前回の暗闇坂上で言問通りを横断し、右折しちょっと進んだところからふり返って撮ったのが一枚目の写真である。左側が暗闇坂上である。このあたりの歩道わきに、二枚目の写真の弥生式土器発見地の説明板がある。
明治17年(1884)本郷弥生町の向ヶ岡貝塚を調査していた有坂鉊蔵がふっくらとしたまん丸い土器を掘り出し、それは普通の縄文式土器とは違っており、それから次々と似た土器が発見されるようになって、名称が必要ということになり、発見地にちなんで、弥生式土器と名づけられた。その発見地が、その後の都市化の中ではっきりしなくなってしまい、上記の説明板にその推定地(この付近を含む三地点)が示されている。
ところで、弥生式土器が発見された当初、縄文式土器の一型式として認識されていたが、研究が進むにつれて、両者には大きな違いがあることがはっきりとしてきた。すなわち、弥生式土器をつくりだした文化は、水稲耕作という農耕文化であって、狩猟・漁撈を主とした縄文文化とは人類史的には異なる文化ということが明らかになった。これは、日本における先史文化研究上の画期的発見であったが、その発見にもっとも大きな功績があったのは、若くして逝った独学の考古学者の森本六爾(ろくじ)であったという。この人の名は、今回、はじめて知った。
上記の説明板から東へ進み、信号を渡ると、三枚目の写真の弥生式土器発掘ゆかりの地の石碑が立っている。
上記の石碑から東へ歩くと、二枚目の写真のように、弥生坂の坂上である。暗闇坂上の西側のあたりからかなり緩やかに下りになっているが、ここから中程度の勾配で根津谷(不忍通り)に向かってまっすぐに下っている。坂下の交差点付近に千代田線根津駅があり、交差点の東側に善光寺坂が見える。
坂上北側に標識が立っているが、次の説明がある。
「弥生坂(鉄砲坂) 弥生一丁目と二丁目の間
かつて、このあたり一帯は「向ヶ岡弥生町」といわれていた。元和年間(1615~24)の頃から、御三家水戸藩の屋敷(現東大農学部、地震研究所)であった。隣接して、小笠原信濃守の屋敷があり、南隣は加賀藩前だけの屋敷(現東大)であった。
明治2年(1869)これらの地は明治政府に収公されて大学用地になった。明治5年(1872)には、この周辺に町屋が開かれ、向ヶ岡弥生町と名づけられた。その頃、新しい坂道がつけられ、町の名をとって弥生坂と呼ばれた。明治の新坂で、また坂下に幕府鉄砲組の射撃場があったので、鉄砲坂ともいわれた。
弥生とは、水戸徳川斉昭候が、文政11年(1828)3月(弥生)に、このあたりの景色を詠んだ歌碑を、屋敷内に建てたからという。
名にしおふ春に向ふが岡なれば 世にたぐひなき花の影かな
徳川 斉昭
文京区教育委員会 平成11年3月」
上一枚目の尾張屋板江戸切絵図(小石川谷中本郷絵図(文久元年(1861))の部分図を見ると、水戸藩邸の南端で暗闇坂が行き止まりで、明治11年(1878)実測東京全図も同じであるが、明治地図(明治四十年)を見ると、本郷通りからこの坂上を経て東に延びる道ができている。上記のように、明治になってからの新坂であることがわかる。このためか、この坂は、横関、石川に紹介されていない。
鉄砲坂の由来になったという幕府鉄砲組の射撃場は、江戸切絵図では確認できない。
この坂の写真を見てもわかるが、坂上側から坂下の不忍通りの交差点側を見ると、車や通行人が多く、にぎやかで親密な感じで、いかにも下町的な雰囲気であるが、反対に、坂上を見ると、静かな冷たい感じで、いかにも山の手といった雰囲気を感じてしまう。坂の途中で、坂下と坂上を見比べて、こんなに違う感じとなる坂もめずらしい。
(続く)
参考文献
横関英一「江戸の坂 東京の坂(全)」(ちくま学芸文庫)
山野勝「江戸の坂 東京・歴史散歩ガイド」(朝日新聞社)
岡崎清記「今昔 東京の坂」(日本交通公社)
石川悌二「江戸東京坂道辞典」(新人物往来社)
「嘉永・慶応 江戸切絵図(尾張屋清七板)」(人文社)
デジタル古地図シリーズ第一集【復刻】江戸切絵図(人文社)
市古夏生 鈴木健一 編「江戸切絵図集 新訂 江戸名所図会 別巻1」(ちくま学芸文庫)
「江戸から東京へ明治の東京」(人文社)
「古地図・現代図で歩く明治大正東京散歩」(人文社)
井上光貞「日本の歴史1 神話から歴史へ」(中公文庫)