東京さまよい記

東京をあちこち彷徨う日々を、読書によるこころの彷徨いとともにつづります

永久寺(仮名垣魯文の墓)

2012年07月22日 | 散策

永久寺門前 永久寺 仮名垣魯文説明板 前回の三崎坂上についたとき、仮名垣魯文(かながきろぶん)の墓があるという永久寺を思い出した。以前の記事で次の永井荷風の『断腸亭日乗』昭和16年(1941)10月27日の記事を引用したからである。

「十月廿七日、晴れて風あり。午後散歩。谷中三崎町坂上なる永久寺に仮名垣魯文の墓を掃ふ。団子坂を上り白山に出でたれば原町の本念寺に至り山本北山累代の墓及大田南畝の墓前に香花を手向く。南畝の墓は十年前見たりし時とは位置を異にしたり。南岳の墓もその向変わりたるやうなり。寺を出で指ヶ谷町に豆腐地蔵尚在るや否やを見むと欲せしが秋の日既に暮れかかりたれば電車に乗りてかへる。」

荷風は、この日、三崎坂上の永久寺に仮名垣魯文の墓を掃苔し、それから三崎坂を下り、団子坂を上り白山にでて、原町の本念寺に至った。荷風は「谷中三崎町坂上」とし「三崎坂」としていないが、この坂名はあまり一般的でなかったのだろうか、そんな疑問が生じる。

坂上をちょっと進むと、永久寺はすぐの所にあった。一枚目の写真は坂上から門前を撮ったものである。境内に入ると、正面右側に二枚目のように説明板が立っている。三枚目は、その拡大である。今回は境内の説明板までで、仮名垣魯文の墓には行けなかった。

根岸谷中日暮里豊島辺図(安政三年(1856)) 左の尾張屋板江戸切絵図 根岸谷中日暮里豊島辺図(安政三年(1856))の部分図を見ると、三崎坂上に永久寺がある。

仮名垣魯文についてはほとんど知らなかったが、上記の荷風の日乗の記述に加え、森鷗外(鴎外)の『細木香以』に次のような記載があったので、今回、記事にした。細木香以は、江戸時代後半のいわゆる大通(遊芸に通じた大趣味人)の一人である。

「子之助は此年十二月下旬に継母の里方鳥羽屋に預けられた。これは新宿、品川二箇所の引手茶屋に借財を生じたためである。子之助時に二十歳であった。
 然るに竜池の遊所通は罷んでも、子之助のは罷まなかった。天保十三年三月の頃から五分月題(さかやき)の子之助は丁稚(でっち)兼吉を連れて、鳥羽屋を出で、手習の師匠松本、狂歌の宗匠梅屋鶴寿等を訪ふことになったが、その帰途には兼吉を先に還らせて、自分は劇場妓楼に立ち寄った。兼吉は綽号(あだな)を鳥羽絵小僧と云った。想うに鳥羽屋の小僧で、容貌が奇怪であったからの名であらう。即ち後の仮名垣魯文である。」(五)

子之助(ねのすけ)は主人公香以で、せっせと遊所に通っていたところ、同じく父竜池もそうだったが、父はあることで止めた。子之助は止めず、引手茶屋に借金をつくったため継母の里の鳥羽屋に預けられた。その鳥羽屋の丁稚で子之助のお供をした兼吉が後の仮名垣魯文である。ただ、これだけのことだが、鴎外がさりげなく書いているので、かえって気にとまった。
(続く)

参考文献
「嘉永・慶応 江戸切絵図(尾張屋清七板)」(人文社)
デジタル古地図シリーズ第一集【復刻】江戸切絵図(人文社)
永井荷風「新版 断腸亭日乗」(岩波書店)
「鴎外選集 第六巻」(岩波書店)
「芥川龍之介全集1」(ちくま文庫)

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