東京さまよい記

東京をあちこち彷徨う日々を、読書によるこころの彷徨いとともにつづります

横見坂~樹木谷坂

2011年12月23日 | 坂道

尾張屋板江戸切絵図(小石川谷中本郷絵図) 横見坂下 横見坂下 横見坂下 前回の傘谷坂上の湯島二丁目の交差点を右折し、東へ進む。途中、左手に霊雲寺が見える。次の交差点を右折すると、南へ平坦な道がちょっと続くが、やがて横見坂の坂上に至る。写真は坂下から坂上へならべている。

勾配は中腹あたりでやや急になっている。少しうねっており、坂下から見て左にわずかに曲がっている。坂下の蔵前橋通りから北へ上る坂で、西の傘谷坂、東の清水坂とほぼ平行である。

一枚目の尾張屋板江戸切絵図(小石川谷中本郷絵図 文久元年(1861))を見ると、霊雲寺が目印となって、現在の位置との対比が容易である。霊雲寺のある四差路の角から南へ延びる道がこの坂で、途中少々曲がっている。この坂下から南へさらに続く道が樹木谷坂である。近江屋板も同様で、この坂を示す坂マーク△と、樹木谷坂を示す坂マーク△があり、その間が樹木谷であろう。

上記のように、二つの坂は江戸から続く坂であるが、二~四枚目の写真のように、坂下側でちょっと曲がった道筋は、むかしの名残りであると思われる。

横見坂下側 横見坂上側 横見坂上 横見坂上 坂の中腹西側に説明パネルが立っており、次の説明がある。

「横見坂(横根坂)
 『御府内備考』に、
 「右坂は町内より湯島三組町え上り候坂にて、当町並本郷新町家持に御座候・・・・・・・里俗に横根坂と相唱申候」とある。
 坂下の蔵前通りの新妻恋坂の一帯は、かつて樹木谷といわれ、樹木が茂っていた。この谷から湯島台に上るこの坂の左手に富士山が眺められた。
 町の古老は、西横に富士山がよく見えて、この坂を登るとき、富士を横見するところから、誰いうとなく横見坂と名づけられたといっている。
 坂の西側一帯は、旧湯島新花町である。ここに明治30年頃、島崎藤村が住み、ここから信州小諸義塾の教師として移って行った。
 その作品『春』の中に、
 「湯島の家は俗に大根畠と称えるところに在った。・・・・・・・大根畠は麹の香のする町で」とある。ローム層の台地は、麹室には最適で『文政書上』には、百数十軒の麹屋が数えられている。
  文京区教育委員会 昭和56年3月」

盛りだくさんの説明である。坂を上るとき、横に富士が見えたので、横見坂とはいかにも江戸っ子らしい命名である。

明治地図(明治40年)を見ると、この坂と傘谷坂の間、霊雲寺の南側に新花町があり、その下側(南)が湯島四丁目である。島崎藤村は、一家で、明治28年(1895)7月、本郷湯島新花町(大根畠)二十四番地に転居した。23歳の時で、翌年、本郷森川町へ移転している。

「湯島の家は俗に大根畠ととなえるところにあった。岸本が荷車と一緒に着いたころは母も、姉も、幸平兄も、それから愛子も、みんなもう新しい住居に移っていた。
 大根畠は麹の香のする町で、上麹、白米と記した表障子、日あたりのいい往来のわきに乾し並べた桶、軒下に積み重ねた松薪などの見られる場処である。そこは湯島四丁目の浅い谷をへだてて、神田明神の杜を望むような位置にある。」

藤村『春』の上記の引用部分であるが、その湯島四丁目の浅い谷とは、樹木谷であると思われる。

横関によれば、横根坂の別名について、江戸っ子が横見坂をうまく洒落たつもりで呼び替えたものであるという。江戸っ子の悪い癖のでた洒落であるとする。

樹木谷坂下 樹木谷坂下 樹木谷坂中腹 横見坂下から蔵前橋通りの反対側を撮ったのが一枚目の写真で、ちょうど正面が樹木谷坂の坂下である。蔵前橋通りができる前は、続きの道であったことがわかる。通りを横断するが、坂の右側(西)におりがみ会館というのがある。

