東京さまよい記

東京をあちこち彷徨う日々を、読書によるこころの彷徨いとともにつづります

新坂(権現坂・S坂)

2012年02月06日 | 坂道

新坂下 新坂下側 新坂下 新坂下側 前回のお化け階段下から直進し、突き当たりを右折し、次を左折していくと、新坂の坂下に出る。左折し、次を右折すると根津神社の参道であるが、そのまま直進して坂上側(カーブの手前)を撮ったのが一枚目の写真である。右側に坂の標識が写っている。ここをちょっと上ると、右に大きく曲がり、二、四枚目の写真のように、急な傾斜となって上っている。

この坂は、坂下と坂上で大きく曲がっているが、曲がってからがこの坂の主要部分で、かなりきつい勾配である。右側は根津神社の境内の崖である。三枚目の写真は曲がり付近から坂下を撮ったもので、左側が神社である。

上記の標識には次の説明がある。

「新坂(権現坂・S坂)  文京区根津一丁目21と28の間
 本郷通りから、根津谷への便を考えてつくられた新しい坂のため、新坂と呼んだ。また、根津権現(根津神社の旧称)の表門に下る坂なので権現坂ともいわれる。  森鷗外の小説『青年』(明治43年作)に、「純一は権現前の坂の方に向いて歩き出した。・・・右は高等学校(注・旧制第一高等学校)の外囲、左は出来たばかりの会堂(注・教会堂は今もある)で、・・・坂の上に出た。地図では知れないが、割合に幅の広い此坂はSの字をぞんざいに書いたように屈曲してついている。・・・」とある。
 旧制第一高等学校の生徒たちが、この小説『青年』を読み、好んでこの坂をS坂と呼んだ。したがってS坂の名は近くの観潮楼に住んだ森鷗外の命名である。
 根津神社現社殿の造営は宝永3年(1706)である。五代将軍徳川綱吉が、綱豊(六代将軍家宣)を世継ぎとしたとき、その産土神として、団子坂北の元根津から、遷座したものである。
  文京区教育委員会  平成14年3月」

新坂中腹 新坂中腹 新坂上側 新坂上側 一、二枚目の写真の坂中腹を上ると、上側で、三、四枚目の写真のように、左に大きく曲がっている。森鷗外が「Sの字をぞんざいに書いたように屈曲してついている。」としているが、坂下、坂上のどちらから見てもいわば逆S状になっている。

次は、その『青年』の壱の冒頭である。

「小泉純一は芝日蔭町の宿屋を出て、東京方眼図を片手に人にうるさく問うて、新橋停留場から上野行の電車に乗った。目まぐろしい須田町の乗換も無事に済んだ。扨(さて)本郷三丁目で電車を降りて、追分から高等学校に附いて右に曲がって、根津権現の表坂上にある袖浦館という下宿屋の前に到着したのは、十月二十何日かの午前八時であった。
 此処は道が丁字路になっている。権現前から登って来る道が、自分の辿って来た道を鉛直に切る処に袖浦館はある。木材にペンキを塗った、マッチの箱のような擬西洋造である。入口の鴨居の上に、木札が沢山並べて嵌めてある。それに下宿人の姓名が書いてある。」

主人公の純一が、故郷で紹介された人物を訪ねることからこの小説がはじまる。その下宿屋は、根津権現の表坂上にあり、道が丁字路で、権現前から登って来る道が、電車通りから来た道を鉛直に切るところにあったとある。このように、下宿屋は、この坂上から延びる道が突き当たるところにあったものと思われる。

「純一は権現前の坂の方へ向いて歩き出した。二三歩すると袂から方眼図の小さく折ったのを出して、見ながら歩くのである。自分の来た道では、官員らしい、洋服の男や、角帽の学生や、白い二本筋の帽を被った高等学校の生徒や、小学校へ出る子供や、女学生なんぞが、ぞろぞろと本郷の通の方へ出るのに擦れ違ったが、今坂の方へ曲って見ると、まるで往来がない。右は高等学校の外囲、左は角が出来たばかりの会堂で、その傍の小屋のような家から車夫が声を掛けて車を勧めた処を通り過ぎると、土塀や生垣を繞(めぐ)らした屋敷ばかりで、その間に綺麗な道が、ひろびろと附いている。」

