宣教 マタイ27章45-56節 受難週
今日から受難週に入りました。全世界に主の御救いがもたらされるため、神の御子であるイエスさまが捕えられて十字架へ引き渡される、苦難の7日間。それはエルサレムへの入城に始まり、弟子たちの足を洗われる洗足、そして最後の晩餐。先週はゲッセマネの園における祈り共に与りました。そうして弟子の一人ユダの裏切りによって捕えられたイエスさまは、ユダヤの法廷、次いでローマ総督の前に引き出され、鞭打たれ、嘲りを受け、自ら十字架を負われて、遂に十字架に釘打たれるのであります。
聖書は、イエスさまが十字架にかけられてから「昼の12時に、全地は暗くなり、それが3時まで続いた」と記しています。日が高い真っ昼間というのに全地が暗闇に覆われた。このマタイ福音書の全地という「ゲー」という言葉は、単にユダヤの地だけを指すのではでなく、全世界を意味しています。そのとき暗闇が全世界を包んだという意味なのです。
旧約聖書で預言者アモスは「その日が来ると、と主は言われる。わたしは真昼に太陽を沈ませ 白昼に大地を闇とする」(8章9節)と預言しました。それは、終末に際してやがて来たるべき、救い主の到来を前に、人類が経験するであろう闇でありますが。今日のところでは、終末の預言を彷彿とさせるような闇が全世界を覆うのです。
そして3時頃、イエスさまは十字架上で「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」(わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか)と大声で叫ばれました。
絶望的といえるこの叫びは、今日に至るまで多くの人の信仰の躓きともなってきたのは事実です。イエスは十字架で敗北者の叫びをあげ無残に死んだ。救いの業は失敗に終わったのだという人たちも多いのです。
ユダヤ教でもそうですが。イスラム教もイエスを預言者の一人とは認めても、メシアだとは認めていません。ではどうして私たちはそのようなボロボロになぶり殺しにされた十字架のイエスに救いを見出すのでしょうか?それはまさに神の子であるこのお方が、人間の救いがたいような闇の奥底にまでくだられた。人の深い苦しみ悩みを知られ、耐え難い痛みをその身に負われた。そこに「共におられる」インマヌエルを見るからです。
先日、シリアのアサド政権が反体政派への空爆に毒ガス、枯れ葉剤などの極めて残虐な化学兵器を使用し、その多くの被害者は一般の市民であり子供たちであることがとても直視することのできないような映像とともに報道されました。それから間をおかずして、アメリカ軍がこのシリアのアサド政権の軍事基地に向けて大量の空爆攻撃をしました。人道に反する化学兵器を使用したことへの制裁処置と、その正当性を主張し、日本の安部首相もそのトランプ大統領を支持するとコメントしておられますが。ほんとうにそれでいいのでしょうか。アメリカの空爆によってもシリア市民や幼い子供たちが巻き込まれ貴い命が奪われたことがすでに伝わっています。さらに憎しみが憎しみを生む連鎖が生じ、この機にISの温床となり、テロが増幅していく脅威となっていくことを、ほんとうに恐れ、何とかその闇の方向へ向かわないための道筋が立てられていくようにと祈るばかりですが。遠い国の小さな出来事などではなく、権力や体制の下で、ものの数にしか数えられない、すべて私たちの叫びにつながっています。
「わたしの神よ、わたしの神よ、なぜわたしをお見捨てになったのですか」と絶叫するほどに苦しみ痛まれたイエスさまの叫び。それは、蔑ろにされ、踏みにじられ、排斥されるすべての人々。置き去りにされ、小さくされるすべての人々。そして罪深く肉体的限界を生きざるを得ない人間。それは私たち一人ひとりへの神の共鳴です。ここに私たちは救いを見出すのです。
次いで、前の32節以降のイエスさまが十字架につけられる場面では、そのイエスさまに向けて、人々が代わる代わる「神の子なら、自分を救ってみろ」「他人は救ったのに、自分は救えない。そうすれば、信じてやろう」などと罵倒する者たちがいたことが書かれていますが。
それは厳しい現実世界を見るにつけ、人が「神の救いはどこにあるのか」「神なんかいないじゃないか」という憤りであり、神に反駁するような人の罪でありますけえども。そのような不信の中で、イエスさまは「エリ、エリ」(わが神、わが神)という叫びを聞いた人々は、エリヤを呼んでいると言う者もおり、その一人が「海綿を取って酸いぶどう酒を含ませ、葦の棒をつけて、イエスに飲ませようとし」、他の人々は「エリヤが彼を救いに来るかどうか、見ていよう」と言ったとあります。それはイエスの痛みを和らげるという同情からではなく、イエスが自分から延命を望んでエリヤの助けを求め、エリヤが助けに来るかどうかを試すためにそうしたのです。
