東京さまよい記

東京をあちこち彷徨う日々を、読書によるこころの彷徨いとともにつづります

三段坂

2012年06月30日 | 坂道

清水坂から三段坂下への道 三段坂下 三段坂下 三段坂中腹 前回の清水坂の坂上を右折すると、東京芸大のわきを通って上野桜木の寛永寺の方へ行くことができるが、そうせず、そのまま直進すると、一枚目の写真のように、細い道が下っている。この小坂を下って二本目を右折すると、三段坂の坂下である。

二枚目は、右折してすぐ坂上側を撮ったもので、二車線の広めの通りがまっすぐに延びている。さきほどまでの清水坂などよりも広く、新開の道であることがわかる。三枚目は、そこからちょっと歩いてから撮ったものである。

四枚目は、坂中腹から坂下側を撮ったもので、左側に坂の標柱が立っていて、次の説明がある。

「三段坂(さんだんざか)
『台東区史』はこの坂について、「戦後、この清水町に新しい呼名の坂が、十九番地から二十一番地にかけて屋敷町の大通りに生れた。段のついた坂なので三段坂と呼ばれている。」と記している。戦後は第二次大戦後であろう。清水町はこの地の旧町名。この坂道は明治二十年(一八八七)版地図になく、同二十九年版地図が描いている。したがって、明治二十年代に造られた坂道である。」

小石川谷中本郷絵図(文久元年(1861)) 三段坂中腹 三段坂中腹 三段坂上 一枚目の尾張屋板江戸切絵図 小石川谷中本郷絵図(文久元年(1861))の部分図を見ると、清水坂の道は、上野山内と松平伊豆守の下屋敷との間を坂上からさらに二回直角に曲がって谷中へと続いている。この坂のある通りは、松平邸の中で、まだできていない。

明治実測地図(明治十一年(1878))にもまだないが、明治地図(明治四十年)には見える。標柱の説明のとおり、坂は明治二十年代にできたと思われるが、坂名は戦後のものらしい。このため、横関には説明がない。

標柱に「段のついた坂なので三段坂と呼ばれている」(台東区史)との説明があるので、標柱の上側から坂下方面を撮った二枚目の写真を見ると、坂下の向こうに小さな下りがあることがわかる(自転車の二人がいるあたり)。つまり、これまでの坂下の長い通りの先に、さらに下った坂下がある。

上二枚目の写真をもう一度見ると、先ほどの清水坂の方からでた交差点のあたりがこの坂下側のスロープのようであるが、かなり緩やかである。

三枚目は坂上を、四枚目は坂上から撮ったものである。三段坂の三段というのは、この坂上を上段、その下のかなり長い道を中段、さらにその先の緩やかな坂の下側を下段としたものであろう。ということで、この坂は、坂上側の短いスロープだけの小坂と思っていたが、そうではなく、坂下側の第2のスロープを含めた全体としてかなり長い坂である。文字通りの三段の坂が静かな住宅街の広めの通りにできている。岡崎には、サフラン坂ともよばれたとある。

坂下の突き当たりを左折すると、清水坂下の信号のあるT字路の交差点、鴎外荘ホテルの方で、右折すると、善光寺坂の坂下近くにでる。
(続く)

参考文献
横関英一「江戸の坂 東京の坂(全)」(ちくま学芸文庫)
山野勝「江戸の坂 東京・歴史散歩ガイド」(朝日新聞社)
岡崎清記「今昔 東京の坂」(日本交通公社)
石川悌二「江戸東京坂道辞典」(新人物往来社)
「嘉永・慶応 江戸切絵図(尾張屋清七板)」(人文社)
市古夏生 鈴木健一 編「江戸切絵図集 新訂 江戸名所図会 別巻1」(ちくま学芸文庫)
デジタル古地図シリーズ第一集【復刻】江戸切絵図(人文社)
「東京人 特集 東京は坂の町」④april 2007 no.238(都市出版)
「江戸から東京へ明治の東京」(人文社)
「古地図・現代図で歩く明治大正東京散歩」(人文社)

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