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日本バプテスト大阪教会へようこそ!

教会設立73年 都会と下町とが交差する大阪のどまん中にある天王寺のキリスト教会 ぜひお立ち寄りください!

祈り・真剣に向き合う

2016-09-11 20:09:58 | メッセージ
礼拝宣教 列王記下4章8節-37節 

列王記下4章には預言者エリシャの4つの奇跡が記載されておりますが。そのどれもが日常的な問題、病や飢えや欠乏、生と死に対してなされたものであることがわかります。
神の奇跡の御業は実は私たちの身近な問題の中に現わされるということです。
その中の一つは、預言者の夫を亡くした貧しい女性の助けを求める叫びに応え、与えられたものでした。債権者が来て肩代わりに2人の子供を連れ去ろうとしているという、まあ大変な状況でしたが。
エリシャはその女性に、近所から沢山の器を借りてくるように伝えます。彼女の家にはたった1つ、油の入った壺があるだけでした。彼女がエリシャの言ったとおりその1つの壺から油を注ぐと借りてきた器すべてに油がいっぱいになります。それを聞いたエリシャは、その油を売り、負債を払うように伝え、残りの油で生活していくことができる、と保証します。こうして2人の子どもたちは奴隷に取られることなく救われたという奇跡でした。
そして本日読みました箇所は、シュネムの地に裕福な婦人がおりまして、エリシャを神の人として待遇していたのですが。彼女に子供が与えられるもある日突然頭が痛いといって母親の膝の上で死んでしまった。その子供がエリシャの取りなしの祈りによって生き返ったという2つ目の奇跡であります。ちなみにこのエピソードの後には、死に至らす毒ウリの毒を消し、食することがでたという3番目の奇跡、更にわずか20個の大麦のパンで100人もの人たちが食べ、おなかを満たすことができた奇跡と続きます。
忘れてはならないのは、これらの奇跡が44節に「主の言葉どおり」とありますように、それらのすべてが主によってなされたということであります。
エリシャは取りなし、祈り、御言葉を伝えますが、奇跡の御業は神ご自身によって起こされるということです。主なる神こそが命の源であり、すべてを司るお方なのです。

さて、本日は祈りがテーマであります。今日の箇所の奇跡は、最初の預言者の妻に起こった奇跡と共通していることがあります。
それは、どちらも「戸を閉じ」(戸を閉め)て、という言葉が出てくることです。戸を閉めるとは外との関係を遮断するということです。4節でエリシャは預言者の妻に言います。
「戸を閉じて子供たちと一緒に閉じこもり、器に油を注ぎなさい。」
彼女はエリシャのもとから出て行くと、戸を閉め子供たちと一緒に閉じこもり油を器に注いだ。一方シュネムの婦人の話では、21節にあるように「死んだ子供の体をエリシャの部屋に横たえ、戸を閉めて出て行きます。そして彼女は夫にさえその事は言わず、まっしぐらに神の人エリシャの元に来て足にすがりついたとあります。そしてさらに33節には、エリシャが「死んで寝台に横たわっていた子どもと二人だけになって主に祈った」とあります。その時彼は外との関係を遮断して死んだ子供を見ると、中に入って戸を閉じ、2人だけになって主に祈った」とあります。このようにいずれも、外との関係を一時遮断し、真っ直ぐに、一心に主に向かったのです。

新約聖書のマタイ6章6節で、主イエスさまはこうおっしゃっています。「あなたが祈るときは、奥まった自分の部屋に入って戸を閉め、隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れたことを見ておられるあなたの父が報いてくださる。」
イエスさまは大変多忙な中、しばしば山に退かれて祈られたのです。それは人の思惑が渦巻く雑然とした世界、その外界を遮断して一時山に身を隠して、集中して一対一で「父の神に祈る」ためであったのですね。神の人と呼ばれたエリシもそうでした。彼も神の助けなくして何事もなしえないことを知っていたがゆえに、神との深い交わりをもつため戸を閉め、主に祈ったのです。
 私たちも又、様々な問題の前に右往左往するしかない時があります。けれども、そこですべてを司っておられる主なる神の前にまず出て、主と向き合うことが大切なのではないでしょうか。奥まった自分の部屋で、差し向かいで主に一心に祈り、対話する時間を持つことの意義を今日のこの箇所から受け取っていきたいと思います。

さて、エリシャは真剣勝負で主に祈り、「死んで寝台の上に横たわっていた子供の上に伏し、自分の口を子供の口に、目を子供の目に、手を子供の手に重ねてかがみ込んだ」とあります。すると「子供の体は暖かくなった」と。そしてさらに、エリシャが家の中をあちこちと歩き回ってから、再び寝台に上がって子供の上にかがみ込むと、子供は7回くしゃみをして目を開いた」というのです。

