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教会設立73年 都会と下町とが交差する大阪のどまん中にある天王寺のキリスト教会 ぜひお立ち寄りください!

ゲッセマネの祈り

2017-04-02 15:06:55 | メッセージ
礼拝宣教 マタイ26章36-46節 受難節Ⅴ

4月に入り大阪のサクラ開花宣言は?駐車場のサクラは5%咲きくらいでしょうか。今年は例年とは異なり関東が先に開花宣言し、名古屋・福岡の開花となりましたが大阪はもう数日後でしょうかね。次週の礼拝後にはゆかり☆ゴスペルさん、YOSHI BLESSEDさん他のコンサートが予定されております。ぜひお時間を作ってご参加くださると大変恵まれるかと存じます。

さて、レントの時、主イエスのお言葉に聞き、祈りつつ過ごしてきましたが。本日は「ゲッセマネの祈り」の箇所から、御言葉に聞いていきたいと思います。
先週の聖書教育のところでしたが。イエスさまはこのゲッセマネの祈りの前に、12人の弟子たちと一緒に食卓につかれ、ご自身の流される血と裂かれる肉による救いを示す主の晩餐を行なわれました。宣教後に主に晩餐が行なわれますが。
その際イエスさまは、「弟子の一人がわたしを裏切ろうとしている」と指摘されたのですが。不安になった弟子たちは、「主よ、まさかわたしのことでは」と代わる代わる言い始めた、と記録されています。そのひとりとはイスカリオテのユダのことでしたが。その後イエスさまは弟子たちが「今夜、あなたがたは皆わたしにつまずく」と言われます。それは弟子たちが一人残らず皆イエスさまを見捨てて逃げ去る、という予告でした。

このイエスさまの言葉に対してシモン・ペトロは、「たとえ、みんながあなたにつまずいても、わたしは決してつまずきません」と宣言します。するとイエスさまはペトロに「はっきり言っておく。あなたは今夜鶏が鳴く前に、三度わたしのことを知らないと言うであろう」と言われるのです。ペトロはむきになって「たとえ、御一緒に死なねばならなくなっても、あなたのことを知らないなどと決して申しません」と答えると、弟子たちも皆、同じように言った、とここに記されています。

そういうことがあって、今日の箇所のゲッセマネの出来事、遂にイエスさまが捕えられ十字架の道を歩んで行かれることになっていくのであります。

「祈りが変えられる時」
イエスさまは弟子たちと一緒にゲッセマネといわれる所に来られます。
それはご自分が捕えられて裁きの場へ引き渡され、十字架につけられる受難と死を前に、父の神に祈るためでありました。
ゲッセマネとは「油をしぼる所」という意味があるそうですが。ここでイエスさまは、
いわば身をよじるように苦悶しつつ、血の涙と汗をしぼり出すような祈りをなさったのであります。
ここでイエスさまは3度父の神に祈られました。「父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください」。それがイエスさまの正直な思いでした。
杯は、すべての人間の罪の裁きを一身に負う苦難を象徴するものです。
イエスさまができることなら、そのような十字架にかけられる苦難の道ではなく、他の救いの方法はないのでしょうかと、率直に自分の願いを訴え祈られます。けれそも、その直後に「しかし、わたしの願いどおりではなく、御心のままに」とおっしゃるのです。さらに2度目、3度目には「父よ、わたしが飲まないかぎりこの杯が過ぎ去らないのでしたら、あなたの御心が行われますように」と、祈られています。

「あなたの御心が行なわれますように」。
イエスさまはこのゲッセマネのしぼり出すような祈りの中で、父の神の御心に従いゆく道、すなわち十字架のご受難と死による救いの業を成し遂げるその杯を受け取っていかれるのであります。
私たちの救いは、それは又、このような父なる神の断腸の思いともいえる御心によって成し遂げられたことを忘れてはならないと思います。

大阪教会では今年度「祈り」をテーマに掲げていますが。そもそも祈りとは何でしょうか?いろんな祈りがあるでしょう。それはとても一言で言い表わせないですね。むしろ言葉に言い表せない思いだからこそ祈りなのかもしれません。どんな人も、たとえ特別に信仰をもたない人であっても、祈る気持ち、実際に祈らずにいれない思いというのはあります。その折に触れて湧いてくるでしょう。困ったことが起ったり、強い願いを持った時などもそうです。春の高校野球の昨日大阪の高校同士の決勝戦が行なわれ優勝校が決まりましたが。そのテレビ中継で応援席で祈っている学生の姿が映しだされましたが。まあそれも祈りに違いありません。ただ、祈りというものが、神に自分の願いを要求するばかりになっているなら、それは一方通行であり、そこに神との生きた関係性は築かれていきません。願望が満たされなければ神はいるのかと不満に思い、叶えば神を忘れてしまうでしょう。

