前回の無縁坂下を直進すると、不忍池の畔に出るが、ここにちょうど池の中を通る道があるので、ここを歩く。一枚目の写真はちょっと進んでから池の北側を撮ったもので、こちら側はボートなどが浮かんでいるが、南側は蓮池とのことで、三枚目の写真のように、蓮の枯葉が池を埋め尽くしている。やがてふたたび蓮の葉でいっぱいとなるのであろう。
二枚目の写真のように、キンクロハジロなどの水鳥がさかんに泳いでいる。二羽のカモ(オナガガモか)が仲よく並んで浮いている。カモメもたくさんいるが、隅田川や東京湾の方から飛んでくるのだろうか。四枚目の写真は、ユリカモメと思われるが、人慣れしており、結構近づいても平気なようである。
池の中の道をぐるりと半周して、池の北・西側(不忍通り側)に行き、そこから東側を撮ったのが下一枚目の写真である。向こう側に弁才天が見え、遠くにスカイツリーがにょっきりとそびえ立っているのが見えるが、最近、出かけた先からよく見かけるようになった。
池の畔から出たところの横断歩道で不忍通りを横断し、西へ直進した突き当たりに、境稲荷神社がある。その裏手に、二枚目の写真のように、義経・弁慶伝説の弁慶鏡ヶ井戸があり、三枚目の説明板が立っている。
四枚目は、尾張屋板江戸切絵図(小石川谷中本郷絵図(文久元年(1861))の部分図であるが、前回の無縁坂の北側で、不忍池の西側近くに、イナリ、とある。これがこの境稲荷神社と思われる。その西側に松平大蔵大輔の屋敷があるが、このあたりが、現在の東大付属病院の敷地であると思われる。
『御府内備考』(文政十二年(1829))の茅町二丁目の書上には、
「一境稲荷社 別当本山派修験 本院持」とだけある。
弁慶鏡ヶ井戸のちょっと先に、上二枚目の写真の左端に写っているように、東大の池の端門がある。その先、右手にある緩やかにカーブしながら上る坂が榎坂であるらしい。勾配は中程度よりも緩やかである。
横関は、この坂を「台東区茅町二丁目の境稲荷の前を少し北へ行くと、東大病院の東門に出る。この門を入って西北方へ上る坂路と推定する」としている。
横関によれば、古い榎坂、古い榎地名は、古い街道に並ぶ。江戸時代の榎坂は、江戸以前の街道を示し、榎坂のそばにはかならず榎があり、または榎があったところである、とする。
『御府内備考』の池之端七軒町の書上にはつぎのようにある。
「且又西の方水戸様御屋敷境にて余程高く有之、其下通り町地又は武家方寺院方地境の所往古は往還の由、加州様御屋敷御構の内に榎坂と申処有之由、其坂往還の続にて本郷通え出候道の由申伝に御座候」
加州というのは、加賀前田藩のことで、上記の尾張屋板の上(西)に(加賀)中納言殿とある屋敷であり、現在の東大構内である。加賀屋敷の中にあった榎坂はむかしの街道の続きであったと伝えられているとある。
横関は、上記の御府内備考とともに、一里塚があったことを記す別の書(十万庵遊歴雑記)を引用し、ここに一里塚があったということや、榎坂という名が残っているということは、ここが古い奥州街道であったことを裏書きしているとしている。
ところで、上記の尾張屋板にはこの坂が示されていないようである。境稲荷の右(北)の道は、榎坂ではなく、これから向かう暗闇坂の道と思われる。近江屋板にもない。要するに、屋敷内の道ということで、江戸切絵図にはないのであろう。
明治11年(1878)実測東京全図や明治地図(明治四十年)を見ても、この坂道に相当する道はないが、戦前の昭和地図(昭和十六年)には、大学病院の北にこの道が示されている。このように、江戸時代からの地図を年代順に見ただけでは、この坂が御府内備考などで云う榎坂であるかどうかはわからない。横関が推定するとしているのも肯けるような気がする。この坂は、石川や「東京23区の坂道」には紹介されていない。確証が持てなかったからであろうか。
(続く)
参考文献
横関英一「江戸の坂 東京の坂(全)」(ちくま学芸文庫)
山野勝「江戸の坂 東京・歴史散歩ガイド」(朝日新聞社)
岡崎清記「今昔 東京の坂」(日本交通公社)
石川悌二「江戸東京坂道辞典」(新人物往来社)
「嘉永・慶応 江戸切絵図(尾張屋清七板)」(人文社)
デジタル古地図シリーズ第一集【復刻】江戸切絵図(人文社)
市古夏生 鈴木健一 編「江戸切絵図集 新訂 江戸名所図会 別巻1」(ちくま学芸文庫)
「大日本地誌大系御府内備考 第一巻」(雄山閣)
久保田修「野鳥ポケット図鑑」(新潮文庫)
「江戸から東京へ明治の東京」(人文社)
「古地図・現代図で歩く明治大正東京散歩」(人文社)
「古地図・現代図で歩く戦前昭和東京散歩」(人文社)