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日本バプテスト大阪教会へようこそ!

教会設立73年 都会と下町とが交差する大阪のどまん中にある天王寺のキリスト教会 ぜひお立ち寄りください!

共におられる神

2015-12-20 17:14:37 | メッセージ
クリスマス礼拝宣教 ヨハネ1章14節 

メリークリスマス。救い主イエス・キリストのご降誕を心からお祝い申し上げます。
キリスト教会にとって1年で最も大きな祝祭の一つでありますクリスマスを共にお祝いができほんとうにうれしく思います。

2015年もあと残すところとなり、新聞テレビなどでは今年一年のニュースや出来事を振り返る記事や番組が多くなりました。今年も世界中で、又、この日本でも傷ましいテロや事件が起こりました。
今年は特に政治のことを代議士まかせにせず、自分のことがらとして関わっていく新しい動きが若い人たちから起こった年になりましたね。私もいてもたってもいられず国会前に足を運びましたが。先日清水寺の住職が恒例の今年の一文字を筆で書いて披露したのが「安」でした。「安全保障関連法案」における与野党の対立や国会での強行採決等一体何を信じればよいのかという国民の「不安」がそこに表されているとのことでした。又、テロや異常気象、大手企業の不正、警察官や教師の不祥事等、生活上の「安」全が揺らいだこともあったようです。私はもっとストレートに「危」険や「危」機の「危」と書かれた方がよいとも思ったのですが、しかしこの「安」には首相の安が良くも悪くも読み取れて、何ともよく考えられた一文字ですよね。
クリスマスは毎年12月のこの時期に世界中でお祝いされるようになっています。呼び名をホーリーディ聖なる日として宗教を超えての祝日となっているようですが。今日はそのクリスマスの本来の意味をヨハネ1章14節「言は肉となってわたしたちの間に宿られた。」という御言葉を軸に、聞きとっていきたいと思います。
 
まず、このヨハネ1章1-18節はヨハネ福音書のメッセージが凝縮された大変重要な箇所であります。それは旧約以来預言者らに臨み語り継がれてきた、神の救いの約束の言葉が御子イエス・キリストによって実現された、その事がここに表されているからです。以前に申しましたように、この1節から本日の14節迄に何度も「言」という一文字が出てまいりますが、その「言」を「イエス・キリスト」と置き換えて読まれると、そのことが随分理解できると思います。
この14節の「言」をイエス・キリストと置き換えますと、「イエス・キリストは肉となって、わたしたちの間に宿られた」というように、神の言、神のご意志であるイエス・キリストが人間の身をまとわれ、わたしたち人の営みの間に住われることによって、御神の恵みと真理が世に現わされた。それがクリスマスなのです。

先程歌いました讃美の歌詞にこうありました。
「み栄えとみ座を去り世に来られたみ子 宿るべき部屋もなく祝う人もなし。住みたまえイエスよわたしの心に」
主イエス・キリストは私たちが世にあって人間としての弱さや貧しさ、又、苦しみや悩み、痛みや悲しみを自ら共になさり、私たちのうちに宿るるために、この地上に来てくださったのですね。その事実が主イエスのご降誕から十字架の苦難と死、そして復活に至るまで証しされている、それが福音書であります。

