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日本バプテスト大阪教会へようこそ!

教会設立73年 都会と下町とが交差する大阪のどまん中にある天王寺のキリスト教会 ぜひお立ち寄りください!

モーセの生い立ち

2015-06-14 18:12:29 | メッセージ
礼拝宣教 出エジプト記1章22節~2章10 節

本日は、一週早めての「父の日」をおぼえての礼拝をささげています。先日天王寺区の広報誌に、「父の日は、アメリカのワシントン州に住むジョン・ブルース・トッド婦人が6人の兄弟姉妹を男手ひとつで育ててくれた自分の父を敬い、教会で父の誕生日を記念して6月第三日曜日に礼拝を捧げたことが起源となった。すでにアメリカでは5月第二日曜日が母の日として制定されていたが、6月第三日曜日は、父を敬う日として1972年にアメリカの祝日になり、今日に至っている」というコラムに目が留まりました。区の広報誌に載るほど、父の日はメジャーなのですかね。デパートなどでもキャンペーンが催されているようですが。もいずれにしろ父の日も又キリスト教会の祈りから起こったのであります。
それは、モーセがシナイ山で神から授かった十戒の中に「あなたの父母を敬え」という戒めがございますように、神を畏れ敬う人たちがその事をずっと大事にしてきたからでしょう。そして何よりも、聖書は天地万物の造り主であられる神さまは、すべての人、すべての被造物造の父なるお方であることを教えています。私たち一人ひとりはかけがえのない神さまの子どもとして造られているのであります。イザヤ書64章7節にこういう御言葉がございます。「主よ、あなたは我らの父。わたしたちは粘土、あなたは陶工 わたしたちは皆、あなたの御手の業。」天の父なる神さまを敬い、その作品として生きる私たちでありたいものです。

今日はまた、「バプテスト病院ディ」として、バプテスト病院と同看護学校のことをおぼえる礼拝でもあります。先程、Nさんから、そこで学ばれ、看護師として新生児特定集中治療室で、まさにいのちをつなぐという尊い勤めをなされた姉妹の証を伺うことができ、感謝でした。

先週はエジプトの王、ファラオの陰謀によって「生まれてくるヘブライ人の男の子は皆殺すように」と命じられた助産婦たちの、ハラハラするような場面をご一緒に読みましたが。それは「助産婦たちは神を畏れていたので、ファラオの命令に背き、生まれて来るいのちを守った」というお話でした。
本日のお話では、さらにファラオがその後、全国民に、『生まれた(ヘブライ人の)男の子は、一人残らずナイル川にほうり込め。女の子は皆、生かしておけ』と命じたというのです。もはや秘密裏にではなく公なかたちで、すべてのヘブライ人男児殺害の勅令が出されるのです。そういったヘブライ人たちの苦難と危機を背景に、「モーセの生い立ちの」記事が書かれているのですね。
ここでもその大きな働きをなすのが、モーセの母、姉、そしてファラオの王女という3人の女性たちであります。まさにこの三人の女性たちも先の助産婦に引き続き、リレー走者のようにいのちをつないでゆく尊い役回りを果たすのであります。
そのいのちのリレーによってモーセが、ひいては囚われのイスラエルの民が救われ、解放されてゆく壮大な神のご計画へと導かれてゆくのです。

今日の箇所は、まず苦難と危機に直面するヘブライ人の中の、一家族に焦点をあてます。ここにモーセの父母の名前は記されておりませんが、6章20節によれば、父はアムラム、母はヨケベドであったことが分かります。モーセには又、後にイスラエルの祭司として立てられる兄アロンと姉のミリアムの兄弟がいたのです。姉と兄ともヘブライ人男児殺害令が出される前に生まれ、ある程度成長していたのでしょう。

さて、まず、幼子のいのちをつなぐ役回りなした三人の女性たちについて見ていきましょう。母ヨケベトでありますが。彼女はおそらくあの助産婦がとり上げたであろう、「その子がかわいかったのを見て、三ヶ月間隠しておいた」とありますが。泣き声も大きくなり、見た目も男の子とわかるようになってきたのでしょうか。もはや隠しきれず、パピルスの籠にアスファルトとピッチで防水し、その中に男の子を入れ、ナイル河畔の葦の茂みの間に置いたのであります。そこはエジプトの裕福な人たちが水浴に来るところでした。幼子の入った葦の籠に防水を施し、何とかその小さい赤ん坊のいのちが守られ、生き続けるようにと祈り願う母親の心情はいかばかりだったことかと思いますが。

又、その子の姉のミリアムも生まれて来た弟を愛おしく思い、心配でたまらなかったのでしょう。葦の茂みから弟を案じながら、その様子をそっと伺っていたのです。
彼女は、身分があり裕福そうなエジプト人の女性が葦の籠を見つけ、その中をのぞきこむのを、どれほど息をつまる思いで見守っていたことでしょう。けれども、その女性が赤ん坊をふびんに思っている様子を見たミリアムは、決断し勇気をもってその女性の前に出て、「この子に乳を飲ませるヘブライ人の乳母を呼んで参りましょうか」と申し出るのです。彼女自身危険があったにも拘わらず、何とかその子が生きながらえるためにという一念から、このような行動に出るんですね。

