「同伴者イエス」 Y・S
ある小雨の降る日だった。
子どものお迎えでいつもの道を歩いていると向こうから「サザエさん」の歌声が、、、(そう、日曜夕方のあれです)
目をあげると二人の青年が肩を並べ歌いながら歩いて来た。おそらく20代であろう彼らの一人は障害をもっていらっしゃる様子で、もう一人は付添の方のようだった。
私は彼らと擦れ違いながら少なからず感動していた。
歌いたいから歌うありのままの人。
その人に寄り添い共に歌う同伴者なる人。
彼はまだ気はずかしさや人目が気になるような年頃なのに、あたかもそうすることが当然であるようにして無垢なその人と歌いながら一緒に歩いていた。

作家の遠藤周作氏はキリストを「同伴者」と言った。それはカトリックの権威からは異端的発想だと批判された。(後に彼の名誉は回復されるけれども)
イエス・キリストは人の罪をあがなうために十字架にかかられた。
はぎ取られぼろぼろになり、「神よ、なぜわたしを見捨てられたのか」と絶叫し死なれた。
それは人の弱さ、苦しみ、なさけなさのどん底までも寄り添うため、すべての人の同伴者となるためだったと信じている。
ある小雨の降る日だった。
子どものお迎えでいつもの道を歩いていると向こうから「サザエさん」の歌声が、、、(そう、日曜夕方のあれです)
目をあげると二人の青年が肩を並べ歌いながら歩いて来た。おそらく20代であろう彼らの一人は障害をもっていらっしゃる様子で、もう一人は付添の方のようだった。
私は彼らと擦れ違いながら少なからず感動していた。
歌いたいから歌うありのままの人。
その人に寄り添い共に歌う同伴者なる人。
彼はまだ気はずかしさや人目が気になるような年頃なのに、あたかもそうすることが当然であるようにして無垢なその人と歌いながら一緒に歩いていた。


作家の遠藤周作氏はキリストを「同伴者」と言った。それはカトリックの権威からは異端的発想だと批判された。(後に彼の名誉は回復されるけれども)
イエス・キリストは人の罪をあがなうために十字架にかかられた。
はぎ取られぼろぼろになり、「神よ、なぜわたしを見捨てられたのか」と絶叫し死なれた。
それは人の弱さ、苦しみ、なさけなさのどん底までも寄り添うため、すべての人の同伴者となるためだったと信じている。