また、この「イエス・キリストがわたしたちの間に宿られた」の「宿る」という言葉には、幕屋(テント)を張るという意味があります。旧約聖書の出エジプトの時代、イスラエルの民はシナイの荒れ野の道を辿ることになります。その荒れ野における寄留の旅の途上、彼らは「幕屋を張って」主を礼拝したのです。それは聖所と呼ばれるものでした。彼らは荒れ野を行く先々で、主が自分たちのうちに住んでくださることを幕屋を張って確認しつつ旅を続けたのです。
話は変りますが、「テント」を張るということで今日まず思い浮かびますのは、難民の人たちのことであります。今年は特にシリアの情勢が悪化し、数百万単位の難民とならざるを得ない人たちが出ております。陸路海路とあらゆる手段を尽くしてシリアを逃れてきた人たちがヨーロッパ、アジア、世界へと、ほんとうに生死を賭けた旅路を続けておられます。自分の住んでいた場所を奪われて行き場のない人たちのその思いは想像を絶します。パリのテロの事件以後、残念なことにそうした難民の人たちの状況はさらに厳しいものとなり、受け入れを積極的に表明していた国々は、その間口を閉ざすようになっています。さらに追い打ちをかけるように報復としての対テロの空爆がシリアでは激化し、その結果、家族や家生活のすべてを失った新たな難民が出てしまうという悲劇が繰り返されているのです。報道も規制されているのか、現地の情勢があまり伝えられなくなってきました。世界がこの事に沈黙しているその間にも、飢えと寒さ、不安と絶望の暗闇の中に放り出され棄ておかれたままの人たちがおられます。これが私たちの世界の現状であります。その場限りの小さなテントだけでなく、彼らを迎え入れる幕屋が日本も含め世界の至るところに張られ受け入れられるように願うばかりです。

さて、「イエス・キリストが肉となって、わたしたちの間に宿られた。」
それは、具体的に主が世界の歴史の中で、人の苦しみを体験され、病を知って、自分から人の弱さ、無力さを経験されたということです。そればかりか、人に憎まれ、疎んじられ、蔑まれ、遂には裏切られて、嘲りの中、神に見捨てられた者のように十字架に死なれた、その生涯を指しています。
そのイエス・キリストのご生涯をして、この福音書の筆者は「その栄光を見た」と、イエス・キリストの苦難と死の中に「栄光を見た」と言うんですね。14節に、「わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた」とありますが、それは何か華々しい功績や働きの中に栄光を見たというのではなく、私たち人間の罪と弱さのただ中に、共におられるそのお方の中に、確かな神の栄光を見たということであります。
このようにヨハネ福音書の記者をはじめ、イエスの御救いを信じる者には、私の人生、私たちの生きる生のただ中に、幕屋を張り、臨在される神を確認することができるのです。

救い主イエスさまの誕生に関して、マタイ福音書には次のように記されています。
1章23節「見よ、おとめが身ごもって男の子を生む、その名はインマヌエルと呼ばれる。」この名は、「神は我々と共におられる」という意味である。
それは、ヨハネ福音書の「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた」と、いう言いかたとは違いますが、どちらも救い主イエス・キリストは「わたしたちと共におられる神」であるということですね。
 先程、難民の方々のことを申しましたけれども、幕屋が張られることを必要とするのは何も彼らだけに限られません。人、みな誰もがそれを必要としているのではないでしょうか。私たち人間はみな何がしかの弱さを抱えているものです。けれどもそれを意識し、表面的に見せるたりすると、社会で生きるのは大変ですから、心の奥底に抑え込み、外には隠して普段は仕事や生活しているんですよね。しかし、何か大きく揺さぶらされるような出来事や経験をしますと、たとえば大病になるとか、あるいは身近な人との別れや死とか、大きな試練や挫折に遭いますと、「自分ってほんとうに無力で弱い者だ」、と改めて気づかされるのです。
9節に「その光は、まことの光で、世に来てすべての人を照らすのである」とありますように、すべての人の間に主イエス・キリストは幕屋を張るため、共に住まわれるためにお生まれになったのです。
私たち一人ひとりの弱さをイエス・キリストが共に担い、私たちの間に幕屋を張り、共に住んでくださっている、この大いなる恵みを喜び感謝します。
 先に紹介しました讃美歌の5節にこうあります。
「勝利の日来るとき語りませイエスよ 『わがそばに居場所あり来り休めと』と 喜びて迎えん主イエスの来るを」

クリスマス礼拝の宣教を閉じるあたりヘブライ2章17‐18節をお読みいたします。
「イエスは、神の御前において憐れみ深い、忠実な大祭司となって、民の罪を償うために、すべての点で兄弟たちと同じようにならねばならなかったのです。事実、御自身、試練を受けて苦しまれたからこそ、試練を受けている人たちを助けることがおできになるのです。」 
クリスマスの恵みを心から感謝し、共に分かち合ってまいりましょう。
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