東京さまよい記

東京をあちこち彷徨う日々を、読書によるこころの彷徨いとともにつづります

団子坂(千駄木)

2012年02月23日 | 坂道

団子坂上 団子坂上 団子坂上 前回の藪下通りから交差点に出ると、団子坂の坂上であるが、そこを横断して坂下を撮ったのが一枚目の写真である。二枚目は、反対側の坂上の先(西側)である。三枚目の写真のように、まっすぐに東へ下って、坂下側で右へ曲がってから不忍通りにつながる。中程度よりもきつめの勾配であるが、坂下側で曲がってからは緩やかになる。坂上の交差点を左折すると、本郷保健所通りが北へ延びている。

漱石旧居跡汐見坂、さきほどの藪下通りまで、人通りが少なく、静かな散歩が続いたが、この坂に出ると、車の通行量が多くなり、雰囲気が一変する。坂下の交差点近くに千代田線千駄木駅があるので人通りも多い。

坂上側の歩道(北)に坂の標識が立っており、次の説明がある。

「団子坂    文京区千駄木2丁目と3丁目の境
 潮見坂、千駄木坂、七面坂の別名がある。
 『千駄木坂は千駄木御林跡の側、千駄木町にあり、里俗団子坂と唱ふ云々』 (御府内備考)
 「団子坂」の由来は、坂近く団子屋があったともいい、悪路のため転ぶと団子のようになるからともいわれている。また、「御府内備考」に七面堂が坂下にあるとの記事があり、ここから「七面坂」の名が生まれた。「潮見坂」は坂上から東京湾の入江が望見できたためと伝えられている。
 幕末から明治末にかけて菊人形の小屋が並び、明治40年頃が最盛期であった。また、この坂上には森鴎外、夏目漱石、高村光太郎が居住していた。
  文京区教育委員会  平成10年3月」

尾張屋板江戸切絵図(小石川谷中本郷絵図) 天保御江戸大絵図 一枚目の尾張屋板江戸切絵図(小石川谷中本郷絵図(文久元年(1861))の部分図を見ると、根津権現裏から北へ延びる道(藪下通り)の四差路を右折した道にタンコサカとある。坂下北側に千駄木坂下町がある。近江屋板にも同じ道に、△タンコ坂とある。

二枚目は、天保御江戸大絵図(天保十四年(1843))の部分図であるが、これにも、坂マークの横棒とともにダンゴザカとある。

上記の標識に引用されている『御府内備考』の千駄木坂についての全文は以下のとおりである。

「千駄木坂
 千駄木坂は千駄木御林跡の側、千駄木町にあり、里俗団子坂と唱ふ、此坂の傍に昔より団子を鬻(ひさぎ)て茶店ある故の名なり、今は団子のみならず、種々の食物をも商ふ繁昌の地となれり。」

上記には、潮見坂について説明はないが、千駄木町の書上に町名由来などともに次のようにある。

「千駄木町
一 町名起りの儀は往古当町に御林有之、日々千駄木宛木を切出し候に付き千駄木と相唱候由、又は栴檀の大木有之候に付き千駄木と相唱候共申伝候、尤も古書物無之分明には無御座候、草分人の名相分不申候、
・・・
一 四隣 東の方下駒込村、南の方同断、西の方世尊院門前、北の方千駄木御林跡地、
・・・
一 坂 登り凡壱町程、幅貳間半、
 右坂上より佃沖相見候に付き汐見坂と唱候由、然る処坂際に団子屋多有之候に付き、いつとなく団子坂と里俗に相唱候由御座候、
一 七面堂 間口九尺、奥行九尺、
 右当町団子坂下往来より九尺程引込有之、木像にて岩に乗座とも丈け三寸程厨 子入、起立作人の名相分不申候、」

千駄木御林跡というのは、二枚目の天保御江戸大絵図に見え、団子坂の北西一帯に広がり、上野寛永寺に属した。千駄木の地名の由来として、『御府内備考』によれば、その御林から、一日に「千」の駄木を切出したから、栴檀(せんだん)の大木があったからの説がある。

団子坂の別名汐見坂について佃沖が見えたからとあり、鷗外は『細木香以』で観潮楼上から「浜離宮の木立の上を走る品川沖の白帆」が上野の山の端と忍岡との間に見えたと書いている。坂上から坂の方向(東)に海が見えたのではなく、かなりずれた方に見えた。汐見坂の方が団子坂よりも古い名のようである。

