東京さまよい記

東京をあちこち彷徨う日々を、読書によるこころの彷徨いとともにつづります

蛍坂(三年坂)

2012年07月23日 | 坂道

三崎坂上から北への小路 観音寺の築地塀 蛍坂上 蛍坂上 前回の三崎坂上近く明王院の東わきの細い道に入る。この小路は北へまっすぐに延びている。この小路の進行方向北側を撮ったのが一枚目の写真である。三崎坂も善光寺坂と同じように車の交通量が多い方なので、こういった小路に入るとほっとした気分になる。

やがて突き当たるが、そこを右折して撮ったのが二枚目である。観音寺の築地塀(泥土をつき固めてつくった塀)が道に沿って延びている。

ここを引き返し(先ほどの突き当たりを左折した方向)、ちょっと進んでから撮ったのが三枚目の写真で、樹木でちょっと鬱蒼としている突き当たりを右折すると、蛍坂の坂上である。そこを右折して坂下側を撮ったのが四枚目である。ほぼまっすぐに北へ延びているが、坂下へと進むと、すぐかなり狭くなる。こういった狭い坂道が都内に残っているのは珍しい。たとえば、小日向の鼠坂も狭いが、この蛍坂よりも広く、階段坂である。

蛍坂上 蛍坂上 蛍坂上から下る階段 根岸谷中日暮里豊島辺図(安政三年(1856)) 一枚目の写真は坂上からちょっと歩いてから、ふり返って坂上を撮ったもので、二枚目は、そのあたりから坂下側を撮ったものである。このあたりはまだ緩やかである。

この坂は、坂下に向かって左側(西)は崖で、右側はコンクリート塀となっているが、坂上の崖側は樹木でいっぱいで森のようになっている。この西側の崖には、三枚目の階段がつくられていて、坂上から広場の方へ下ることができる。

四枚目の尾張屋板江戸切絵図 根岸谷中日暮里豊島辺図(安政三年(1856))の部分図に、上中央に観音寺があり、その前の上下(東西)に延びる道が先ほどの築地塀の道で、そこを下(西)へ行くと突き当たるが、この本宗寺の角を右折した道がこの坂と思われる。その道を左(北)へ進むと、下(西)への道が二本平行にあるが、一番下二枚目の御江戸大絵図(天保十四年(1843))には一本だけである。近江屋板も一本である。明治地図(明治四十年)にも一本しかない。

三枚目(尾張屋板)の安立寺(近江屋板、横関による)の角を曲がって西へ下る道が上記の階段から続く道で(そうだとするとかなり急な坂道)、その北の酒井屋敷の角を曲がって西へ下る道がこの坂であろうか。あるいは、現在の坂下の曲がり角の先から北へさらに延びる道があったのか。戦前の昭和地図(昭和十六年)には二本あるが、中間の道は坂下途中で途切れている(初音町四丁目)。

蛍坂中腹 蛍坂中腹 蛍坂中腹 蛍坂中腹 一枚目の写真は、ちょっと下ってから坂上を撮ったもので、かなり狭くなっていることがわかる。二枚目はそのあたりから坂下を撮ったもので、坂下で突き当たり、左に直角に折れ曲がっている。三枚目はさらに下ってから撮った坂上で、四枚目は坂下の突き当たり角から撮った坂上である。このあたりでちょっと勾配がついている。

四枚目と下一枚目のように、坂下の角に蛍坂(ほたるざか)と記した標柱が立っている。古くなったため説明文が薄くなったり消えたりして全文の判読は不能であるが、その一部によれば、坂名は、このあたりにあった蛍沢に由来するようである。このあたりは江戸時代の蛍の名所であった(横関)。

蛍沢について『御府内備考』の「谷中之一」の総説に次の説明がある。

「蛍沢
むかしは流も広く、蛍もことの外多かりしと、されど谷中のうちに二カ所あり、三崎妙林寺の辺をむかしはすべて云、今も妙林寺の内に蛍沢之池と云ところわづかにのこれり、又日暮里宗林寺の辺も蛍沢といへり、ここも蛍の多くむれ飛よりかく名付るよし、【江戸志】」