そして、数奇な運命とはこういうことをいうのでしょう。その女性は何とファラオの王女であったのです。彼女は、ナイル湖畔の葦の茂みの間に置かれた籠の中に泣いている男の子を見たとき、「ふびんに思った」と記されています。その赤ん坊の様子や産着、状況を見て察知し、「これは、きっと、ヘブライ人の子です」と言ったというのです。その泣いている男の子のおかれた状況をおもんばかって王女はふびんに思ったのですね。さらに、王女はその子と関わりがあると思われる女性が、「ヘブライ人の乳母を呼んで参りましょうか」と申し出たとき、その背後にある状況をも察して、「これは何とかしなければ」と心動かされたのではないでしょうか。「そうしておくれ」と答えます。
これはまさに、ファラオの「ヘブライ人の男の子を殺せ」との命令に背くということでした。そう単純な事柄ではないことは分かっていました。けれども、いのちを愛おしむ思い。その単純で純粋な思いが、予想される困難や不安に勝っていたんですね。彼女は勇気をもって幼子が生き続けることを願い、このような決断をしたのです。

実に二人の助産婦から、この幼子の母、姉、さらにファラオの王女という女性たちのいのちをつなぐリレーによって、その子のいのちは守られ、生き続けることができたのであります。
私たちもそうですが、一人の人間のいのちは、いろんな人の支えによって守られ、育まれているということを今日の箇所をとおして改めて気づくことができます。そこには損得勘定を度外視した、いのちを愛おしむ思いがあります。すべてのいのちの源であられる神への畏敬の念と、そこから来るいのちの尊厳を思う心。それは時に見える形で、又、モーセの母が祈り、姉が見守り、王女が託したように、目には見えないですが、尊いそれぞれのあり方で紡がれてゆくのですね。私たち一人ひとりも気づかないうちにも、そのようにして生かされていることを感謝したいと思います。

さて、私は今日の箇所からもう一つ示されることがありました。
それは、これも人の目には見えませんが、隠れたる神さまの業についてであります。

男の子の母親がその子を三ヶ月間隠しておいた理由について、聖書は「その子がかわいかったのを見て」と記されています。使徒言行録(7章20節)には、「神の目に適った美しい子」であったからだ、とそのように記されています。もちろん男の子は見るからに可愛かったのでしょうが。大切なのは、その小さな命が「神の目に適った子」であるという事ですね。
それは、ファラオの王女が、ナイル湖畔の葦の茂みの間に置かれた籠の中にその子を見つけた時も、王女はその子の中に「神の目に適った者」としての存在を見たのです。その出会いと関わりはまったく偶然のように思えますが、実に神さまのくすしきご計画、神の摂理であったのです。

水曜日の聖書の学びで教えられたことですが。王女が仕え女をやって、籠の中にいるその子を「取って来させた」と記されていますけれども。この「取って来させた」というギリシャ語の原意は、「選び取られた」という意味があるのですね。まさに、その子は「神の目に適う」ものとして「選び取られた」存在であったのです。

さらに、その子をファラオの王女は、養子に迎え自分の子とします。そしてその子に「モーセ」と名付けるのですが。その名前の意味は「水の中からわたしが引き上げた(マーシャー)」というところから、そのヘブライ語読みの「モーセ」(マーシャー)と名をつけたということであります。普通、自分の子としたのならエジプト読みのアメンホップとかトトメスなどと名前をつけることもできたはずです。しかし、王女はそうしなかったのですね。その子をヘブライ人であるがまま迎え、畏敬の念をもってモーセと名前をつけたのではないでしょうか。その子の中に神の目に適った者として輝きを見たからです。
実はこの「水の中からわたしが引き上げた」の「引き上げた」にも、「選び取られた」という意味があるのです。このモーセの名には、ナイル川に象徴される世の力と支配からイスラエルの人々を救い出すために「選び取られた者」という、隠れたる神さまのご計画が示されているのですね。
このところを読む時、わたしはイエスさまがバプテスマのヨハネからヨルダン川でバプテスマをお受けになった時の場面が思い起こされます。マルコ1章10節-11節にこう記されています。「水の中から上がるとすぐ、天が裂けて霊が鳩のように御自分に降って来るのを、御覧になった。すると、『あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者』という声が、天から聞こえてきた。」
イエスさまは神の心に適う者、神の子として父の神の御業を遂行なさる召命をお受けになるのです。モーセもこのようなかたちで、神の御心に適う者として、神の救いの御業が実現されるために選ばれ、聖別されるのですね。ここに隠れたる神さまの御業、ご計画を見ることができるのです。
 私たちキリスト者も又、小さい者でありましても、主イエスの尊い死をもって贖い取られた者である事を忘れることのないよう、主の御心に応えて歩んでゆきたいものです。

今日のモーセの生い立ちの記事から示されますのは、神さまのご計画を脅かすような勢力がたとえあったとしても、3人の女性たち、ファラオの王女まで主はお用いになり、そのいのちを守り、後の大きなご計画へと導かれるということであります。
私たちも日々の生活で、恐れや不安に襲われることがあるかも知れませんが。このいのちの主に信頼し、聞き従っていきたいと、心から願います。隠れたる神さまのくすしき御業を見ていく者とされていきたいと思います。
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