『江戸名所図会』の根津権現の旧地の挿絵に、(根津権現の旧地を)「千駄木坂のうへわずかばかりの地をさしていへり。この近辺芸花園(うえきや)多く、庭中四時草木の花絶えず。 千駄木坂、旧名を潮見坂ともいひ、また七面の宮あるゆえに、七面坂とも号くるといへり。」とある。

『御府内備考』には、七面堂が団子坂下の往来より九尺程引っ込んであり、木像が岩に乗り座をいれて高さ三寸程で厨子に入っており、作者不明であることが記されている。これが七面坂の由来である。

団子坂上 団子坂上 団子坂上側 団子坂上側 前回の記事で鷗外『青年』の主人公が観潮楼の門前から「身顫をして門前を立ち去った。」までを引用したが、それに以下が続く。

「四辻を右へ坂を降りると右も左も菊細工の小屋である。国の芝居の木戸番のように、高い台の上に胡坐(あぐら)をかいた、人買か巾着切りのような男が、どの小屋の前にもいて、手に手に絵番附のようなものを持っているのを、往来の人に押し附けるようにして、うるさく見物を勧める。まだ朝早いので、通る人が少い処へ、純一が通り掛かったのだから、道の両側から純一一人を的(あて)にして勧めるのである。外から見えるようにしてある人形を見ようと思っても、純一は足を留めて見ることが出来ない。そこで覚えず足を早めて通り抜けて、右手の広い町へ曲った。
 時計を出して見れば、まだ八時三十分にしかならない。まだなかなか大石の目の醒める時刻にはならないので、好い加減な横町を、上野の山の方へ曲った。狭い町の両側は穢(きた)ない長屋で、塩煎餅を焼いている店や、小さい荒物屋がある。物置にしてある小屋の開戸が半分開いている為めに、身を横にして通らねばならない処さえある。勾配のない溝に、芥が落ちて水が淀んでいる。血色の悪い、瘠せこけた子供がうろうろしているのを見ると、いたずらをする元気もないように思われる。純一は国なんぞにはこんな哀な所はないと思った。
 曲りくねって行くうちに、小川に掛けた板橋を渡って、田圃が半分町になり掛かって、掛流しの折のような新しい家の疎(まばら)に立っている辺に出た。一軒の家の横側に、ペンキの大字で楽器製造所と書いてある。成程、こんな物のあるのも国と違う所だと、純一は驚いて見て通った。
 ふいと墓地の横手を谷中の方から降りる、田舎道のような坂の下に出た。灰色の雲のある処から、ない処へ日が廻って、黄いろい、寂しい暖みのある光がさっと差して来た。坂を上って上野の一部を見ようか、それでは余り遅くなるかも知れないと、危ぶみながら佇立している。」

坂下には右も左も菊細工の小屋があり、人買か巾着切りのような男が、どの小屋の前にもいて、うるさく見物を勧めるので、足早に通り抜けて、右手の広い町へ曲った。明治地図(明治四十年)を見ると、団子坂下には、まだ、不忍通りはできていないが、右折すると、ちょっと広い道が南の方へ延びている。この道へと曲がったのであろう。適当に横町を上野の山の方へ曲がると、狭い町の両側は汚い長屋で、塩煎餅の店や、小さい荒物屋があり、勾配のない溝にゴミが落ちて水が淀んでいる。血色の悪いやせこけた子供がうろうろしているのを見て、自分の田舎にはこんなあわれな所はないと思ったなどとあるように、この辺りの当時の様子がよくわかる。