イエスさまは率直に「できることなら、この杯を過ぎ去らせてください」と願われました。けれどもあえて「わたしの願いとおりではなく、御心のままに」「あなたの御心が行なわれますように」と祈られたんですね。それはこの世界を創造し、すべ治められる父の神へんの全幅の信頼と確信が、まさに祈りによって揺るぎなく築かれていたからでしょう。

イエスさまはかつて弟子たちからどのように祈ったらいいのですかと尋ねられた折、「父なる神さまの御心が天におけるように地の上にも行なわれますように」と、祈るようにおっしゃいました。父の神の御心がどこにあるのかということを尋ね求める時、信頼と確信、すなわち信仰が与えられていくのだと思います。

私たちは主に祈るとき、「わたしの願い」と「天の父の御心」が占める割合はどうでしょうか?それはきっと混在しているでしょう。けれども、祈りの対話を通して、生きた神さまとの関係が深められ、おのずと祈りは変えられ、御心に生きる恵みの御業を体験する者とされていくのではないでしょうか。

「わたしと共に目をさましていなさい」
次に、先にも触れましたが、イエスさまは弟子たちと一緒にゲッセマネに来られます。
その弟子たちとは、「わたしは決してつまずきません」「あなたのことを知らないなどと決して申しません」と豪語した、ペトロをはじめ弟子たちすべてのことです。
イエスさまはこの弟子たちが皆、ご自分を置き去りにして逃げることを重々ご承知のうえで一緒に行かれたのです。

さらにイエスさまは、弟子のペトロ及びゼベダイの子ヤコブとヨハネの3人の弟子たちを伴い祈り場へと向かわれました。その時イエスさまは悲しみもだえ始められ、この3人の弟子たちに「わたしは死ぬばかりに悲しい。ここを離れず、わたしと共に目を覚ましていなさい」と言われて、一人祈るために少し進んで行って、うつ伏せになって祈られました。イエスさまは神のひとり子としての権能をお持ちのお方であられます。それが弟子たちの前で悲しみもだえ「死ぬばかりに悲しい」と口になさるのです。

祈祷会の時に、ある方が以前、大変大きな問題を抱えておられた教会のある牧師さんが、数名だけの祈りの場で「わたしは死にそう」とご自分の弱さを吐露された時、「その牧師に対してがっかりした」という経験をお話されました。「牧師は教会で祈りなさい。信仰、信仰と言っているのに、自分に災難が降りかかるとこんな事を言うなんて」と思ったそうです。けれど、その後この方が今日の箇所のところを読まれて、イエスさまでさえも「わたしは死ぬばかりに悲しい」とおっしゃられたということを知った時、牧師であっても一人の人間として苦悩し、一緒に祈ってほしいと願うのは当たり前だなぁと考え直したそうです。

イエスさまはこの聖書に記されたとおり、人の弱さを身におびた方でした。けれどそれはヘブライ人への手紙4章15節(口語訳)に「この大祭司(イエスさま)は、わたしたちの弱さを思いやることのできないような方ではない。罪は犯されなかったが、すべてのことについてわたしたちと同じように試練に遭われたのである」と記されていますが。そのとおりイエスさまはご自身のその苦しみによって私たちの抱えている弱さや苦悩をも知っておられるお方なのです。ここに私たちの救いと平安がございます。
一方、「自分たちは決してつまずきません」と豪語した3人の弟子たちは、イエスさまが戻ってくると「眠っていた」とございます。さらにイエスさまが2度祈りに行かれて戻ってくると、その2度とも眠っていた。つまり弟子たちはイエスさまが3度祈っている間終始ずっと、「眠っていた」ということですね。確かに霊は燃えていても肉体は弱いのです。人の決意や表明は何ともろく、弱いものなんでしょうか。

このゲッセマネの祈りは、マルコ福音書にも同様に記されているのでありますが。そのマルコ福音書では、イエスさまは弟子たちに単に「目を覚ましていなさい」とおっしゃっているのです。ところがこのマタイ福音書では「わたしと共に目をさましていなさい」と、「共に」ということが強調されているのですね。

イエスさまが「わたしと共に」とおっしゃっているのは、まさに十字架の苦難と死を前に「人としての弱さを身にまとい、もだえ悲しみ祈る。そのわたしと共に」ということです。弟子たちは、自分の頑張りや使命感によってイエスさまに従うことができると思い込んでいました。しかし、そういった熱意だけでは人は燃え尽き、つまずき、神の前に目を覚ましていることができなくなってしまうのです。
そうならないために出来ることは唯一つ。弱さや欠けももろともに、すべてを知っておられる主イエスと共にある、ことです。

私たち人間の抱える弱さやもろさ。イエスさまはそれらを自らゲッセマネの祈りにおいて、その身に担われたのです。共に負われたのです。
そうして十字架の苦難と歩んでいかれました。その弱さの先に私たちの救いの道が開かれているのです。そのイエスさまと共に生きる、共に目を覚まし祈り続ける。その主イエスと共に神の御心に生きる私たちでありたいと切に願います。今日もここからそれぞれの祈りの馳せ場へと遣わされてまいりましょう。祈ります。

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