物見高に何がおこるか伺う、そうして神を試みるような人もいたわけです。けれどもイエスさまはエリヤを呼ばれたのではなく、酸いぶどう酒も一切受け取られませんでした。その痛みと苦悩をどこまでもご自身に負われ、そして遂に「再び大声で叫び、息を引き取られた」のです。
「神よ、なぜですか」、という問いかけに対して神の答がないまま、最期までその痛みと苦悩を身に負って死なれたのです。
イエスさまはとことん人間のもっとも深い苦悩と痛みを身に負われたということであります。実はここに私たち主イエスを信じている者にとっての救いと平安の根拠がございます。預言者イザヤの書53章5節「彼の受けた懲らしめによってわたしたちに平和が与えられ、彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた」。
「神の子であられるイエスさまがわたしの最も深い苦悩と痛みをその身に共に負われ、死なれた」。「わたしの痛み、わたしの傷が神の子イエス・キリストの痛み、苦しみとつながっている」。この共におられる神だからこそ、わたしたちキリスト者は救いの希望を見出し得るのであります。
さて、イエスさまがそのように息を引き取られた後、聖書は、63節「そのとき(原語では「そして見よ」と感嘆詞)、神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂け、地震が起こり、岩が避け、墓が開いて、眠りについていた多くの聖なる者たちの体が生き返った」と記されています。
「神殿の垂れ幕」は、聖所と至聖所、つまり神殿の聖なる所と神が臨在なさる最も神聖な所とを仕切るもので、年に一度大祭司だけがこの垂れ幕の奥にある至聖所に入ることが許され、民のために罪のための犠牲をささげました。ところが、イエスさまの壮絶な十字架の死によって、この仕切りの垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂けたというのです。ご存じのように聖書はイエスさま以前の旧約とイエスさま以後の新約に分かれているのですが。旧約の時代には人は罪を犯す毎に牛や羊といったいけにえを捧げ、その罪が贖われることを願っていました。これが古い契約です。しかしそれでは罪深い私たち人間の根本的救いにはなりませんでした。しかしそういった旧約の時代が終わり、イエス・キリストの贖いの血による犠牲によって赦しと救いがもたらされた。すなわち新しい契約の時代が到来した。神殿の垂れ幕が真っ二つに避けた出来事はそのことを象徴的に表しているのです。
そのことについてヘブライ人への手紙9章11節にこう語られています。
「キリストは、既に実現している恵みの大祭司としておいでになったのですから、人間の手で造られたものではない、すなわち、この世のものではない、更に大きく、更に完全な幕屋を通り、雄山羊と若い雄牛の血によらないで、御自分の血によって、ただ一度聖所に入って永遠の贖いを成し遂げられたのです。」
さらに10章19節に「わたしたちは、イエスの血によって聖所に入れると確信しています。イエスは垂れ幕、つまり、御自分の肉を通って、新しい生きた道をわたしたちのために開いてくださったのです。」
「新しい生きた道」。それはキリストによる新しい命の道です。今日のところに地震が起こり、墓が開いて、眠りについていた多くの聖なる者たちの体が生き返り、主イエスの復活の後には、都に入って多くの人々に現れた、とございます。
イエス・キリストの贖いの業によって新しい時代、救いの恵みによって新しい命に生きるときが始まったのです。私たちはその新しい契約の救いの時代に生かされているということですね。それは何と幸いなことでしょうか。
さて、イエスの十字架刑を実際に執行した責任者であったローマの百人隊長と兵士たちがここに登場していますが。彼らはこれらの出来事を見て、非情に恐れ、「本当に、この人は神の子であった」と言うのであります。無残にも神に見捨てられたように死なれたイエスさまを、罵り嘲っていた者たちが、「本当に、この人は神のであった」と告白するのです。
それまではユダヤ人、それも大祭司といった人しか神のおられる至聖所に入ることができなかったわけですが。それが十字架の主イエスの血と死を通して、ユダヤ人以外の
異邦人、すべての人が、主の深い御憐れみによって神のおられる至聖所にキリストを通して入れるようになったという大いなる恵みを、このマタイ福音書は私たちに示しているんですね。十字架の受難と死をもって主イエスが私たちに代わりその罪の裁きを受けて死なれた。そのことによって私にも新しい生きた道が、新しい命の道が開かれていることを唯々感謝するばかりであります。
