東京さまよい記

東京をあちこち彷徨う日々を、読書によるこころの彷徨いとともにつづります

笠森お仙の碑(大円寺)

2012年07月21日 | 荷風

三崎坂から大円寺 大円寺門前 根岸谷中日暮里豊島辺図(安政三年(1856)) 前回の三崎坂を上り中腹の信号の所を左折すると、一、二枚目の写真のように大円寺の門前が見える。ここに永井荷風による笠森お仙の碑があるということで寄り道をした。

三枚目の尾張屋板江戸切絵図 根岸谷中日暮里豊島辺図(安政三年(1856))の部分図に、坂下の藍染川のわきに大圓寺(大円寺)が見えるが、境内にカサモリイナリ(笠森稲荷)がある。

荷風の日記「断腸亭日乗」大正8年(1919)4月24日に次の記述がある。

「四月廿四日。某新聞の記者某なる者、先日来屢[しばしば]来りて、笠森阿仙建碑の事を説き、碑文を草せよといふ。本年六月は浮世絵師鈴木春信百五十年忌に当るを以て、谷中の某寺に碑を立て法会を行ひたしとの事なれど、徒に世の耳目をひくが如き事は余の好まざる所なれば、碑文の撰は辞して応ぜず。」

荷風は、鈴木春信の百五十年忌にあたって、新聞記者から笹森お仙の碑文を書くように頼まれたが、このときには、これを辞している。続いて、6月7日に次のようにある。

「六月七日。笹川臨風氏に招かれ大川端の錦水に飲む。浮世絵商両三人も招がれて来れり。鈴木春信百五十年忌法会執行についての相談なり。」

上記の臨風笹川種郎からも頼まれたらしく、6月10日には次の記述がある。

「六月十日。一昨日錦水にて臨風子にすゝめられ余儀なく笠森お仙碑文起草の事を約したれば、左の如き拙文を草して郵送す。
     笠森阿仙碑文
 女ならでは夜の明けぬ日の本の名物、五大洲に知れ渡るもの錦絵と吉原なり。
 笠森の茶屋かぎやの阿仙春信の錦絵に面影をとゞめて百五十有余年、矯名今に
 高し。本年都門の粋人春信が忌日を選びて阿仙の碑を建つ。時恰大正己未の年
 夏滅法鰹のうめい頃荷風小史識。」

以上のようにして、笠森お仙碑文ができたが、上記の日乗の記述からみる限り、荷風にとってあまり気乗りのしない起草であったようである。碑文の最後の「時あたかも大正己末(つちのとひつじ)の年夏滅法鰹のうめい頃」の「めっぽうかつおのうめいころ」というのがおかしく、ちょっと投げやりな感じにもとれる。

笠森お仙の碑 笠森お仙の碑 説明板 笠森お仙については、次のようなことが知られている。

・笠森 お仙(かさもり おせん、1751年(宝暦元年) - 1827年2月24日(文政10年1月29日))は、江戸谷中の笠森稲荷門前の水茶屋「鍵屋」で働いていた看板娘。明和年間(1764年-1772年)、浅草寺奥山の楊枝屋「柳屋」の看板娘柳屋お藤(やなぎや おふじ)と人気を二分し、また二十軒茶屋の水茶屋「蔦屋」の看板娘蔦屋およし(つたや およし)も含めて江戸の三美人(明和三美人)の一人としてもてはやされた。

・1763年(宝暦13年)ごろから、家業の水茶屋の茶汲み女として働く。当時から評判はよかったという。

・1768年(明和5年)ごろ、市井の美人を題材に錦絵を手がけていた浮世絵師鈴木春信の美人画のモデルとなり、その美しさから江戸中の評判となり一世を風靡した。お仙見たさに笠森稲荷の参拝客が増えたという。

・1770年(明和7年)2月ごろ、人気絶頂だったお仙は突然鍵屋から姿を消した。お仙目当てに訪れても店には老齢の父親がいるだけだったため、「とんだ茶釜が薬缶に化けた」という言葉が流行した。お仙が消えた理由についてさまざまな憶測が流れたが、実際は、幕府旗本御庭番で笠森稲荷の地主でもある倉地甚左衛門の許に嫁ぎ、9人の子宝に恵まれ、長寿を全うしたという。享年77。

・現在、お仙を葬った墓は東京都中野区上高田の正見寺にある。

(以上、wikipediaから引用)

一枚目の写真は、大円寺境内にある笠森お仙の碑で、碑文は、上記のように荷風の撰による。二枚目は、その上側部分で、「笠森阿仙乃碑」という文言が読みとれる。三枚目はその説明文である。

秋庭太郎によれば、この碑文に関しては、後日談があるようで、荷風は、昭和12,3年ごろ菅原明朗とこの碑を見たとき、「うっかり碑文なんか書くもんじゃない」と菅原に述懐したという。

日乗を見ると、たとえば、昭和13年5月24日に菅原等と車で人を送って谷中に行き、墓地を歩み上田柳村(敏)の墓を拝したとあるが、このときなどであったかもしれない。

秋庭は、阿仙の茶屋は天王寺中の笠森稲荷に在ったので、春信や阿仙の碑はむしろここに建碑すべきであったとし、荷風は建碑後に、阿仙茶屋所在のゆえよしを知って、菅原にそう述懐したのか、あるいは撰文を拙なりとしたのか、そのいずれかであったろう、としている。(尾張屋板の大円寺にカサモリイナリとあるが、お仙のいた茶屋は天王寺中門際にあった。)

ところで、上記のように、明和七年(1770)2月ごろ、お仙がとつぜん鍵屋から姿を消し、代わりに老齢の父親が出ていたので、「とんだ茶釜が薬罐に化けた」という言葉が流行した。茶釜は美人を意味し、薬罐は禿頭の老爺である。これに関連し、横関は、都内の数カ所にあるお化けの出るような薄気味悪い所であった薬罐坂(小日向の薬罐坂目白台の薬罐坂杉並の薬罐坂など)の由来につき、本来、狐の異名説のある「野干(やかん)」であるべきところ、当時の流行語であった薬罐(やかん)を使って、薬罐坂と書いたのではないか、と推測している。
(続く)

参考文献
横関英一「江戸の坂 東京の坂(全)」(ちくま学芸文庫)
「嘉永・慶応 江戸切絵図(尾張屋清七板)」(人文社)
デジタル古地図シリーズ第一集【復刻】江戸切絵図(人文社)
永井荷風「新版 断腸亭日乗」(岩波書店)
秋庭太郎「考証 永井荷風(上)」(岩波現代文庫)

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