者に語ったこと」
さて、エリフはヨブだけでなく、3人の年長者に対しても怒りを露わに非難しました。その理由は、彼らが因果応報律でヨブを説得しても、一向にヨブが悔い改めることなく、手をこまねいてしまい、膠着状態になっていたことにいらだちを感じていたからです。
エリフがこれまでヨブに話しかけるのを控えていた理由について、「3人が皆、年長者だったので」と書かれていますが。エリフ自身6節で「わたしは若くあなたたちは年をとっておられる。だからわたしは遠慮し、わたしの意見をあえて言わなかった。日数がものを言い、年数が知恵を授けると思っていた」と言っているとおりです。彼は、若者は心が高ぶりやすいこと。忍耐して待つのもできないこと。自分をより多く示したいということを、重々自覚していました。そこで様々な思いをもちながらもあえて年長者3人の議論を聞き続けていたのです。
けれど、遂に焜着状態になってそれが中断すると、エリフは「人の中には霊があり、悟りを与えるのは全能者の息吹なのだ。日を重ねれば賢くなるというのではなく、老人になればふさわしい分別ができるものではない」(8-9節)と口火を切って語り出すのです。
ここで、エリフが主張したことは、神がお造りになった人間、誰の中にも「霊」がある。
人間は霊的存在なんだ、ということです。その霊的存在の私たちに悟りを与えるのは年月や学問や知識ではなく、それらを遙かに超越される「全能者の息吹」だということであります。単に年長だということが、必ずしも真理に近い訳ではないのです。
私たちは時に唯泣いたり笑ったりしている赤ちゃんの中に神の英知を感じる時がないでしょうか。又よく子どもがいう何気ない一言が真理を突くような鋭いことばだったりするということがあると思うんですね。大切なのは、すべての人間の中におられる神の霊の、そのようなお働きを認めることです。たとえ自分が年若くても、又どんなに小さい存在であるように思われたとしても、神の霊が自分の中にあるのだということ。それは又他者も同様に全能者の息吹に生かされていることを知らされる時、人を高ぶらせる世の知恵、知識を超えた神の英知、神の摂理を認めて生きることができるのではないかということを、エリフは訴えているのです。
聖書は、私たち人間は皆、創造の初めの過程にあるように、「神の息吹」によって造られた霊的存在だと語ります。それは年長者とか若年者とかの年齢、又性別、身分や地位などとは一切関係なく、全能者の息吹によって真理と神の摂理を悟って生きる霊的存在として造られているということです。
人間が持っている知恵や能力には限界がございます。それは時と状況によって移り変わるような不確定なものなのです。だからこそ、私たちは日々「神の御言葉の前に謙虚に学んでいく」必要がございます。日常の生活において、その真価が問われることが起こって来た時、このエリフのように全能者の息吹によって立ち得る者とされたいと切に願うものです。
さて、エリフはヨブと話す前に、まず年長者の3人がヨブに語ったことをよく聞いてから、ヨブと年長者たちに語り出しました。そういう中で彼が13節で3人の年長者たちに向けて次のように語っている言葉は印象的です。
「いい知恵がある。彼を負かすのは神であって人ではないと言おう」などと考えるべきではない。ヨブがわたしに対して議論したのではないが、わたしはあなたたちのような論法で答えようとは思わない。」
ここには2つのことが語られているように思えますが。
その1つ目は「あとは神が彼を諭されるから、もう自分は黙っておこう」などと考えるべきでない。ちゃんと議論することを放棄すべきではないと言っているんです。
日本人は、とかく議論するより、自分が我慢すれば場が収まるからとか、相手を不快にさせてはと遠慮をし、余計な争いになっては面倒などと、顔と顔とを合わせての意見を言って議論を避ける傾向が強いんではないでしょうか。
確かに人の話に耳を傾けるのは大変なことでもあるでしょう。又、口を開き自分の意見を語るというのは勇気も気力もいります。けれども語るべき時に語らないことは、決して謙虚とはいえないのです。語らなければならないときに、率直に語るのは神の前に誠実な態度であることをエリフはここで伝えているのですね。しかしそれは、自分の主義主張を相手に押し付けることとは違います。
そしてさらにエリフは2つ目のこととして、「わたしはあなたたちの論法で答えようとは思わない」と言っています。
それは、3人の友人が語った因果応報というような世の知恵や知識によるものでない、「神の知恵」。エリフはこの「全能者の息吹によって与えられる知恵」によって語ったのです。
最後にそのエリフの言葉をご一緒に読んで、本日の宣教を閉じたいと思います。
33章23節「千人に一人でもこの人のために執り成し その正しさを示すために 遣わされる御使いがあり 彼を憐れんで『この人を免除し、滅亡に落とさないでください。代償を見つけて来ました』といってくれるなら 彼の肉は新しくされ 若者よりも健やかになり 再び若いときのようになるであろう。彼は神に祈って受け入れられ 歓びの叫びの内に御顔を仰ぎ 再び神はこの人を正しい人と認められるであろう。彼は人々の前でたたえて歌うであろう。『わたしは罪を犯し 正しいことを曲げた。それはわたしのなすべきことではなかった。しかし神はわたしの魂を滅亡から救い出された。わたしは命を得て光を仰ぐ』と。まことに神はこのようになさる。人間のために、二度でも三度でも。その魂を滅亡から呼び戻し 命の光に輝かせてくださる。」
アーメンです。「全能者の息吹によって」与えられる神の知恵。それは私どもにとりまして神の救いイエス・キリスト。私たちの罪の贖いの代償となってくださったこのお方である。そう信じるものであります。
私たちも日々、御言葉の養いを得ながら、蓄えつつ、試練の折が来た折には神の霊とその息吹によって、救いの御言葉が命の光として輝かせてくださる。その望みをもって歩んでまいりたいと願います。
今週も主の先立ちのもと、ここからそれぞれの場へと遣わされてまいりましょう。