東京さまよい記

東京をあちこち彷徨う日々を、読書によるこころの彷徨いとともにつづります

観潮楼跡と荷風

2012年02月19日 | 荷風

藪下通りから団子坂上方面 団子坂上から藪下通り 前回の藪下通り観潮楼跡の先でちょっと下ってから団子坂の坂上につながる。一枚目の写真は、そのあたりから坂上側を撮ったもので、左側が観潮楼跡で工事中である。二枚目は団子坂上の交差点を横断してから、藪下通りの終点を撮ったものである。

森鷗外は、明治25年(1892)1月末、本郷駒込千駄木町二十一番地に移り、千住から父母・祖母を呼び寄せ、家を建て増し、これを観潮楼と名づけた。二階からはるか遠くに海が見えたからという。以降三十年、日清戦争や日露戦争、小倉転勤などの時期を除き、ここに居住した。

永井荷風は『日和下駄』「第九 崖」で藪下通りと観潮楼を次のように描いている。

「小石川春日町から柳町指ヶ谷町へかけての低地から、本郷の高台を見る処々には、電車の開通しない以前、即ち東京市の地勢と風景とがまだ今日ほどに破壊されない頃には、樹や草の生茂った崖が現れていた。根津の低地から弥生ヶ岡と干駄本の高地を仰げばここもまた絶壁である。絶壁の頂に添うて、根津権現の方から団子坂の上へと通ずる一条の路がある。私は東京中の往来の中で、この道ほど興味ある処はないと思っている。片側は樹と竹藪に蔽われて昼なお暗く、片側はわが歩む道さえ崩れ落ちはせぬかと危まれるばかり、足下を覗くと崖の中腹に生えた樹木の梢を透して谷底のような低い処にある人家の屋根が小さく見える。」

荷風は、春日町から指ヶ谷町へかけての低地から本郷の高台を見ると、電車の開通しない以前、東京の地勢と風景とが破壊される前、樹や草の生茂った崖が見えたとし、本郷台地の西側の崖について述べ、東側の崖についても、根津の低地から弥生ヶ岡と干駄本の高地を仰ぐと、ここも絶壁であるとしている。このように本当に見えた時代があった。

この藪下通りは、片側が樹と竹藪におおわれ、片側が崖下で人家の屋根が見え、かなり野趣あふれる小道であった。いまとかなり違うが、前回のふれあいの杜に行けば、ちょっと想像がつくかもしれない。

当時の様子がよくわかる名文であるが、他の章は、このような記述で終わるのが常である。この章は、そうでなく、さらに鷗外の観潮楼を訪ねたときの印象について次のように詳しく記している。