尋ね人に会えず、引き返すが、坂下の根津権現の方に向けて歩き、坂の方へ曲がると、それまでとは一変してまるで、往来はない。

「坂の上に出た。地図では知れないが、割合に幅の広い此坂はSの字をぞんざいに書いたやうに屈曲して附いている。純一は坂の上で足を留めて向うを見た。  灰色の薄曇をしている空の下に、同じ灰色に見えて、しかも透き徹った空気に浸されて、向うの上野の山と自分の立っている向うが岡との間の人家の群が見える。ここで目に映ずる丈の人家でも、故郷の町程の大さはあるように思はれるのである。純一は暫く眺めていて、深い呼吸をした。
 坂を降りて左側の鳥居を這入る。花崗岩(みかげいし)を敷いてある道を根津神社の方へ行く。下駄の磬(けい)のように鳴るのが、好い心持である。剥げた木像の据えてある随身門から内を、古風な瑞籬(たまがき)で囲んである。故郷の家で、お祖母様のお部屋に、錦絵の屏風があった。その絵に、どこの神社であったか知らぬが、こんな瑞垣があったと思う。社殿の縁には、ねんねこ絆纏の中へ赤ん坊を負って、手拭の鉢巻をした小娘が腰を掛けて、寒さうに体を竦(すく)めている。純一は拝む気にもなれぬので、小さい門を左の方へ出ると、溝のような池があって、向うの小高い処には常磐木の間に葉の黄ばんだ木の雑った木立がある。濁ってきたない池の水の、所々に泡の浮いているのを見ると、厭になったので、急いで裏門を出た。」

そして、坂上を曲がり、上記のように、この坂上にでるのである。ちょうど下二枚目の写真のあたりであろうか。ここから上野の山が見えたとあるが、むかしの眺望のよい時代の話である。坂を下り根津神社に入り、裏門から出た。

以上のような鷗外の小説での描写から、この坂は、新坂、権現坂の名に加えて、S坂ともよばれた。

尾張屋板江戸切絵図(小石川谷中本郷絵図) 新坂上側 新坂上 新坂上 この坂は、根津神社の境内からいうと南側に位置するが、一枚目の尾張屋板江戸切絵図(小石川谷中本郷絵図(文久元年(1861))の部分図を見ると、このあたりは、水戸藩邸と小笠原信濃守邸で、この坂はない。実測明治地図(明治11年)を見てもまだないが、明治地図(明治四十年)には、この坂に相当する道があるので、この間にできた明治の新坂である。

実測明治地図には、本郷台地の外縁が示されているが、その外縁が、南から、無縁坂、暗闇坂の西側、弥生坂上、異人坂上、お化け階段上、新坂上などを結んで北へ延びている。このように、この坂は本郷台地の東端にある崖の一部である。

坂上は、曲がると、三、四枚目の写真のように、すぐに緩やかになり、まっすぐに西へ延びている。この道の左側(南)に、むかし第一高等学校があり、いま東大地震研究所がある。その先の突き当たりに『青年』の主人公が訪ねた下宿屋があったのであろう。

坂上から引き返し、根津神社へ向かう。
(続く)

参考文献
横関英一「江戸の坂 東京の坂(全)」(ちくま学芸文庫)
山野勝「江戸の坂 東京・歴史散歩ガイド」(朝日新聞社)
岡崎清記「今昔 東京の坂」(日本交通公社)
石川悌二「江戸東京坂道辞典」(新人物往来社)
「嘉永・慶応 江戸切絵図(尾張屋清七板)」(人文社)
デジタル古地図シリーズ第一集【復刻】江戸切絵図(人文社)
市古夏生 鈴木健一 編「江戸切絵図集 新訂 江戸名所図会 別巻1」(ちくま学芸文庫)
「江戸から東京へ明治の東京」(人文社)
「古地図・現代図で歩く明治大正東京散歩」(人文社)
「鷗外選集 第二巻」(岩波書店)

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