最後になりますが。55節には「また、そこでは、大勢の婦人たちが遠くから見守っていた」と記されています。
十字架の主イエスのその最期まで見守り続けていた大勢の女性たち。「彼女たちはガリラヤからずっとイエスさまに従って来て世話をしていた人々である」とあります。
主イエスと弟子たちとともに神の国の到来を待ち望んで仕えてきたこの女性たちは、主イエスと共に、十字架にかかるほど心を痛め、苦しい思いをしたでありましょう。
次週の話になりますが、復活された主イエスは打ち砕かれた彼女らに、その復活の栄光、神の御救いを顕わされるのです。
旧約の時代には決して聖所に入ることの許されなかった女性もまた、この主イエスによって隔ての幕が取り除かれ、神の至聖所に招き入れられる幸いな人とされたことがここに表明されているんですね。
今日、主イエスの十字架上での御言葉を私たちは頂きました。
使徒パウロは次のように述べています。
「十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなものですが、わたしたち救われる者には神の力です。」
この主イエスのお姿に神の義(ただ)しさと、血を流されるまでの慈愛を仰ぎ見つつ、私たちもまた、来たるべき主が来臨なさる日まで、新しい命の道を歩み続けたいと切に願います。今週もここからそれぞれの馳せ場へ遣わされてまいりましょう。
祈ります。
主イエスが「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てにならえたのですか」と絶叫されるまでに苦悩し、痛んで、血を流して死なれたことによって、私たちが神さまと和解し、新しい命に生きる道をあゆむことができます。神さま感謝します。
一方で、未だに私たち人間の現実の世界では、暴虐、殺意、憎悪、略奪、搾取、蹂躙が繰り返され、イエスさまを十字架にはりつけにした事と同様の罪が絶えません。わたし
たちも決して無関係とは言えません。主よ、私たちの罪をおゆるしください。
あなたが、一番のお望みなっておられることは、すべての人たちが神さまあなたと和解し、新しいに命に与って、主の救いと平和の福音がこの地に満たされていくことと信じます。
どうか、主よ、私たち一人ひとりがあなたの御心を知り、祈り、御心を行なう者となるとができますように、導きお守りください。
今日から受難週に入りました。全世界に主の御救いがもたらされるため、神の御子であるイエスさまが捕えられて十字架へ引き渡される、苦難の7日間。それはエルサレムへの入城に始まり、弟子たちの足を洗われる洗足、そして最後の晩餐。先週はゲッセマネの園における祈り共に与りました。そうして弟子の一人ユダの裏切りによって捕えられたイエスさまは、ユダヤの法廷、次いでローマ総督の前に引き出され、鞭打たれ、嘲りを受け、自ら十字架を負われて、遂に十字架に釘打たれるのであります。
聖書は、イエスさまが十字架にかけられてから「昼の12時に、全地は暗くなり、それが3時まで続いた」と記しています。日が高い真っ昼間というのに全地が暗闇に覆われた。このマタイ福音書の全地という「ゲー」という言葉は、単にユダヤの地だけを指すのではでなく、全世界を意味しています。そのとき暗闇が全世界を包んだという意味なのです。
旧約聖書で預言者アモスは「その日が来ると、と主は言われる。わたしは真昼に太陽を沈ませ 白昼に大地を闇とする」(8章9節)と預言しました。それは、終末に際してやがて来たるべき、救い主の到来を前に、人類が経験するであろう闇でありますが。今日のところでは、終末の預言を彷彿とさせるような闇が全世界を覆うのです。
そして3時頃、イエスさまは十字架上で「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」(わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか)と大声で叫ばれました。
絶望的といえるこの叫びは、今日に至るまで多くの人の信仰の躓きともなってきたのは事実です。イエスは十字架で敗北者の叫びをあげ無残に死んだ。救いの業は失敗に終わったのだという人たちも多いのです。
ユダヤ教でもそうですが。イスラム教もイエスを預言者の一人とは認めても、メシアだとは認めていません。ではどうして私たちはそのようなボロボロになぶり殺しにされた十字架のイエスに救いを見出すのでしょうか?それはまさに神の子であるこのお方が、人間の救いがたいような闇の奥底にまでくだられた。人の深い苦しみ悩みを知られ、耐え難い痛みをその身に負われた。そこに「共におられる」インマヌエルを見るからです。