「当代の碩学森鷗外先生の居邸はこの道のほとり、団子坂の頂に出ようとする処にある。二階の欄干に彳(たたず)むと市中の屋根を越して遥に海が見えるとやら、然るが故に先生はこの楼を観潮楼と名付けられたのだと私は聞伝えている。(団子坂をば汐見坂という由後に人より聞きたり。)度々私はこの観潮楼に親しく先生に見(まみ)ゆるの光栄に接しているが多くは夜になってからの事なので、惜しいかな一度もまだ潮を観る機会がないのである。その代り、私は忘れられぬほど音色の深い上野の鐘を聴いた事があった。日中はまだ残暑の去りやらぬ初秋の夕暮であった。先生は大方御食事中でもあったのか、私は取次の人に案内されたまま暫(しばら)くの間唯一人この観潮楼の上に取残された。楼はたしか八畳に六畳の二間かと記憶している。一間の床には何かいわれのあるらしい雷という一字を石摺にした大幅がかけてあって、その下には古い支那の陶器と想像せられる大きな六角の花瓶が、花一輪さしてないために、かえってこの上もなく厳格にまた冷静に見えた。座敷中にはこの床の間の軸と花瓶の外は全く何一つ置いてないのである。額もなければ置物もない。おそるおそる四枚立の襖(ふすま)の明放してある次の間を窺(うかが)うと、中央に机が一脚置いてあったが、それさえいわば台のようなもので、一枚の板と四本の脚があるばかり、抽出もなければ彫刻のかざりも何もない机で、その上には硯もインキ壺も紙も筆も置いてはない。しかしその後に立てた六枚屏風の裾からは、紐で束ねた西洋の新聞か雑誌のようなものの片端が見えたので、私はそっと首を延して差覗くと、いずれも大部のものと思われる種々なる洋書が座敷の壁際に高く積重てあるらしい様子であった。世間には往々読まざる書物をれいれいと殊更人の見る処に飾立てて置く人さえあるのに、これはまた何という一風変った癇癖(かんぺき)であろう。私は『柵草紙』以来の先生の文学とその性行について、何とはなく沈重に考え始めようとした。あたかもその時である。一際高く漂い来る木犀の匂と共に、上野の鐘声は残暑を払う涼しい夕風に吹き送られ、明放した観潮楼上に唯一人、主人を待つ間の私を驚かしたのである。
 私は振返って音のする方を眺めた。干駄木の崖上から見る彼の広漠たる市中の眺望は、今しも蒼然たる暮靄(ぼあい)に包まれ一面に煙り渡った底から、数知れぬ燈火を輝し、雲の如き上野谷中の森の上には淡い黄昏の微光をば夢のように残していた。私はシャワンの描いた聖女ジェネヴィエーブが静に巴里(パリ)の夜景を見下している、かのパンテオンの壁画の神秘なる灰色の色彩を思出さねばならなかった。
 鐘の音は長い余韻の後を追掛け追掛け撞(つ)き出されるのである。その度ごとにその響の湧出る森の影は暗くなり低い市中の燈火は次第に光を増して来ると車馬の声は嵐のようにかえって高く、やがて鐘の音の最後の余韻を消してしまった。私は茫然として再びがらんとして何物も置いてない観潮楼の内部を見廻した。そして、この何物もない楼上から、この市中の燈火を見下し、この鐘声とこの車馬の響をかわるがわるに聴澄ましながら、わが鷗外先生は静に書を読みまた筆を執られるのかと思うと、実にこの時ほど私は先生の風貌をば、シャワンが壁画中の人物同様神秘に感じた事はなかった。
 ところが、「ヤア大変お待たせした。失敬失敬。」といって、先生は書生のように二階の梯子段を上って来られたのである。金巾の白い襯衣(シャツ)一枚、その下には赤い筋のはいった軍服のヅボンを穿いておられたので、何の事はない、鷗外先生は日曜貸間の二階か何かでごろごろしている兵隊さんのように見えた。
 「暑い時はこれに限る。一番涼しい。」といいながら先生は女中の持運ぶ銀の皿を私の方に押出して葉巻をすすめられた。先生は陸軍省の医務局長室で私に対談せられる時にもきまって葉巻を勧められる。もし先生の生涯に些(いささ)かたりとも贅沢らしい事があるとするならば、それはこの葉巻だけであろう。
 この夕、私は親しくオイケンの哲学に関する先生の感想を伺って、夜も九時過再び干駄木の崖道をば根津権現の方へ下り、不忍池の後を廻ると、ここにも聳(そび)え立つ東照宮の裏手一面の崖に、木の間の星を数えながらやがて広小路の電車に乗った。」

旧森鷗外記念本郷図書館裏庭 旧森鷗外記念本郷図書館裏庭 荷風が観潮楼に鷗外を訪問したのは、残暑去らぬ初秋の夕暮であった。二階に通され、しばらく待たされるが、その間の部屋の描写が詳しい。尊敬する鷗外を訪れて気分が高揚したのか、そんな感じが伝わってくるかのようである。そして、突然、上野の山から聞こえてきた鐘の音に驚いたことをきっかけに、ついには、鷗外を神格化する気分にまでなる。しかし、鷗外は、書生のように梯子段を上ってあらわれ、シャツ一枚、赤い筋のはいった軍服のヅボンで、兵隊さんのようだったが、この対比がおもしろい。飾らない鷗外の性格や気の置けない年下の友人といった感じがうかがえる。鷗外の生涯にわたる贅沢は葉巻だけとする荷風の観察から、鷗外の質素な生活がかいま見えるようである。

