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日本バプテスト大阪教会へようこそ!

教会設立73年 都会と下町とが交差する大阪のどまん中にある天王寺のキリスト教会 ぜひお立ち寄りください!

この病気は死で終わるものではない

2014-02-02 14:20:28 | メッセージ
礼拝宣教  ヨハネ11・1~44 

本日はヨハネ福音書の中でも重きをおかれるラザロの死と復活に関する11章の記事から御言葉に聴いていきたいと思います。
まずここを読んで、私は牧師として心にひっかかったのは、亡くしたラザロの姉妹マルタ、そしてマリアがそれぞれ同じようにイエスさま、「主よ、もしあなたがここにいてくださいましたなら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに」といったその言葉であります。
これは牧師の働きをする中で経験することですが。教会員やそのご家族が天に召されていく折に共にさせて頂く機会もありますが、すべてのケースでそこに居合わせ、看取ることができたわけではありませんで、そういう時に、もう少し早くお訪ねしていたら、もっと早い時期に見舞っていたら、という悔いの残るケースもあります。執り成しと祈りの中で召されることを望まれていたのではなかろうか。ご家族にとっても微力ながらお力になれることがあったのではなかろうか、特に連絡が来た時には既に仏式で葬儀が済まされていた時などは、ご本人の遺志を思えば本当に残念な思いがいたします。
けでども牧師である私がたとえそこに居合わせることが叶わなかったとしても、主なる神さま、イエスさまは、その方と共にいてくださった。そのように私は信じております。

さて、11章の初めのところで、マルタとマリアの姉妹たちはイエスのもとに人をやって、「主よ、あなたが愛しておられる者が病気なのです」と言わせたとありますように、彼女らはイエスにすぐに来て下さるように頼んでいたのです。イエスさまなラザロの病をおいやしくださるに違いないと考えたからです。
ところがイエスさまはその知らせを聞いて、「この病気は死で終わるものではない。神の栄光のためである。神の子がそれによって栄光を受けるのである」と言われます。
そして愛する「ラザロが病気だと聞いてからも、なお二日間同じ所に滞在された」のです。その間にラザロは死にました。
マルタとマリアはイエスさまが来てくれるならどんな病気もいやしてくれると信頼を寄せていましたから、それだけに彼女らは落胆の念を隠しきれず、「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに」と、このようにイエスさまにその悔やむ思いをぶつけるのであります。

しかしどうでしょう、彼女らが言うようなイエスさまのいやしは、必ずしもイエスさまが病人のそばにおいでになられた時に起こされたとは限らないのであります。
たとえば4章のイエスさまが役人の瀕死の息子をいやされた時には、「あなたの息子は生きる」とのお言葉を父親が信じて息子のところに持ち帰る途中に瀕死の息子がいやされます。
又、イエスさまがローマの百人隊長の中風の僕をいやされたケースでも、その百人隊長がイエスさまに「唯お言葉を下されば僕はいやされます」と慕い求めた同じ時刻に、その僕はいやされた、とあります。
さらにルカ24章にはエマオ途上の弟子たちが復活の主イエスと出会う記事が記されていますが。その弟子たちは自分たちと一緒に歩いてくださっていたお方が、復活の主イエスだと分かった時、「そのイエスのお姿は見えなくなった」とありますけれども。そこで語られている事は、復活のイエスさまはもはや人の眼に見える範囲や条件に限定されるお方ではなく、主を信じる者たちのあらゆる場所や距離をも超えたところにお働きになられ、そこにおいでになられる、という事実であります。

ところで私たち人間は、とかく目に見えるつながり、関わりをもちたがるものです。そうやって安心を得ようとします。そして孤独な思いを埋めるために人の多い場所にいったり、人とのつながりを求めようとします。そのような様々な関わり合いの中で生き、生かされているのであります。
しかし人がいる、物がある、あるいは何かを楽しむということで一時的に孤独感を埋め合わせることができたとしても、それだけでは本質的なところ孤独感が解決されるということはないでしょう。けれども、そこで人が自分をお造りになられた創造主、救いの神と出会い、その生けるお方が「いつも共におられる」その事を覚えて生きることができるなら、その人の魂には世にはない平安が与えられ、わびしさや孤独感といった感情から解放されるでしょう。さらにご聖霊の働きは信仰の兄弟姉妹という霊的なつながりを築かせ、人が孤独のうちに滅びることがないように執り成し仕え合う霊的交わりをお与えになります。
この大きな恵みに感謝し、主にあって共に生きる者として努めていきたいと願うものです。

さて、そのように絶望的孤独感から解放を受けた者でありましても、どうにもしがたい孤独というものがなお立ちはだかっています。それは「死」であります。人は一人で生まれて来て、一人で死んでいくよう定められているのです。それは又、残される者にとっても同様に恐れと喪失感をもたらします。マルタとマリアもまさにそうでした。

