前回の鶯谷の無名坂から新宿区余丁町の断腸亭跡を目指す。ここまでは経験のある道であったが、これから断腸亭跡までは、はじめてのところもあり、今回のコースの中でもっとも道順がはっきりしないところである。だいたいのコースは決めていたが、細かなところはその場で決めるつもりである。
水道通り(巻石通り)に出て左折するとすぐの巻石通り交差点を横断する。一枚目の写真はそこからふり返り水道通りを撮ったもので、無名坂から続く小路が中央右に見える。二枚目の写真のように交差点から緩やかな下り坂を南へ向かい、次を右折し、西へ向かう。
この道は、さきほどの水道通りの南に位置し、そこよりも一段低く、水道一丁目から二丁目へと続き、交差点ごとにちょっと曲がりながら神田川にかかる石切橋へと延びている。
三枚目は尾張屋板江戸切絵図(礫川牛込小日向絵図 万延元年(1860))の部分図であるが、この左下に、金剛寺、その左に金コウシサカ(金剛寺坂)が見える。その間から上(南)へ延びる道が先ほど交差点を南に向かった道で、次を右折し右(西)へ延びる道が先ほどの西へ向かった道である。その先に、江戸川にかかる石切橋がある。北側のいまの水道通りには、神田上水が流れている。
この図の右下には服部坂が見える。また、江戸川の南に細長く馬場があるが、上の現代地図を見ると、西五軒町にこれが一区画になってそっくり残っている。これから先の道もそうであるが、このあたりは、江戸時代の道がそのまま残っているところが多いようである。
道なりに歩いていくと、やがて道は南向きとなって、石切橋に至る。上記の江戸切絵図にあるように、江戸から続く橋である。橋の近くにある新宿区の説明パネルによれば、江戸初期、寛文年間(1661~73)に架けられたといわれ、このあたりに石工が住んでいたことが由来とされているという。
永井荷風の「断腸亭日乗」に、昭和二年(1927)「正月二日 好晴、今日の如き温暖旧臘より曾て覚えざる所なり、午下自働車を倩ひ雑司ケ谷墓地に赴く、道六本木より青山を横ぎり、四谷津の守坂を下りて合羽坂を上り、牛込辨天町を過ぎて赤城下改代町に出づ、改代町より石切橋の辺はむかしより小売店立続き山の手にて繁華の巷なり、今もむかしと変る処なく彩旗提燈松飾など賑かに見ゆ、江戸川を渡り音羽を過ぐ、・・・」とある。父の墓参に向かう途中、車からの光景を描いたもので、この橋のあたりは、繁華街であったようであるが、いまは、そんな感じはしない。神田川の上に首都高速が走り、そのわきを目白通りが通っているために、車の交通でにぎやかではあるが。
目白通りを横断して橋を撮ったのが一枚目の写真である。そこから南へまっすぐに道が延びているが、その途中で、撮ったのが二枚目の写真である。三枚目は上記の尾張屋板の別の部分図で、その南側である。石切橋から南へまっすぐに延びる道が見えるが、二枚目の写真の道である。この道はずっと低地を通っていたが、やがて、四枚目の写真のように上りにかかるが、ここが赤城坂である。
この坂は、一、二枚目の写真のように坂下側で緩やかであるが次第に勾配がきつくなって、坂上側まで上ると、三、四枚目の写真のように、そこに標柱が立っている。「赤城坂 赤城神社のそばにあるのでこの名がある。『新撰東京名所圖会』によれば、「…峻悪にして車通ずべからず…」とあり、かなりきつい坂だった当時の様子がしのばれる。」と説明があるように、むかしからかなり急であったようである。
坂下側で二度ちょっと大きめに曲がり、標柱のところでも二度曲がってから、下一枚目の写真のように、緩やかに上っている。
上記の江戸切絵図を見ると、赤城明神の西わきで、先ほどの石切橋から延びる道が二箇所クランク状に曲がっているが、ここが赤城坂と思われる。近江屋板には、尾張屋板よりも緩やかに折れ曲がった道に坂マーク(△と多数の横棒)が記されている。
荷風は『日和下駄』「第十 坂」で、神社の裏手などにある坂の中途に侘び住まいし、読書につかれたとき、着のみ着のまま裏手から境内に入って鳩の飛ぶのを眺めたり額堂の絵馬を見たりすることができたらという願望を述べているが、そのような坂の一つとしてこの坂(赤城明神裏門より小石川改代町へ下る急な坂)をあげている。荷風好みの坂で、荷風なじみの地を結ぶこの散策によく合う。
今回、金剛寺坂などのある小石川台地から赤城坂のある牛込台地までの間をはじめて歩いたが、坂を下り、低地に拡がった街を通り抜け、ふたたび坂を上ると、東京の凹凸をよく実感できる。それでも、山の手とよばれる地域の中で、このあたりは平坦な土地(沖積層)が比較的広いところである。
赤城坂上を左折し、右折し、南へ進むと、やがてにぎやかな通りに出る。右手に神楽坂駅の出入口があり、往来が多い。この通りは、神楽坂の坂上に相当する位置にあるが、地図を見ると、早稲田通りである。ここを横断し、左折して東へちょっと歩き、一本目を右折すると、朝日坂の坂下である。
二枚目の写真のように、緩やかな坂がまっすぐに南西に延びている。大晦日の午後、買い物帰りの人たちや同じように散歩する人が行き交っている。坂上近くに標柱が立っており、次の説明がある。
「朝日坂 『御府内備考』には、かつて泉蔵院という寺があり、その境内に朝日天満宮があったためこの名がついたとある。明治初年、このあたりは牛込朝日町とよばれていた(『東京府史料』)。」
尾張屋板の市ヶ谷牛込絵図を見ると、神楽坂の坂上から入ったこの道に、ヨコ寺町とあり、その西側に泉蔵寺がある。近江屋板には同じ道に泉蔵院がある。しかし、いずれにも朝日天満宮は記されていないし、坂名も坂マークもない。
この道は坂上からさらに西へと長く延びており、ここを進むが、余丁町の断腸亭跡まではまだかなりある。
(続く)
参考文献
「嘉永・慶応 江戸切絵図(尾張屋清七板)」(人文社)
市古夏生 鈴木健一 編「江戸切絵図集 新訂 江戸名所図会 別巻1」(ちくま学芸文庫)
永井荷風「新版 断腸亭日乗」(岩波書店)
「荷風随筆集(上)」(岩波文庫)
東京人「東京は坂の町」april 2007 no.238