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日本バプテスト大阪教会へようこそ!

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隣人となる

2015-02-08 14:59:26 | メッセージ
礼拝宣教 ルカ10章25~37節 

1月から恒例の釜ヶ崎キリスト教協友会主催する「越冬夜回り」が始まり、今年も夜9時から行われる毎週金曜日の「喜望の家」担当の夜回りに参加していますが。先々週の夜回りでは、自動販売機に寄りかかって仰向けに倒れている人を見つけて、大丈夫ですか?と尋ねたところ、「左胸が痛い、救急車を呼んでほしい」と、苦しそうにおっしゃいますので、これは事態を急がねばと判断し、一緒に回っていた「喜望の家」のリーダーとすぐに救急車を呼んで、事なきを得ました。ご本人から「3、4時間前くらいからここに居たけれど、声をかけてくれる人がだれもいなかった」というのをお聞きして、もし気づかずにいたら、この凍てつくような寒さの中でどうなっていたことかと想像し、ぞっといたしました。先日、回復され退院なさったという報告を聞いてホッといたしましたが。この天王寺、恵美須町、阿倍野、西成周辺において、寒さの厳しい中、野宿生活を余儀なくされている方々が大勢おられることを心にとめ、祈りにおぼえてください。

本日はルカ10章の「善きサマリア人のたとえ」話より、「隣人となる」と題し、御言葉を聞いていきたいと思います。実は2012年の3年前にも、この箇所から同様「隣人となる」と題して宣教をしていたことを後で気づきました。今日の宣教もその時と重なる点があるかとは存じますが、新たな気持ちで主の御声に耳を傾けたいと思います。

今回改めてこのテーマの中心がどこにあるのか繰り返し読み、黙想しながら準備をして思い至った事は、「神とのいのちの交わりを回復された人は、人と人との間にそのいのちの交わりが生きている」ことを、主イエスは「善きサマリア人のたとえ」を用いてお示しになられたのではないか、という事であります。

さて、ある律法の専門家がイエスさまに質問します。「先生、何をしたら、永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか」。彼はイエスさまを試そうと問いかけたとあります。彼は律法の専門家であることを自負していたのでしょう。イエスさまはそんな彼に「律法には何と書いてあるか。あなたはどう読んでいるか」と逆に問い返されます。
彼はすかさず「『心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい、また、隣人を自分のように愛しなさい』とあります」とそのように答えます。すると、イエスさまは「正しい答えだ。それを実行しなさい。そうすれば命が得られる」とおっしゃるのです。永遠の命を得るためには、「それを実行しなさい」とおっしゃるのですね。「神を愛し、隣人を自分のように愛しなさい」との律法の精神を彼自身が生きて行くように促されるのです。
そこでこの律法の専門家は「はい」そのようにいたします、と答えたかといいますと、そうではありませんで、イエスさまに、「では、わたしの隣人とはだれですか」となおも聞き返してきます。ここに「彼は自分を正当化しようとして」と記されていますけれども、恐らく彼は小さい頃からユダヤ人としての宗教教育を厳格に教えられ育てられてきたのでありましょう。そして、「隣人を自分のように愛しなさい」との戒めを繰り返し聞いてきたことでしょう。その彼が「では、わたしの隣人とはだれか」と尋ねるのには訳がありました。レビ記19章18節を開けてみましょう。旧約聖書p.192 「復讐してはならない。民の人々に恨みを抱いてはならない。自分自身を愛するように隣人を愛しなさい」。ここに「民の人々に」とあります。前の17節には「同胞」という言葉が出てきますね。今日のこの隣人の原語:プレシオンは「すぐそばの人、自分の身近に感じる人、兄弟姉妹、同じ民族、同信の友など」を表していますことから、彼には彼なりの「隣人」という枠組みや対象があり、それらの人々に対しては「そのように行ってきた」という自負があったのではないでしょうか。それで彼は、もうそんなことはとっくにやっていますよ、と言わんばかりに主イエスに「では、わたしの隣人とはだれですか」と逆に問い返したのでしょうね。
又、彼はイエスさまが罪人とされる人やユダヤ人にとって異邦人である人たちと関わりをもっているということで、その言動に疑問を感じていたのかも知れません。まあそのような彼の問いかけに答える形で、イエスさまは「善きサマリア人のたとえ話」をなさるのです。
サマリア人とその町は、かつてイスラエルが北王国と南王国とに分かれていた時代、サマリアは北イスラエル王国の主要都市でした。しかしその崩壊後、他民族がそこに侵入し、偶像礼拝や倫理的堕落などが生じました。以来、ダビデの子孫といわれるユダヤ人たちは、サマリア人を神の名を汚した堕落の民、異教徒などと呼び、罪人のように見なし、見下し、彼らとの交わりを絶ってきました。もともとはイスラエルという一つの民、同胞の民であったにも拘わらず、強い確執が続いていたのです。
ユダヤ人であったこの律法の専門家もまた、そういう歴史を教えられると同時に、敵意と対立、そして差別という見えない壁を意識しながら育ったのです。彼はサマリア人を忌み嫌っていたのです。当然彼にとってサマリア人は、「隣人」とは決して言い難いものであり、その対象とは成り得なかったのであります。