そこでイエスさまはマルタに、「あなたの兄弟(ラザロ)は復活する」とおっしゃるのですが。マルタは「終わりの日に復活することは存じております」と答えます。これは当時のユダヤ人たちの一般的な復活観をうのみにした返答でした。
それに対してイエスさまは言われます。「わたしが復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか。」
ここでイエスさまがおっしゃるのは、ユダヤの一般的な復活理解ではなく、「あなたはどうなのか。イエスさまそのものが復活であり、命であると信じるのか」と問われるのであります。
マルタはそこで、「はい、主よ、あなたが世に来られるはずの神の子、メシアであるとわたしは信じます」と答えます。しかしマルタはこの後、イエスさまから「ラザロが葬られた墓をふさぐ石を取りのけなさい」と言われたとき。「主よ、4日もたっていますから、もうにおいます」と答えます。そのマルタに対してイエスさまは「もし信じるなら、神の栄光が見られると、言っておいたではないか」とおっしゃるのです。これはどれほど力に満ちたお言葉でしょうか。遠い遠いいつ来くるか分からない将来、終わりの時なら、また会えるかもしれない、というような実体のないおぼろげな信心を根底からくつがえすようなお言葉であります。
私たちは、このイエスさまのお言葉を事あるごとに思い出すべきでしょう。「もし信じるなら、神の栄光が見られる、と言っておいたではないか。」どんな時も、どこにいても、このお言葉に信頼して歩んでまいりたいと願います。

イエスさまはラザロの病気を伝え聞いた時、「この病気は死で終わるものではない」(4節)とおっしゃいました。これはラザロの病気は「死のためのものではない」という意味です。
このことが起こったのは、死のためじゃない。滅びのためじゃない。主はそうおっしゃるのです。では何のためにラザロと姉妹たちはこのような状況に陥れねばならなかったのでしょうか。それはここにありますとおり、「神の栄光のため」であります。さらに15節で弟子たちに語られたように、「あなたがたが信じるようになるため」であります。イエスを信じる者たちが復活の命を受け、それを受けるためである、ということです。
イエスさまは、「わたしが復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか」と問いかけます。
聖書は全人類の一人ひとりに向け問いかけています。「あなたは、あなたの命を贖うためにイエスが十字架におかかりになって死なれたことを信じますか。」そしてイエスさまはその死より復活なさったのであります。さらに聖書は今日も語りかけています。「あなたは、そのイエスが復活であり、命であることを信じますか。」
イエスの復活は、死後の世界のことだけではありません。今私たちが生かされているこの時、この一瞬一瞬にも、実に神は霊なるお方として目には主ご自身のお姿が見えなくても、主を信じる者の間に確かにお働きになっておられるのであります。

さて、今日の聖書の中でもう一つ、心に留まったことがあります。
それは、33節「イエスは、彼女(マリア)が泣き、一緒に来たユダヤ人たちも泣いているのを見て、心に憤りを覚え、興奮して、イエスは涙を流された」ということです。
このイエスの「心に起こった憤りと興奮」とは何でしょうか? 
それは「死」が悲痛な嘆きと悲惨の中に人間を閉じ込めていることを目の当たりにされた。罪のために世に入ってきた死の破壊的な勢力(サタンの働き)に対する強い霊的な憤り、憤慨であります。
その一方でイエスさまは、人の嘆きと悲しみに共感し、共に涙を流されたのであります。
イエスさまは人の悲しみや嘆きを不信仰だと裁いたりなさいません。すべては主の御手とご計画の中にあります。けれどもそこで人が感じる様々な感情に共感し、ある時は共に喜び、ある時は共に涙して下さる。この人の肉をとって私たちの間に来てくださったイエスさまを通して、神のご愛が示されているのです。そしてイエスを信じる者は日々の歩みにおいてこの神のご愛を体感することができるのであります。

最後にヘブライ4章14節以降の言葉をお読みして今日の宣教を閉じます。
「さて、わたしたちには、もろもろの天を通過された偉大な大祭司、神の子イエスが与えられているのですから、わたしたちの公に言い表している信仰をしっかり保とうではありませんか。この大祭司は、わたしたちの弱さを同情できない方ではなく、罪を犯さなかったが、あらゆる点において、わたしたちと同様に試練に遭われたのです。だから、憐みを受け、恵みにあずかって、時宜にかなった助けをいただくために、大胆に恵みの座に近づこうではありませんか。」

私たちも又、主を信じ、イエスさまの復活と命を受けたものとして、信頼と感謝をもって主の恵みの座に近づいていく今週の一日一日でありたいと願います。
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