先日、シリアのアサド政権が反体政派への空爆に毒ガス、枯れ葉剤などの極めて残虐な化学兵器を使用し、その多くの被害者は一般の市民であり子供たちであることがとても直視することのできないような映像とともに報道されました。それから間をおかずして、アメリカ軍がこのシリアのアサド政権の軍事基地に向けて大量の空爆攻撃をしました。人道に反する化学兵器を使用したことへの制裁処置と、その正当性を主張し、日本の安部首相もそのトランプ大統領を支持するとコメントしておられますが。ほんとうにそれでいいのでしょうか。アメリカの空爆によってもシリア市民や幼い子供たちが巻き込まれ貴い命が奪われたことがすでに伝わっています。さらに憎しみが憎しみを生む連鎖が生じ、この機にISの温床となり、テロが増幅していく脅威となっていくことを、ほんとうに恐れ、何とかその闇の方向へ向かわないための道筋が立てられていくようにと祈るばかりですが。遠い国の小さな出来事などではなく、権力や体制の下で、ものの数にしか数えられない、すべて私たちの叫びにつながっています。
「わたしの神よ、わたしの神よ、なぜわたしをお見捨てになったのですか」と絶叫するほどに苦しみ痛まれたイエスさまの叫び。それは、蔑ろにされ、踏みにじられ、排斥されるすべての人々。置き去りにされ、小さくされるすべての人々。そして罪深く肉体的限界を生きざるを得ない人間。それは私たち一人ひとりへの神の共鳴です。ここに私たちは救いを見出すのです。
次いで、前の32節以降のイエスさまが十字架につけられる場面では、そのイエスさまに向けて、人々が代わる代わる「神の子なら、自分を救ってみろ」「他人は救ったのに、自分は救えない。そうすれば、信じてやろう」などと罵倒する者たちがいたことが書かれていますが。
それは厳しい現実世界を見るにつけ、人が「神の救いはどこにあるのか」「神なんかいないじゃないか」という憤りであり、神に反駁するような人の罪でありますけえども。そのような不信の中で、イエスさまは「エリ、エリ」(わが神、わが神)という叫びを聞いた人々は、エリヤを呼んでいると言う者もおり、その一人が「海綿を取って酸いぶどう酒を含ませ、葦の棒をつけて、イエスに飲ませようとし」、他の人々は「エリヤが彼を救いに来るかどうか、見ていよう」と言ったとあります。それはイエスの痛みを和らげるという同情からではなく、イエスが自分から延命を望んでエリヤの助けを求め、エリヤが助けに来るかどうかを試すためにそうしたのです。
物見高に何がおこるか伺う、そうして神を試みるような人もいたわけです。けれどもイエスさまはエリヤを呼ばれたのではなく、酸いぶどう酒も一切受け取られませんでした。その痛みと苦悩をどこまでもご自身に負われ、そして遂に「再び大声で叫び、息を引き取られた」のです。
「神よ、なぜですか」、という問いかけに対して神の答がないまま、最期までその痛みと苦悩を身に負って死なれたのです。
イエスさまはとことん人間のもっとも深い苦悩と痛みを身に負われたということであります。実はここに私たち主イエスを信じている者にとっての救いと平安の根拠がございます。預言者イザヤの書53章5節「彼の受けた懲らしめによってわたしたちに平和が与えられ、彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた」。
「神の子であられるイエスさまがわたしの最も深い苦悩と痛みをその身に共に負われ、死なれた」。「わたしの痛み、わたしの傷が神の子イエス・キリストの痛み、苦しみとつながっている」。この共におられる神だからこそ、わたしたちキリスト者は救いの希望を見出し得るのであります。
さて、イエスさまがそのように息を引き取られた後、聖書は、63節「そのとき(原語では「そして見よ」と感嘆詞)、神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂け、地震が起こり、岩が避け、墓が開いて、眠りについていた多くの聖なる者たちの体が生き返った」と記されています。
「神殿の垂れ幕」は、聖所と至聖所、つまり神殿の聖なる所と神が臨在なさる最も神聖な所とを仕切るもので、年に一度大祭司だけがこの垂れ幕の奥にある至聖所に入ることが許され、民のために罪のための犠牲をささげました。ところが、イエスさまの壮絶な十字架の死によって、この仕切りの垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂けたというのです。ご存じのように聖書はイエスさま以前の旧約とイエスさま以後の新約に分かれているのですが。旧約の時代には人は罪を犯す毎に牛や羊といったいけにえを捧げ、その罪が贖われることを願っていました。これが古い契約です。しかしそれでは罪深い私たち人間の根本的救いにはなりませんでした。しかしそういった旧約の時代が終わり、イエス・キリストの贖いの血による犠牲によって赦しと救いがもたらされた。すなわち新しい契約の時代が到来した。神殿の垂れ幕が真っ二つに避けた出来事はそのことを象徴的に表しているのです。