では、このたとえ話を少し丁寧に見ていきますと。
ここに出てくるエリコは、エルサレムから下ってヨルダン川の西側にあり、現在では道路も整備され、住宅が建ち並ぶパレスチナの人々の住む町となっていますが。イエスさまの時代はエリコといえば殺伐とした荒れ地で、そこを往来する旅人にとっては危険な道のりであり、追いはぎに襲われるようなこともあったのです。
たとえに出てくる追いはぎにあった人は、エルサレムからエリコに下っていたとありますことから、律法の専門家と同じユダヤ人であったと考えられます。被害に遭い半殺しの状態で路上に倒れているユダヤ人を前に、同胞の祭司、さらにレビ人が通りかかりますが、彼らはそれぞれ道の向こう側を通って行きます。彼らは共に神に仕える身でした。助けを必要とする同国人、又同信の隣人に手を差し伸べることは、わけても神に仕える者にとって律法に適う行動でした。「隣人を自分のように愛しなさい」との律法を知らないはずありません。何て無関心で無情なのか。偽善者なのか、と言いたくなるところですが。
けれども、追いはぎが行き倒れの旅人を装って人を襲うようなことも実際あったのです。又、仮に追いはぎにあった人が亡くなっていて、もし死体にでも触れたとなれば、これも律法によって祭司はある期間神殿での務めを行う資格を奪われることになり、その責任を果たす事が出来なくなります。つまり関わろうとした彼ら自身が身の危険や厄介に巻き込まれるかも知れなかったのです。どうでしょう、善を行う思いがあったとしても、果たしてリスクを冒してまでとことん関わることができるだろうか?それを自分のこととして考えた時、決して彼らを責めることはできない自分自身に気づかされるのです。

さて、そこに3人目の通行人、サマリア人が現れます。サマリア人については先に触れましたように、彼らはユダヤ人たちから汚れた者として忌み嫌われ、見下されていたのです。イエスさまはこのたとえ話にあえてその「サマリア人」を登場させ、事もあろうに瀕死の状態にあるユダヤ人を介抱し、助けたのは「このサマリア人であった」と語られるのです。
このたとえ話を聞いた律法の専門家は、どう思ったでしょう。半殺しに遭って倒れていたユダヤ人を同胞の神に仕える祭司やレビ人は見て見ぬふりをし、通り過ぎたという点はやはり気になったでしょうが、何よりも彼がひっかかった事は、「汚れた民」「罪人」と見下し、侮蔑してきたサマリア人が、傷つき倒れていたユダヤ人を助けたという点でしょう。
サマリア人はこの傷つき倒れたユダヤ人に対して、日頃から受けてきた差別や偏見を理由に、「ざまみろ、それみたものか」と憎悪の念をもって素通りしてもおかしくありませんでした。これがある意味世の中の見方です。「目には目を、歯に歯を」とあるように、自業自得だ、当然の報いだ、という感情がそうですし、一時前は「やられたらやり返す、倍返しだ」などという言葉が流行りましたが。実にそういった空気が今の世界、社会にも覆いかぶさり、蔓延しているように思えます。
けれどもこのサマリア人は、傷つき倒れたユダヤ人を見て、ただ「憐れに思った」と主イエスは語ります。この「憐れに思う」とは、単に「可哀そう」とか「お気のどくに」というような思いではなく、相手の痛みを「自分のはらわたが引き裂かれるような思いで強く感じる」という意味があります。このサマリア人は傷ついたその人を目にした時、自分自身心を痛め、何とかしなければと、荒れ野での危険を顧みず、さらに2日の労働に価する身銭を切って介抱するのです。そこに「隣人を自分のように愛しなさい」との律法が単に戒めとしてではなく、行いを伴った実体をもって現わされていくのですね。
この下りを読みながら、私は先週かの地で犠牲となったと報じられた後藤健二さんのことが思い浮かんでしょうがありませんでした。シリアをはじめ各国の紛争地に入り、戦争が激化する中でも、自らリスクを負いつつ、苦しみと悲しみのうちにおかれた人たちの現状を知ってほしいと最期まで世界に発信してくださった後藤さんです。
先日「脱・憎しみ合いの拡散」という新聞記事のコラムに目が留まりましたので少しご紹介します。「暴力や憎悪を鎮める知性。それは紛争地の日常をリポートしてきた次の後藤さんの言葉にも息づく「目を閉じて、じっと我慢。怒鳴ったら、終わり。それは祈りに近い。憎むは人の業にあらず、裁きは神の領域。・・・そう教えてくれたのはアラブの兄弟たちだった。」
レビ記19章18節の「復讐してはならない。民の人々に恨みを抱いてはならない。自分を愛するように隣人を愛しなさい」というユダヤ教、イスラム教、キリスト教に共通するこの教えが、今ほんとうに世界中でおぼえられていくことを祈るばかりです。

