東京さまよい記

東京をあちこち彷徨う日々を、読書によるこころの彷徨いとともにつづります

ゆ嶺坂~新坂~地蔵坂

2010年07月08日 | 坂道

逢坂の坂下から左折し外堀通りの歩道を進み、次を左折すると、ゆ嶺坂の坂下である。

歩道の際に標柱が立っている。ゆ嶺坂の「ゆ」は「广」の中に「臾」を書く。

右の写真のように、ほぼまっすぐに上り、途中から右に緩やかに曲がっている。

上ると、坂上にも標柱が立っている。それによると、江戸初期この坂あたりに多くの梅の木があったため、二代将軍秀忠が中国の梅の名所をとったと伝えられるが、他にも坂名の由来は諸説あるという(『御府内備考』)。別名「行人坂」「唯念坂」「ゆう玄坂」「幽霊坂」「若宮坂」とも呼ばれる。

別名としてさらに「祐念坂」「祐元坂」などがあるとのことで、多くの別名がある。

この坂は、となりの逢坂と似た雰囲気の坂であるが、長さは短い。

坂上の若宮八幡神社のわきを通り過ぎ、左折し、右折すると、新坂の坂下である。まっすぐに上っている。

坂の中間に標柱が立っている。それには次の説明がある。『御府内沿革図書』によると、享保十六年(1731)四月に諏訪安芸守の屋敷地の跡に、新しく道路が造られた。新坂は、新しく開通した坂として命名されたと伝えられる。

以上のように江戸時代にできた新坂のようである。江戸の中ごろに、武家地の中に坂路を開いたのを、当時新坂と呼んだとのことである。

ところで、goo地図の尾張屋版江戸切絵図を見ると、ゆ嶺坂と相当すると思われる坂上辺りから若宮八幡宮のわきを通る道に「シンサカ」とある。現在、新坂の標柱のある坂との対応が不明である。ところが、横関英一「江戸の坂 東京の坂」(中公文庫)をみると、ゆ嶺坂はさらに「新坂」の別名があるとのこと。したがって、江戸切絵図にあるシンサカはゆ嶺坂と思われる。

坂上を直進すると、平坦となっている道路のわきに同じ新坂の標柱が立っている。

突き当たりを右折し、進むと、やがて四差路に至るが、ここを右折するはずが、誤って直進してしまい、かなり曲がる坂道を下り、大久保通りにでてしまう。

引き返して、左折し、本来の道に戻る。まっすぐに進むと、右の写真のように、坂上付近左側に標柱が立っている。

標柱の説明によると、この坂の上に光照寺があり、そこに近江国(滋賀県)三井寺より移されたと伝えられる子安地蔵があった。それに因んで地蔵坂と呼ばれた。また、藁(わら)を売る店があったため、別名「藁坂」とも呼ばれた。

標柱の立っている反対側の光照寺(こうしょうじ)の門前に牛込城跡の説明板(写真の右端に写っている)が立っている。

それによると、光照寺一帯は戦国時代にこの地域の領主であった牛込氏の居城があったところである。牛込氏の祖は赤城山の麓上野国(群馬県)勢多郡大胡の領主大胡氏で、天文年間(1532~1555)当主大胡重行が南関東に移り、北条氏の家臣となった。その後、重行の子勝行が姓を牛込氏と改め、赤坂・桜田・日比谷付近も含め領有したが、天正十八年(1590)北条氏滅亡後は徳川家康に従い、牛込城は取り壊されたとのことである。

地蔵坂は途中で左に大きく曲がっており、それから少し曲がってからほぼまっすぐに下っている。

左の写真は、大きく曲がってから下った途中で坂上を撮ったものである。

曲がりのところにも標柱が立っている。

地蔵坂と名の付く坂は、各地にあるが、そこに地蔵があったことに因るものがほとんどのようで、今回の地蔵坂も同じである(以前の記事東向島の地蔵坂善福寺川の湧水と地蔵坂を参照)。

坂下は神楽坂につながっている。
(続く)

参考文献
山野勝「江戸の坂 東京・歴史散歩ガイド」(朝日新聞社)
石川悌二「江戸東京坂道辞典」新人物往来社

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