勾配のない溝にゴミが落ちて水が淀んでいることや血色の悪いやせこけた子供などの描写に、鷗外の専門家(衛生学)としての見方があらわれているのかもしれない。

戦前の昭和地図(昭和十六年)を見ると、不忍通りができ、電車も通り、坂下には団子坂下駅がある。この辺も明治~大正から大きく変わったことがわかる。

団子坂上側 団子坂中腹 団子坂中腹 団子坂中腹 夏目漱石『三四郎』にも次のようにこの坂がでてくる。

「団子坂の上まで来ると、交番の前へ人が黒山のようにたかっている。迷子はとうとう巡査の手に渡ったのである。
 「もう安心大丈夫です」と美禰子が、よし子を顧みて云った。よし子は「まあ可(よ)かった」といふ。
 坂の上から見ると、坂は曲がっている。刀の切先のようである。幅はむろん狭い。右側の二階建が左側の高い小屋の前を半分遮っている。其後には又高い幟(のぼり)が何本となく立てゝある。人は急に谷底へ落ち込む様に思はれる。其落ち込むものが、這い上がるものと入り乱れて、道一杯に塞がっているから、谷の底にあたる所は幅をつくして異様に動く。見ていると目が疲れるほど不規則に蠢いている。広田先生はこの坂の上に立って、
 「是は大変だ」と、さも帰りたそうである。四人はあとから先生を押す様にして、谷へ這入った。其谷が途中からだらだらと向へ廻り込む所に、右にも左にも、大きな葭簀掛(よしずが)けの小屋を、狭い両側から高く構へたので、空さえ存外窮屈にみえる。往来は暗くなる迄込み合っている。其中で木戸番ができる丈大きな声を出す。「人間から出る声じゃない。菊人形から出る声だ」と広田先生が評した。それほど彼等の声は尋常を離れている。
 一行は左の小屋へ這入った。曾我の討入がある。五郎も十郎も頼朝もみな平等に菊の着物を着ている。但し顔や手足は悉く木彫りである。其次は雪が降っている。若い女が癪(しゃく)を起こしている。是も人形の心(しん)に、菊を一面に這はせて、花と葉が平に隙間なく衣装の恰好となる様に作ったものである。」

一行は、団子坂の上に出るが、坂の上から見ると、坂は曲がっており、刀の切先のようで、幅はむろん狭いとある。坂下側で曲がっている所は、刀の先のとがったところの切先(きっさき)のようである。 坂下側を、人は急に谷底へ落ち込むようだ、と描いているが、急な勾配で狭い道のためそのように見えたのだろうか。落ち込むものと這い上がるものが入り乱れているというのがおもしろい。坂を下る者と上る者をこのように描くと、異様に動くことがいっそうリアルである。

鷗外『青年』と同じように(この『三四郎』の方が早く書かれているが)、坂下の菊人形の小屋のことが詳しく描かれている。

団子坂下側 団子坂下側 団子坂下 団子坂下 団子坂の由来は、『御府内備考』では、坂の傍らに団子を売る茶店があったからとしているが、横関は、急坂でたびたびこの坂でころび、団子のようにころがることから、団子坂とよぶようになったとしている(上記の標識もこの説を紹介している)。これと同じ意味の坂名として炭団坂(ころんで炭団になる、ころんで泥だらけになる)がある。江戸時代の坂は、いまのアスファルトのようなものではなく、土と砂利で固まっていれば上等の方で、ほとんどの坂がでこぼこで、急な坂はころびやすかった。

横関に、坂下の曲がったあたりから坂上を撮った写真(昭和40年頃)がのっているが、一枚目の写真と同じようなカーブとなっている。このカーブが漱石が刀の切先のようとしたところと思われ、この坂の特徴の一つである。
(続く)

参考文献
横関英一「江戸の坂 東京の坂(全)」(ちくま学芸文庫)
山野勝「江戸の坂 東京・歴史散歩ガイド」(朝日新聞社)
岡崎清記「今昔 東京の坂」(日本交通公社)
石川悌二「江戸東京坂道辞典」(新人物往来社)
「嘉永・慶応 江戸切絵図(尾張屋清七板)」(人文社)
デジタル古地図シリーズ第一集【復刻】江戸切絵図(人文社)
デジタル古地図シリーズ第二集【復刻】三都 江戸・京・大坂(人文社)
市古夏生 鈴木健一 編「江戸切絵図集 新訂 江戸名所図会 別巻1」(ちくま学芸文庫)
「古地図・現代図で歩く明治大正東京散歩」(人文社)
「古地図・現代図で歩く戦前昭和東京散歩」(人文社)
「鷗外選集 第二巻、第六巻」(岩波書店)
「漱石全集 第七巻 三四郎」(岩波書店)
「大日本地誌大系御府内備考 第一巻」(雄山閣)
「新訂 江戸名所図会5」(ちくま学芸文庫)
「東京地名考 上」(朝日文庫)

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