前回の東大の池之端門を出て左折し、北西へ延びる道を進む。左側は、榎坂のわきで、壁がそびえている。ここを過ぎて、しばらく歩いても、一枚目の写真のように、平坦でまっすぐな道がみごとにずっと続いている。坂はまだないが、よく見ると、遠くにかすかに見えてくる。
さらに歩くと、まだ坂の手前であるのに、二、三枚目の写真のように、暗闇坂の標識が立っている。このあたりは、ずっと左側が東京大学構内で、この先に弥生門があり、また、竹久夢二美術館などがあるが、まだ正月であるためか、静かで人通りは少ない。
やがて、ようやく、弥生門をすぎたところから、四枚目の写真のように、緩やかな上りとなる。写真には立原道造記念館も写っている。下二枚目の写真はそこから坂下側を撮ったものであるが、ずっとまっすぐに道が延びている。
上記の標識の裏面には、次の説明がある。
「暗闇坂(くらやみざか) 本郷7丁目と弥生2丁目5の間
江戸時代は、加賀屋敷北裏側と片側寺町の間の坂で、樹木の生い茂った薄暗い寂しい坂であったのであろう。
江戸の庶民は、単純明快にこのような坂を暗闇坂と名づけた。23区内で同名の坂は12か所ほどある。区内では、白山5丁目の京華女子高校の裏側にもある。
この坂の東側鹿野氏邸(弥生2-4-1)の塀に、挿絵画家、高畠華宵の記念碑がはめこまれている。華宵は、晩年鹿野氏の行為でこの邸内で療養中、昭和41年7月に亡くなった。大正から昭和にかけて、優艶で可憐な画風で若い人たちの大きな共感を呼んだ。
文京区教育委員会 昭和59年3月」
三枚目の写真のように、坂中腹になるとちょっと勾配がきつくなり、その先で、四枚目の写真のように、左にちょっと曲がっている。
一枚目の尾張屋板江戸切絵図(小石川谷中本郷絵図(文久元年(1861))の部分図を見ると、前回の境稲荷と寺の間に北西に延びる道があり、これがここの道と思われるが、加賀藩邸と水戸藩邸の境の手前で行き止まりである。ここまで左側(東北)にはずっと寺が並んでいる(片側寺町)。近江屋板では道はもっと手前までしかない。この道が暗闇坂と思われる。
石川は、この坂は加賀藩邸北裏の坂道であるが、林泉の美をつくしたであろう大諸侯の屋敷地も、封建制度崩壊後は荒れるにまかせ、東京大学ができはじめたころは寂しかったようだ、としている。
他の同名の坂と同じように、昼でも薄暗いような坂であったのであろうが、いつごろからそう呼ばれたのか、横関や石川などいずれにも説明がなく、不明である。むかしからここを通る人たちからそう呼ばれてきたのであろうか。
二、四枚目の写真のように、上側で曲がってからは、次第に緩やかになり、坂上で言問通りにつながっている。坂上の通りの向こう側(北)は東大農学部で、ここが江戸切絵図にある水戸藩邸である。上記の尾張屋板では、水戸藩邸の南西端で道が途切れているが、そこがこの坂上付近であったと思われる。
明治11年(1878)実測東京全図では、この坂道は江戸切絵図と同じく行き止まりであるが、明治地図(明治四十年)を見ると、本郷通りからこの坂上を経て東に延びる道ができている。
この坂は池之端の境稲荷神社側からアプローチすると、かなり長く感じてしまうが、実際の坂道はそんなに長くなく、その非対称的なところが特徴で、またおもしろく感じる。
(続く)
参考文献
横関英一「江戸の坂 東京の坂(全)」(ちくま学芸文庫)
山野勝「江戸の坂 東京・歴史散歩ガイド」(朝日新聞社)
岡崎清記「今昔 東京の坂」(日本交通公社)
石川悌二「江戸東京坂道辞典」(新人物往来社)
「嘉永・慶応 江戸切絵図(尾張屋清七板)」(人文社)
デジタル古地図シリーズ第一集【復刻】江戸切絵図(人文社)
市古夏生 鈴木健一 編「江戸切絵図集 新訂 江戸名所図会 別巻1」(ちくま学芸文庫)
「江戸から東京へ明治の東京」(人文社)
「古地図・現代図で歩く明治大正東京散歩」(人文社)