実は今日の聖書のエピソードの1頁前のルカ9章51節で、イエスさまはサマリア人から歓迎されなかった、ということが記されているのですね。それは、イエスさまがエルサレムを目ざして進んでおられたからだとあることから、そこに民族の確執の根深さを知らされるわけですけれど。その時イエスさまのお弟子の2人が「主よ、お望みなら、天から火を降らせて彼らを焼き滅ぼしましょうか」と言うと、イエスさまはその2人を戒められたとあります。イエスさまご自身そのような体験をなさる中でも、自ら復讐することなく、むしろ今日のたとえで、その確執、差別、偏見といった隔ての壁を乗り越える。また、それを取り除くそのような物語として語っておられるのですね。

さて、このたとえから想像しますに、追いはぎに襲われ瀕死の重傷を負ったこのユダヤ人にとって真に悲しく思えたのは、これまで自分の隣人と信じていた同胞であり、同信のユダヤの祭司やレビ人が、半殺しの目に遭って倒れていた自分を避けるように通り過ぎていった、ということでしょう。
その一方で、敵対するような者でありはずのサマリア人にこうも手厚く助けられることによって、今まで自分が持っていたサマリア人に対する偏見や差別意識、抱いていた憎悪や敵対心がきっと覆されたのではないでしょうか。追いはぎに遭ったユダヤ人の彼は、この出会いを通して、きっと「隣人とはだれか」を改めて知ったのではないでしょうか。むろんこれはたとえ話です。けれどもこの話を聞いて深く考えさせられたのは当のユダヤ人の律法学者であります。
 イエスさまはたとえ話を終えられた後で、この律法の専門家に尋ねます。
「あなたはこの三人の中で、だれが追剥に襲われた人の隣人になったと思うか。」
律法の専門家は、「その人を助けた人です」と答えます。すると、イエスさまは彼に、「行って、あなたも同じようにしなさい」と言われるのです。

主イエスのこのたとえ話は、律法の専門家の「では、わたしの隣人とはだれですか」との問いかけに対してなさいました。彼は同族や同信の者を隣人の対象者として捉え、関わって生きてきました。けれども、主イエスはこのたとえ話をとおして、「隣人となってゆく道」をお示しになられるのです。だれも初めから隣人なのではないのです。隣人となってゆく。それが「行っておこなう」ということです。

私たちもかつては、世の力によって打ちのめされ、罪に滅ぶしかない者でありましたが。主イエスはその私たちに近寄って傷に油とぶどう酒を注ぎ、包帯をし、介抱して下さった。価高い十字架の代価をもって、その滅びゆくしかない私たちを救い出して下さいました。ご自身が想像を絶する深く大きな犠牲を払って、私たちの隣人となってくださったのです。そこに私たちの命の交わりの原点がございます。主イエスが罪に滅ぶ以外にないような私たち一人ひとりの隣人となられた。ここに私たちの「隣人となる」愛の出発点がございます。「行って、あなたも同じようにしなさい。」この御言葉をもって私たちもここからそれぞれの「隣人となる」あゆみへと遣わされてまいりましょう。
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