勾配は中程度よりも緩やかといった感じで、本郷通りに達する手前でほぼ平坦になり、短い坂である。下一、三枚目の写真のように、坂下の向こうに横見坂下が見える。

坂の中腹西側に説明パネルが立っており、次の説明がある。

「樹木谷坂   文京区湯島1-7と10の間
 地獄谷坂とも呼ばれている。この坂は、東京医科歯科大学の北側の裏門から、本郷通りを越えて、湯島1丁目7番の東横の道を北へ、新妻恋坂まで下る坂である。そして、新妻恋坂をはさんで、横見坂に対している。
 『御府内備考』には、「樹木谷3丁目の横小路をいふ」とある。
 尭恵法印の『北国紀行』のなかに「文明19年(1487)正月の末、武蔵野の東の界・・・並びに湯島といふ所あり。古松遥かにめぐりて、しめの内に武蔵のゝ遠望かけたるに、寒村の道すがら野梅盛に薫ず」とある。天神ゆかりの梅の花が咲く湯島神社周辺のようすである。
 徳川家康が江戸入府した当時は、この坂下一帯の谷は、樹木が繁茂していた。その樹木谷に通ずる坂ということで、樹木谷坂の名が生まれた。
 地獄谷坂と呼ばれたのは、その音の訛りである。
 なお、湯島1丁目の地に、明治14年(1881)渡辺辰五郎(千葉県長南町出身)が近代的女子技術教育の理想をめざし、和洋裁縫伝習所を創設した。その後、伝習所は現東京家政大学へ発展した。
  文京区教育委員会 平成10年3月」

『御府内備考』の新町家の書上に樹木谷・地獄谷について次のようにある。

「湯島三丁目横町より当町えの往来坂下右の方、杉浦房次郎殿御屋敷え流候大下水の所、樹木谷と里俗相唱申候 尤右様唱申候訳相分不申候、当時唱誤地獄谷共相唱申候、」

上記によれば、湯島三丁目横町より当町までの通りの坂(この坂と思われる)下の右の方にある(杉浦房次郎殿御屋敷へ流れる)大下水の所を樹木谷と俗称した。もっともそのように呼んだ理由はわからない。当時、地獄谷とも誤って呼んだ。

樹木谷坂上側 樹木谷坂上 樹木谷坂上 麹町の善国寺坂の記事で、『紫の一本』を引用し、その坂下の谷付近を地獄谷ともいったが、その後、その名を嫌われて樹木谷とよんだことを紹介した。同著の同じ地獄谷の説明に、「地獄谷と云ふ所は、湯島金助丁より天神へ行く所にもあり。」とある。

『紫の一本』が書かれたのは天和二年(1682)頃、『御府内備考』は文政十二年(1829)頃で、前者にあるようにこの谷も地獄谷と呼ばれ、後者は150年後に書かれたことであり、麹町のように地獄谷の名が嫌われて樹木谷と呼ばれるようになった後に記述したと考えることもできる。前者の記述しか根拠はないが、麹町と同様に地獄谷がもともとの名のような気がする。樹木谷というのは、地獄谷の代わりに、誰かがひねり出した名のような感じもするからである。

傘谷坂の記事で紹介したように、横関は、小さな谷を挟んで二つの坂がある場合、谷の名をよんで坂の意味を持たせたとし、樹木谷をその例にあげ、また、二つの坂のいずれか一方のみをよぶようになった坂もあるとしている。この樹木谷坂もその例とも考えられるが、この場合は、ちょっと違って、片方の坂に横見坂(横根坂)という名がついたため、そのまま別々の名となったと考えた方が自然である。

本郷通りの手前で平坦になっているので、その手前で引き返したが、通りの向こうの東京医科歯科大学の裏門のあたりまで続いていたようである。上記の江戸切絵図を見ると、その近くに鉄砲鋳場があり、それに江川太郎左衛門掛(係)とある。江川は、幕末の伊豆韮山の代官で、台場の建設などを提言した(台場公園の記事)。砲弾などの鋳物工場の責任者であったようである。

中沢新一「アースダイバー」に添付の縄文海進期の地図を見ると、現在本郷台地とよばれるあたりは、その東端が海に面し、神田明神と妻恋神社との間から海が西へ、西北へと入り込んでいる。そこにこの樹木谷があることがわかる。
(続く)

参考文献
横関英一「江戸の坂 東京の坂(全)」(ちくま学芸文庫)
山野勝「江戸の坂 東京・歴史散歩ガイド」(朝日新聞社)
岡崎清記「今昔 東京の坂」(日本交通公社)
石川悌二「江戸東京坂道辞典」(新人物往来社)
「嘉永・慶応 江戸切絵図(尾張屋清七板)」(人文社)
市古夏生 鈴木健一 編「江戸切絵図集 新訂 江戸名所図会 別巻1」(ちくま学芸文庫)
「大日本地誌大系御府内備考 第二巻」(雄山閣)
「新潮日本文学アルバム 島崎藤村」(新潮社)
島崎藤村「春」(岩波文庫)
校注・訳 鈴木淳 小道子「近世随想集」(小学館)
中沢新一「アースダイバー」(講談社)
「古地図・現代図で歩く明治大正東京散歩」(人文社)

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