帰りは、ふたたび、藪下通りを根津権現へ下り、不忍池の北側の東照宮のわきを通ってその裏手の崖を眺めながら広小路に出て電車に乗った。

一、二枚目の写真は、現在工事中の観潮楼跡にあった森鷗外記念本郷図書館の裏庭を撮ったものである(2007年11月)。その裏庭の壁に荷風書の鴎外の詩「沙羅の木」の詩碑が埋め込まれていた。下の写真がその詩碑である。

荷風書鷗外「沙羅の木」 「沙羅の木
  褐色の根府川石に
  白き花はたと落ちたり、
  ありとしも青葉がくれに
  見えざりしさらの木の花。」
(明治三十九年九月一日「文藝界」五ノ九)

上記の碑文によれば、荷風が昭和25年(1950)6月に揮毫したものを昭和29年(1954)7月9日鷗外の長男(於兎)らが三十三回忌にあたり供養のため石碑にし建立した。 荷風「断腸亭日乗」の昭和25年6月の分をすべて見てもそのような記述はないが、昭和29年6月20日に次の記述がある。

「六月二十日。日曜日。隂又雨。午前森博士来話。先考鷗外先生詩碑いよいよ建立落成すと云。拙筆揮毫の謝礼なりとて金壱万円を贈らる。午後浅草。隅田公園散歩。晡後飯田屋に飰す。」

上記の揮毫は鷗外の長男(森博士)らが頼んだものか、謝礼として荷風に一万円を贈っている。荷風は、しかし、昭和29年7月9日の観潮楼跡に建てられた詩碑「沙羅の木」の除幕式には出席していない。当日の「日乗」には次の記述があるだけである。

昭和29年「七月初九。晴。午後三菱八幡支店。晡下浅草。天竹に飰す。」

上記の詩碑は谷口吉郎の設計で根府川石からでき、武石弘三郎作の大理石でできた鷗外胸像の傍の煉瓦塀に嵌め込まれたとあるが(秋庭)、これを読んで、このため出席しなかったのかと思ってしまった。というのは、荷風の銅像嫌いは有名であるからである(以前の記事参照)。胸像であっても敬愛する鷗外のそんなものは見たくなかったのではないか。(もっとも、それは若いときのことで、単にそんな人の集まるところに出る気がなかったからかもしれないが。)

昭和31年(1956)「十一月十日。晴。鷗外先生記念館建立の事に付文京区区長井形卓二氏。事務長代理中出忠勝氏来話。」

同年「十一月十三日。隂。又晴。新潮社。印鑑返送。午後浅草。食事。夜「鷗外先生のこと」執筆。」

鷗外記念館建設にあたり、毎日新聞に「鷗外記念館のこと」という記事を載せているが、それを読むと、鷗外を敬愛する気持は生涯変わらなかったことがわかる。この小文は、上記の区長らの依頼で、その三日後に執筆された「鷗外先生のこと」であるが、未発表のままになったものらしく、その記事が載った日を見てちょっと驚いた。昭和34年(1959)5月1日であったからである。荷風が亡くなったのはその前日である。

このときの鷗外記念館は、結局実現しなかったが、その後、森鷗外記念本郷図書館が建設され、それが上記の写真のように観潮楼跡に最近まであったものと思われる。
(続く)

参考文献
「新潮日本文学アルバム 森鷗外」(新潮社)
「荷風随筆集(上)」(岩波文庫)
「鷗外選集 第十巻」(岩波書店)
「古地図・現代図で歩く明治大正東京散歩」(人文社)
「荷風全集 第二十巻」(岩波書店)
秋庭太郎「考証 永井荷風(下)」(岩波現代文庫)

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