東京さまよい記

東京をあちこち彷徨う日々を、読書によるこころの彷徨いとともにつづります

三崎坂

2012年07月18日 | 坂道

団子坂下 三崎坂下 三崎坂下 三崎坂下 前回の真島坂下を右折し、ちょっと歩くと、突き当たるが、ここが三崎坂の坂下である。ここを左折し、ちょっとすると、不忍通りの団子坂交差点である。一枚目の写真のように、不忍通りの向こうに団子坂の坂下が見える(以前の記事)。

三崎坂下や不忍通りのあたりが根津谷で、団子坂は本郷台地へ上り、三崎坂は三浦坂善光寺坂と同じく上野台地へ上る。三崎坂は団子坂と根津谷をはさんで相対している。

交差点から引き返し、坂下から坂上側を撮ったのが二、三枚目の写真である。二枚目のように坂下で右にちょっと曲がってから途中までほぼまっすぐに延びており、三枚目のあたりからかなり緩やかであるが上りはじめている。

四枚目はちょっと歩いてから坂下側を撮ったものである。坂下は、商店が多く、観光客など人通りが多い。谷戸川(藍染川)の跡が坂の通りを横切っており、ここから下流が蛇のようにくねっているためか、へび道と呼ばれ、上流側がよみせ通りとなっていて、ここも人通りが多い。

三崎坂下 三崎坂中腹 小石川谷中本郷絵図(文久元年(1861)) 根岸谷中日暮里豊島辺図(安政三年(1856)) 一枚目の写真は坂下途中から坂上側を撮ったもので、緩やかな勾配がついている。二枚目はそこからさらに進んだ中腹から坂上側を撮ったもので、このあたりになるとだいぶ勾配がついている。

坂上側に標柱が立っているが、それには、次の説明がある。

「三崎坂(さんさきざか)
「三崎」という地名の由来には諸説あるが、駒込・田端・谷中の三つの高台にちなむといわれる。安永二年(一七七三)の『江戸志』によると、三崎坂の別名を「首ふり坂」といい、三十年ほど以前、この坂の近所に首を振る僧侶がいたことにちなむという。」

三枚目の尾張屋板江戸切絵図 小石川谷中本郷絵図(文久元年(1861))の部分図を見ると、右側(北)坂下に大円寺のある道筋がこの坂で、左側(南)に三崎町の町屋がある。坂下には、藍染川が流れ、その向こう(西)に千駄木坂下町の町屋が見える。

四枚目の尾張屋板江戸切絵図 根岸谷中日暮里豊島辺図(安政三年(1856))の部分図では、この坂が大円寺と三崎町の町屋との間を上(東)へ上っているが、坂下の先で千駄木坂下町の町屋の西に団子坂が見える。現在の不忍通りは、藍染川よりも西(団子坂)よりであることがわかる。団子坂交差点から東へしばらく坂はほぼ平坦であることの理由がこれである。近江屋板を見ると、坂名はないが、坂マーク△が記されている。

三崎坂中腹 三崎坂中腹 三崎坂中腹 御江戸大絵図(天保十四年(1843)) 一、三枚目の写真のように、中腹で左に緩やかにカーブしている。二枚目はそのあたりから坂下を撮ったものである。このあたりの北側に大円寺がある。この寺に永井荷風による碑文の刻まれた笠森お仙の碑があるが、これは、後で紹介する。

四枚目は御江戸大絵図(天保十四年(1843))の部分図であるが、坂下の大円寺と三崎町の町屋との間の道筋がこの坂で、上(西)に団子坂が見える。

この坂は『御府内備考』の「谷中之一」の総説に次のように説明されている。

「三崎坂
三崎町の坂たり、【江戸志】云、此坂を世に首ふり坂といふは、三十年ばかり以前首をふる僧此坂のほとりに居しゆえ俗にかく呼べりと、」

上記の標柱の別名「首ふり坂」の説明はこの御府内備考を参考にしたものであろう。

同じく「三崎町」の書上に次の説明がある。

「一 三崎坂 幅二間余、長二丁半程、高さ二丈程、」 これによれば、幅3.6m、長さ272m、高さ6mほどの坂であったが、かなり長い坂で、いまも、坂下の平坦なところから坂上の平坦部分までその程度の長さがあると思われる。

三崎坂中腹 三崎坂中腹 三崎坂上 三崎坂上 一枚目の写真は中腹から坂下を撮ったもので、二枚目は中腹から坂上を撮ったもので、この南側の歩道に上記の標柱が立っている。三、四枚目は坂上側で撮ったもので、このあたりで左に緩やかに曲がっている。

このあたりの坂上になると、坂下のごちゃごちゃして賑やかな感じから一転して静かな雰囲気となる。

この坂は、この南側にある善光寺坂と似た感じで、どちらも坂下は緩やかで途中から勾配がついてくるが、緩やかな曲がりはこの坂の方が多い。同じように根津谷から上野台地へ上る坂であるから似てくるのであろうか。

三崎坂上 三崎坂上 三崎坂上 三崎坂上 一、三枚目の写真は、坂上から坂下側を撮ったもので、曲がってからまっすぐに上っている。二、四枚目は坂上を撮ったもので、このあたりでは、ほぼまっすぐになっている。

三崎という地名は、『新撰東京名所図会』では、他所では三崎と書いてミサキと読むのが通例で、ここももとはミサキで、往古は不忍池につらなる水系の岬であったのであろうとする(石川)。
(続く)

参考文献
横関英一「江戸の坂 東京の坂(全)」(ちくま学芸文庫)
山野勝「江戸の坂 東京・歴史散歩ガイド」(朝日新聞社)
岡崎清記「今昔 東京の坂」(日本交通公社)
石川悌二「江戸東京坂道辞典」(新人物往来社)
「嘉永・慶応 江戸切絵図(尾張屋清七板)」(人文社)
市古夏生 鈴木健一 編「江戸切絵図集 新訂 江戸名所図会 別巻1」(ちくま学芸文庫)
デジタル古地図シリーズ第一集【復刻】江戸切絵図(人文社)
デジタル古地図シリーズ第二集【復刻】三都 江戸・京・大坂(人文社)
「大日本地誌大系御府内備考 第二巻」(雄山閣)
「東京人 特集 東京は坂の町」④april 2007 no.238(都市出版)

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