なんとも不思議なお話のよう思えますが。そこに流れているメッセージとは何でしょうか。
戸を閉じて、真剣に神と向き合って祈ったエリシャは、今度はその子供に相対して口と口、
目と目、手と手を重ね合わせて真正面に向き合っているということです。そのとき子供の体は暖かくなりました。これはある意味人のぬくもりが伝わったというふうにも読めます。本気で真剣に向き合うと、人の息づかいとかぬくもりとかが伝わるものです。けれどもそれだけでは命は取り戻されません。
エリシャはあちこちと家の中を歩き回ったとありますが。この落ち着かない様子はエリシャのこの時の心境を表しているようにも思えます。命を司るのは神であり、人がどれだけ努力したとか、長時間祈ったとかではどうにもできないんですね。何だ、先ほどの話と違うじゃないかとお思いになるかも知れませんが。神は、イエスさまがおっしゃったように祈りを確かに聞いておられるのです。それは間違いないのですが、最終的決定権は人がどんなに祈ろうとも人にではなく神にあるということです。エリシャはこの時、その事実に直面せざるを得なかったのではないでしょうか。そうして神にゆだね、謙遜な心で今一度その子に身を重ねた時、人の思いを遙かに超えてお働きになる神の力によってその子の命は取り戻され、7回くしゃみをして目が開いたというのであります。
なぜくしゃみなのかと思いますが。くしゃみは息を吸わない限りでません。
その息とはギリシャ語でプネウマ。それは神が人を創造された時に神ご自身の息を吹きかけることによって人は生きるものとなった、と創世記に記されています。7は完全数、つまり神の息がこの子供のうちに完全に吹き入れられたということですね。くしゃみは生きているという証です。

今日のお話の中で、エリシャから杖を預かった従者のゲハジが、「杖をその子供の顔の上に置いたが、声も出さず、何の反応もなかった」とありますが。一体エリシャとの違いは何であったのでしょうか。彼はおそらくエリシャの杖に力があると、思い違いをしていたのではないでしょうか。真の力は杖にあるのではなく、命の基なる神にあります。
私たちも世にあって、このような魔法の杖を拝む誘惑や罠が満ちています。神の人エリシャ様の杖なら万能で何でも思い通りに叶う。そういうものに私たちも心引かれやすい者です。もしここで、その杖によって子供が息を吹き返したなら、神の人エリシャの霊験あらたかな杖として崇められたでしょう。しかし神はそうされませんでした。しかしそのことによってエリシャは神の御言葉を伝える預言者として祈り、ゆたかに働くことができたのです。

今日私はこの4章から「祈り・真剣に向き合う」という宣教題をつけましたが。この箇所から、私たちもまたエリシャのように、まず主の前に謙虚にされ、主の栄光が現わされることを求め、祈る者とされたいものです。主は私たちが真剣に祈る祈りを聞いていてくださり、何が最善であるかをご存じで、万事が益として働くご計画をお立てになることが出来るお方です。また主は、私たちに必要なことを示して、それを受けとめたり、行うために必要な愛と力とを備えてくださるでしょう。

最後に今日の箇所から、戸を閉じて神の前に祈る。神と一対一で向き合い祈る大切さについて聞いてきました。それは社会と断絶することや、世の中から逃避することではありません。それとはまったく逆に、世にある私たちが主にあって生きるためであり、又、様々な関係性の中で共に生きるものとなるためであります。そのためにこそ、戸を閉じて一人になってまず主と向き合い、主に祈って主の御言葉に聞く必要があるということなのです。そうして人の間に遣わされていく者となるのです。でないと、真の神の愛と力を受けたり分かち合ったりすることはできません。

D.ボンフェッファーは「共に生きる生活」という名著の中で、「交わりと孤独」についてこういう言葉を残しておられます。
「多くの者は、ひとりでいることを恐れて、交わりを求める。彼らはひとりでいることに耐えられず、その焦燥感ゆえに人々の中へ入っていくのである。・・・中略・・ひとりでいることのできない者は、交わりに入ることを用心しなさい。神があなたを呼んだ時、あなたはひとりで神の前に立ったのではなかったか。ひとりであなたはその召しに従わなければならなかったのではなかったか。ひとりであなたは自分の十字架を負い、戦い、祈らなければならなかったのではなかったか。・・・中略・・・・
 しかしこれとは逆の命題もまた真実である。交わりの中にいない者は、ひとりでいることを用心しなさい。あなたは教会の中へと召されたのである。その召しはあなたひとりに向けられたものではない。あなたは、召された者の共同体の中で、自分の十字架を負い、戦い、祈るのである。あなたはひとりではないのだ。われわれは、交わりの中にいる時のみ、ひとりでいることができる。そして、ひとりでいることのできる者だけが、交わりの中にいることもできるのである。」

何とも含蓄のある言葉ですが。私たちもまた、主の前に一人で、主と向き合い祈るときがほんとうに必要なのです。忙しく慌ただしさの中にあればあるだけ、ひとりになって心を主に向けて祈る時が必要なのです。そこからまた主に召しだされた者として、問題や課題と向き合い、さらに隣人と向き合う愛と、主に取りなし祈る力を頂くのであります。

新会堂が建って11月で3年になろうとしていますが、ほんとうに新しい会堂が与えられたことによって、主のすばらしい御業を日ごと見せていただき感謝なことです。けれども本当に幸いなのは、主イエスの救いと神の愛をここで共に確認できる幸いがある。又、主に祈りとりなし合う神の人に取り囲まれているという幸いがあるということです。
私たち大阪教会が今後さらに「主に祈る」教会、又、祈りとりなすひとりひとりとなって主の栄光を表すことができますように。その祈りをもって、今週もここからそれぞれの場へ遣わされてまいりましょう。祈ります。

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