東京さまよい記

東京をあちこち彷徨う日々を、読書によるこころの彷徨いとともにつづります

転坂~氷川坂

2010年09月14日 | 坂道

南部坂上を直進し、突き当たりを左折すると、転坂の坂上である。左側に標柱が立っている。

右の写真は坂上から撮ったものであるが、まっすぐに下っている。

標柱の説明には次のようにある。

「ころびざか 江戸時代から道が悪く、通行する人たちがよくころんだために呼んだ。一時盛徳寺横の元氷川坂もころび坂といった。」

坂を下る途中、中ほどに突然勾配が急になる部分があったが、ここが転びやすかったところかもしれないなどと思ってしまうほど急に変化している。

『御府内備考』には、「一坂 右町内(氷川僧屋敷)北の方横町にこれあり、赤坂新町四丁目に出候道にて、古来右横町狭く左右より立木多く茂りこれあり、日当り申さず所にて道敷甚悪敷、往来の者多く転び候に付、自然と俚俗転坂と唱へ来り申候」とあるとのこと。

江戸切絵図を見ると、南部坂上を進み突き当たり左右の道が赤坂新町四丁目に出る通りのようである。現在と同じく、突き当たりを左折したところが転坂と思われる。

左の写真は坂下から撮ったものであるが、坂下にも標柱が立っている。

ところで、この坂は坂上を進むと氷川公園のある通りにあり、赤坂6-5と6-9との間に位置するが、横関は、赤坂6-8、6-9の間の坂としている。そこは、赤坂教会を右に見て氷川坂の中腹に下る坂のようである。南部坂から行くと、二本目を左折する。

これを書いていて気づいたので、今回はこの坂を通らなかったが、横関が住所表記を誤っただけなのだろうか。江戸切絵図にこの坂の道はないが。

横関の著書「続 江戸の坂 東京の坂」に、この赤坂の転坂の写真がのっているが、これが、横関の著書にある住所のところの坂なのか、それとも、現在標柱の立っている坂なのか、不明である。写真の坂は狭く、途中、右側に蕎麦屋かなにかの看板(無量?)が見える。土地の古老に聞けばわかるかもしれない。

転坂下を左折すると、氷川坂の上りとなる。

右の写真は左折したあたりから坂上を撮ったものである。まっすぐに上っている。

そのまま上っていくと、右手に氷川神社の参道がみえ、さらに上ると、左手に標柱が立っている。次の説明がある。

「ひかわざか 八代将軍吉宗の命で建てられた氷川神社のもと正面に当たる坂である。」

『東京府志料』はこの坂を無名坂とし、明治初年ごろまでは無名坂に扱われていたようだが、土地の人たちが伝えるところによると氷川坂とよびならわしており、昭和5年の赤坂区全図には氷川坂とあるとのこと(石川)。

ところで、標柱にある「氷川神社のもと正面に当たる坂」とはどういう意味であろうか。現在、坂上を右折し進んだ道の途中が神社の正面に当たるが、昔は、氷川坂の途中から入った正面に神社があったのであろうか。

左の写真は坂上から撮ったものである。まっすぐに突き当たり(赤坂6-4)まで下っているようである。

中沢新一「アースダイバー」の地図を見ると、南部坂から氷川神社のあたり一帯は洪積台地で、縄文海進期には転坂や氷川坂下のあたりは海である。この辺全体を見ると、岬状になっており、氷川神社のあるあたりは海との境に近く、中沢のいう霊性の強い場所である。

二三年前にこのあたりの坂巡りにきているが、そのときは、確か、今回と逆のコースであった。三分坂のほうからきてちょっと道に迷い、氷川神社に出て、本氷川坂を往復し、氷川坂を下り、転坂、南部坂へと歩いた記憶がある。
(続く)

参考文献
石川悌二「江戸東京坂道辞典」(新人物往来社)
岡崎清記「今昔 東京の坂」(日本交通公社)
横関英一「江戸の坂 東京の坂」(中公文庫)

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