東京さまよい記

東京をあちこち彷徨う日々を、読書によるこころの彷徨いとともにつづります

清水坂(池之端)

2012年06月28日 | 坂道

今回は、上野池之端の清水坂からはじめて谷中方面に向かい、西日暮里駅近くの地蔵坂まで行き、そこからちょっともどり富士見坂を下った。上野台地にできた坂を巡ったが、このあたりも名坂が多い。

森鴎外旧居跡 森鴎外旧居跡 森鴎外旧居跡説明板 森鴎外旧居跡 午後地下鉄千代田線根津駅下車。

不忍通りを南へちょっと歩き、横断し、東へ向かい、突き当たりを左折すると、鴎外荘の名のあるホテルがある。一枚目の写真はホテルを南側から撮ったもので、この道の右側(東)は、上野動物園である。

ホテルの入口わきに、二枚目のように、森鴎外居住之跡と刻んだ石柱と台東区教育委員会の説明板が立っている。三枚目はその説明板を撮ったものである。鷗外(鴎外)は、明治二十二年(1889)三月に西周夫妻の媒酌で海軍中将赤松則良の長女登志子と結婚し、五月末下谷上野花園町の赤松家持家に移居した。鴎外二十七歳の時である。説明板にあるように、その家がいまも残されているが、四枚目はそれを撮ったものである。

鴎外は、翌年、一月に「舞姫」を発表したが、それは、ドイツ留学から帰国した(1888)後、エリーゼが来日した事件の自分なりの決着をつけるものであった。その年の九月、長男於兎が出生し、十月、この家を出て、千駄木町五十七番地に移り、登志子と離婚した。この移転先には、明治二十五年(1892)一月に千駄木町二十一番地に転居するまで住んだ。この千駄木町五十七番地の家には、後年、夏目漱石が居住した(以前の記事)。

清水坂下手前 清水坂下 清水坂曲がり 清水坂下 鴎外荘ホテルを左に見て、北へ進むと、一枚目の写真のように、T字路の信号が見えてくる。このT字路を右折すると、清水坂の坂下である。二枚目は信号のところから撮ったもので、坂下からまっすぐにかなり緩やかに上っている。

信号から進むと、まもなく、突き当たりで、左に小さな円弧を描くようにしてほぼ直角に曲がっている。この曲がりはこの坂のもっとも特徴的な所である。三枚目はその曲がりの手前から撮ったもので、このあたりから少しであるが、勾配がついてくる。

四枚目は曲がりの手前から坂下を撮ったもので、突き当たりを左折すると、先ほどの鴎外荘ホテルの方である。

上野公園内の清水観音堂へと上る階段坂も清水坂であるが、これは「きよみず」坂とよばれる。

清水坂曲がり 清水坂曲がり 清水坂曲がり 清水坂中腹 カーブをちょっと進むと、一枚目の写真のように、ちょっといびつだが、丸く曲がっている。二枚目はさらに進んで撮ったもので、カーブの向こうに坂上が見えてくる。

この道は、抜け道のためかどうかわからないが、かなり車が通る。歩道が狭いので、その都度、端に寄ってやり過ごしてから写真を撮らなければならない。

三枚目はカーブを曲がってから坂下側を撮ったもので、角に坂の標柱が写っている。四枚目はそこから坂上側を撮ったもので、中程度よりも緩やかな勾配でまっすぐに西北へ上っている。

標柱には次の説明がある。

「清水坂(しみずざか) 坂近くに、弘法大師にちなむ清泉が湧いていたといわれ、坂名はそれに由来したらしい。坂上にあった寛永寺の門を清水門と呼び、この付近を清水谷と称していた。かつては樹木繁茂し昼でも暗く、別名「暗闇坂」ともいう。」

清水坂中腹 清水坂中腹 小石川谷中本郷絵図(文久元年(1861)) 東都下谷絵図(文久二年(1862)) 一枚目の写真は、カーブの先の中腹あたりから坂上を撮ったもので、坂の右側は上野高校である。二枚目は坂下を撮ったものである。

三枚目は、尾張屋板江戸切絵図 小石川谷中本郷絵図(文久元年(1861))の部分図であるが、不忍池の右側(北)に湖畔から谷中の方へ入る何度か直角近くに曲がっている道がある。この江戸切絵図と明治実測地図(明治十一年(1878))とを見比べると、清水坂は、湖畔から何度か曲がって最初に直角に曲がる前後と思われる。

近江屋板を見ると、上記とほぼ同じ道筋があり、池の方から来て最初に直角に曲がる直前の道に坂マーク△がある。

四枚目は、尾張屋板江戸切絵図 東都下谷絵図(文久二年(1862))の部分図で、左の不忍池から右へと延びる道があるが、この坂は、上端からはみ出したためか、描かれていないようである。その先に、清水門があるが、ここが標柱の云う寛永寺の清水門であると思われる。

この坂は、上記の江戸絵図から推測すると、江戸から続く坂と思われる。

清水坂上 清水坂上 清水坂上 清水坂上 一、二、四枚目の写真は坂上を撮ったもので、坂上近くになるとかなり緩やかになる。三枚目は坂上近くから坂下を撮ったものである。

江戸名所図会の「清水稲荷社」に次のような記述がある。

「・・・又『江戸名所記』の説に弘法大師東国遊化の砌(みぎり)、武蔵国にてひとつの小坂に(東叡山西の麓、清水門の坂これなりといへり。)かかり給ふ頃、老女の水桶を戴きて行くあり。大師かの水を乞ひたまふ時、老女の云(いわ)く、この辺に水なく遠くこれを汲む由まうしければ、大師憐(あわれ)み独鈷を以って加持したまひければ、その所に清泉湧出す。その傍らに当社を勧請し給ひけるといふ。」

このような弘法大師伝説は全国至るところにあるが、ここでは、その清泉がこの坂名や清水谷や清水門の由来となっている。
(続く)

参考文献
横関英一「江戸の坂 東京の坂(全)」(ちくま学芸文庫)
山野勝「江戸の坂 東京・歴史散歩ガイド」(朝日新聞社)
岡崎清記「今昔 東京の坂」(日本交通公社)
石川悌二「江戸東京坂道辞典」(新人物往来社)
「嘉永・慶応 江戸切絵図(尾張屋清七板)」(人文社)
市古夏生 鈴木健一 編「江戸切絵図集 新訂 江戸名所図会 別巻1」(ちくま学芸文庫)
デジタル古地図シリーズ第一集【復刻】江戸切絵図(人文社)
「東京人 特集 東京は坂の町」④april 2007 no.238(都市出版)
「江戸から東京へ明治の東京」(人文社)
「江戸名所図会(五)」(角川文庫)

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