上記の説明によれば、蛍沢とよばれる所は、三崎妙林寺の辺(すべて)と、日暮里宗林寺の辺の二ヶ所あった。 上三枚目の根岸谷中日暮里豊島辺図(安政三年(1856))の部分図には、大圓寺(大円寺)の方から延びてくる道にこの坂下がつながっているが、そこの左側(北)に宗林寺があり、そのあたりを日暮里というとある。一カ所はこの宗林寺であるが、もう一つの三崎の妙林寺はどこかわからない。位置的には、谷戸川(藍染川)の流域と思われるが、それに該当しそうなのが、三崎坂下の方から行って川を渡ってすぐのところにある妙蓮寺で、ちょうど千駄木坂下町の向かいである。一番下二枚目の御江戸大絵図(天保十四年(1843))では、この寺は「メウリンジ」となっている。近江屋板を見ると、千駄木坂下町の町屋の裏側(北)で川に沿った所に「此辺蛍沢ト云」とある。『江戸名所図会』に日登山妙林寺は法住寺の西、小川を隔ててあり、と挿絵とともに紹介されている。上三枚目の根岸谷中日暮里豊島辺図(安政三年(1856))の部分図に三崎坂下に法住寺があり、その川の向かいにある「妙蓮寺」は、妙林寺の誤りのようである。

蛍坂下 蛍坂下 蛍坂下 蛍坂下 一、三枚目の写真は坂下の角を左折してから坂下(西側)を撮ったものである。二枚目はそこをちょっと下ってから上の曲がり角を撮ったもので、四枚目はさらに下ってから撮ったもので、曲がり角からちょっと急に下っているが、距離は短い。

坂名(蛍坂)は、上記のように、近くの蛍沢に由来するが、この北にある七面坂と三崎坂との中間にあるので、中坂ともいった。横関によれば、中坂は新坂と同義であるので、この坂は、二つの坂の後にできたと思われる。

また、この坂はお寺に囲まれていたので、三年坂ともよばれ(横関)、この坂でころぶと三年以内に死ぬという迷信があり、同名の坂が都内に数カ所ある(以前の記事)。

蛍坂遠景 御江戸大絵図(天保十四年(1843)) 江戸名所図会 蛍沢 坂下を西へ進み突き当たりを左折し、次を左折してから前方(東側)を見ると、一枚目の写真のように広場の向こうに森が見え、そのわきに先ほどの階段が見えるが、その上に蛍坂が横に延びている。その上に墓地が見える。この坂は、上野台地の西端の一部に、崖地を横切るようにしてできた坂であることがわかる。このため、坂道を拡幅しようとしてもできず、いまも狭いままとなっていると思われる。その意味で、むかしから続く形態(坂の狭さ)を残している所である。

三枚目は、『江戸名所図会』にある蛍沢の挿絵で、これをながめていると、このあたりの往古の風景が思い浮かぶようである。挿絵上部の文章は次のとおり。

「蛍沢
谷中宗林寺の境内にあり。また妙林寺の池をも蛍沢と唱ふ。すべてこの辺、蛍の光、他に勝れたり。
 草の葉を落つるより飛ぶほたるかな 芭蕉」
(続く)

参考文献
横関英一「江戸の坂 東京の坂(全)」(ちくま学芸文庫)
山野勝「江戸の坂 東京・歴史散歩ガイド」(朝日新聞社)
岡崎清記「今昔 東京の坂」(日本交通公社)
石川悌二「江戸東京坂道辞典」(新人物往来社)
「嘉永・慶応 江戸切絵図(尾張屋清七板)」(人文社)
市古夏生 鈴木健一 編「江戸切絵図集 新訂 江戸名所図会 別巻1」(ちくま学芸文庫)
デジタル古地図シリーズ第一集【復刻】江戸切絵図(人文社)
デジタル古地図シリーズ第二集【復刻】三都 江戸・京・大坂(人文社)
「大日本地誌大系御府内備考 第二巻」(雄山閣)
「東京人 特集 東京は坂の町」④april 2007 no.238(都市出版)
「江戸名所図会(五)」(角川文庫)
「新訂 江戸名所図会5」(ちくま学芸文庫)
「古地図・現代図で歩く明治大正東京散歩」(人文社)
「古地図・現代図で歩く戦前昭和東京散歩」(人文社)

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