そのことについてヘブライ人への手紙9章11節にこう語られています。
「キリストは、既に実現している恵みの大祭司としておいでになったのですから、人間の手で造られたものではない、すなわち、この世のものではない、更に大きく、更に完全な幕屋を通り、雄山羊と若い雄牛の血によらないで、御自分の血によって、ただ一度聖所に入って永遠の贖いを成し遂げられたのです。」
さらに10章19節に「わたしたちは、イエスの血によって聖所に入れると確信しています。イエスは垂れ幕、つまり、御自分の肉を通って、新しい生きた道をわたしたちのために開いてくださったのです。」
「新しい生きた道」。それはキリストによる新しい命の道です。今日のところに地震が起こり、墓が開いて、眠りについていた多くの聖なる者たちの体が生き返り、主イエスの復活の後には、都に入って多くの人々に現れた、とございます。
イエス・キリストの贖いの業によって新しい時代、救いの恵みによって新しい命に生きるときが始まったのです。私たちはその新しい契約の救いの時代に生かされているということですね。それは何と幸いなことでしょうか。
さて、イエスの十字架刑を実際に執行した責任者であったローマの百人隊長と兵士たちがここに登場していますが。彼らはこれらの出来事を見て、非情に恐れ、「本当に、この人は神の子であった」と言うのであります。無残にも神に見捨てられたように死なれたイエスさまを、罵り嘲っていた者たちが、「本当に、この人は神のであった」と告白するのです。
それまではユダヤ人、それも大祭司といった人しか神のおられる至聖所に入ることができなかったわけですが。それが十字架の主イエスの血と死を通して、ユダヤ人以外の
異邦人、すべての人が、主の深い御憐れみによって神のおられる至聖所にキリストを通して入れるようになったという大いなる恵みを、このマタイ福音書は私たちに示しているんですね。十字架の受難と死をもって主イエスが私たちに代わりその罪の裁きを受けて死なれた。そのことによって私にも新しい生きた道が、新しい命の道が開かれていることを唯々感謝するばかりであります。
最後になりますが。55節には「また、そこでは、大勢の婦人たちが遠くから見守っていた」と記されています。
十字架の主イエスのその最期まで見守り続けていた大勢の女性たち。「彼女たちはガリラヤからずっとイエスさまに従って来て世話をしていた人々である」とあります。
主イエスと弟子たちとともに神の国の到来を待ち望んで仕えてきたこの女性たちは、主イエスと共に、十字架にかかるほど心を痛め、苦しい思いをしたでありましょう。
次週の話になりますが、復活された主イエスは打ち砕かれた彼女らに、その復活の栄光、神の御救いを顕わされるのです。
旧約の時代には決して聖所に入ることの許されなかった女性もまた、この主イエスによって隔ての幕が取り除かれ、神の至聖所に招き入れられる幸いな人とされたことがここに表明されているんですね。
今日、主イエスの十字架上での御言葉を私たちは頂きました。
使徒パウロは次のように述べています。
「十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなものですが、わたしたち救われる者には神の力です。」
この主イエスのお姿に神の義(ただ)しさと、血を流されるまでの慈愛を仰ぎ見つつ、私たちもまた、来たるべき主が来臨なさる日まで、新しい命の道を歩み続けたいと切に願います。今週もここからそれぞれの馳せ場へ遣わされてまいりましょう。
祈ります。
主イエスが「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てにならえたのですか」と絶叫されるまでに苦悩し、痛んで、血を流して死なれたことによって、私たちが神さまと和解し、新しい命に生きる道をあゆむことができます。神さま感謝します。
一方で、未だに私たち人間の現実の世界では、暴虐、殺意、憎悪、略奪、搾取、蹂躙が繰り返され、イエスさまを十字架にはりつけにした事と同様の罪が絶えません。わたし
たちも決して無関係とは言えません。主よ、私たちの罪をおゆるしください。
あなたが、一番のお望みなっておられることは、すべての人たちが神さまあなたと和解し、新しいに命に与って、主の救いと平和の福音がこの地に満たされていくことと信じます。
どうか、主よ、私たち一人ひとりがあなたの御心を知り、祈り、御心を行なう者となるとができますように、導きお守りください。