東京さまよい記

東京をあちこち彷徨う日々を、読書によるこころの彷徨いとともにつづります

荷風生家跡~断腸亭跡~偏奇館跡(3)

2012年01月11日 | 坂道

前回の朝日坂上からとりあえず牛込柳町の宝竜寺坂、銀杏坂を目指し、そこから余丁町の断腸亭跡へ向かう。このコースには別のルートも考えられ、たとえば、前回の赤城坂の坂上側を右折し、早稲田通りの北側を西へ進み、江戸川橋通りで左折し、地蔵坂を上り、早稲田通りを西へ進み、左折し、滝の坂を上り、南へ宝竜寺坂に向かうルートがある。

朝日坂上の先 林氏墓地 尾張屋板江戸切絵図(市ヶ谷牛込絵図) 宝竜寺坂上 朝日坂上から一枚目の写真のように細い通りを西へ進む。この道は大久保通りの北側にあり、途中、牛込中央通りを横断し、さらに進む。やがて牛込一中のところで突き当たるが、右折し、次を左折し、直進すると、二枚目の写真のように左手に林氏墓地が見えてくる。

新宿区教育委員会の説明板によれば、朱子学によって徳川幕府に仕えた林羅山から始まる林氏の一族・子孫の墓所である。林家は武家の子弟に朱子学を教授するため上野忍ヶ岡の別邸内に家塾を開き、孔子を祀る聖堂を建てたが、これが五代将軍綱吉のとき、湯島に移された(相生坂の記事参照)。

三枚目は尾張屋板江戸切絵図(市ヶ谷牛込絵図 安政四年(1857))の部分図であるが、中央下に、林大学頭の屋敷が見える。この一部がいま残っている墓地と思われる。 ここから二本目を右折し、次を左折し直進すると、四枚目の写真のように、宝竜寺坂の坂上である。別名が幽霊坂。下一枚目は坂下から撮ったものである。

宝竜寺坂下 試衛館跡 銀杏坂上 銀杏坂下 上記の尾張屋板に宝竜寺がなく、明治地図(明治四十年)にあるが、御江戸大絵図(天保十四年(1843))に、ホウリウシ、とあり、これが宝竜寺と思われる。江戸切絵図になぜ宝竜寺がないのかわからない。

階段を下り、外苑東通りの歩道を南へ進み、次の交差点を左折すると、大久保通りで焼餅坂の坂下である。尾張屋板に、ヤキモチサカ、とあるが、いまの坂下から上の方を云ったようである。

坂下から二本目を右折し、南へ進むと、二枚目の写真のように、右側に新撰組で有名な近藤勇の試衛館跡が見える。尾張屋板に、市ヶ谷柳町の町屋敷と市谷甲良屋敷との間に道があるが、ここがそうである。この東側が市谷甲良町で、むかしの地名が残っている。

突き当たりを左折し、次を右折し、南へ進む。次の交差点を右折すると、三枚目の写真のように、銀杏坂の坂上で、左側に標柱が立っている。坂下へと西へ歩くが、しばらくほぼ平坦で、勾配もかなり緩やかである。坂下に、四枚目の写真のように、「新宿区 銀杏坂通り」と記した標柱が立っている。坂上とは別種類の標柱のようで、はじめて見た。

「薬王寺坂通り」標柱 「児玉坂通り」 「児玉坂通り」標柱 「児玉坂通り」 このあたりは、コースは逆であるものの以前の坂巡りで経験があるが、これから余丁町までははじめてである。

銀杏坂下の外苑東通りを横断し左折し、次を右折すると、緩やかな坂であるが、その坂下に、一枚目の写真のように、さきほどと同じ種類の標柱が立っている。「薬王寺坂通り」とあるが、上記の尾張屋板の右上に薬王寺があり、その下の道がこの坂と思われる。

尾張屋板では袋寺丁とあるように行き止まりであるが、現代地図を見ると、いまも行き止まりのようである。そこで、引き返し右折しさらに進み、次を右折し、緩やかな坂を上ると、途中に、二枚目の写真のように、こんどは、「児玉坂通り」の標柱が立っている。ここを進み、突き当たりを左折し、クランク状の曲がりを進み、さらに左折すると、三、四枚目の写真のように、そこにも同じ標柱が立っている。

「児玉坂」というのは、このあたりに日露戦争のときの陸軍大将の屋敷があったことに由来するらしいが、無理にひねり出したような感じを受ける。この近く三箇所に同種類の標柱が立っているが、いずれも「・・・坂通り」とするもので、さきの二つは、そんなに違和感はないものの、ここはちょっとどうかと思う。明治や大正時代に、そう呼ばれていたのだろうか。歴史的にそうでなければ、この坂名は長続きしないような気がする。

月桂寺前 医科大学裏階段上 東京女子医科大学裏階段上から 余丁町14番地 上記の標柱のある道の突き当たりを右折する。ここは女子医大通りで、西へ進むが、一枚目の写真のようにすぐ右手が月桂寺前である。ここは上記の尾張屋板の上右端に大きく見える。

さらに歩くと、東京女子医科大学の建物が見えてくるが、大学本部のある交差点を左折し進むと、二枚目の写真のように、階段の上に至る。ここから三枚目の写真のように西南側の展望がよい。かつては崖の上であったのであろうか。

かなり急な階段を下り、直進し、突き当たりを左折し、次を右折し、さらに右折し、西北に進むが、その先で撮ったのが四枚目の写真である。この左側(西)が余丁町14番地で、右側が河田町である。次の四差路を左折して西北側を撮ったのが下一枚目の写真である。この左角が余丁町14番地の北端である。

余丁町14番地 余丁町14番地 断腸亭跡説明板の周辺 断腸亭跡説明板 一枚目の写真の道を直進する。左手の余丁町14番地に永井荷風が明治終わりごろから大正にかけて父母などと住んだ邸宅があった。その敷地内に「断腸亭」を建てたが、それが荷風の日記名「断腸亭日乗」となった。

二枚目の写真は、余丁町の広い通りに出る手前から撮ったもので、このあたりの左手が荷風旧居跡である。広い通りに出て、左折すると、すぐの左手に、三、四枚目の写真のように、永井荷風旧居跡の説明板が立っている。

ようやく第二の目標地点に着いたが、ここから偏奇館跡を目指す。
(続く)

参考文献
横関英一「江戸の坂 東京の坂(全)」(ちくま学芸文庫)
山野勝「江戸の坂 東京・歴史散歩ガイド」(朝日新聞社)
岡崎清記「今昔 東京の坂」(日本交通公社)
石川悌二「江戸東京坂道辞典」(新人物往来社)
「嘉永・慶応 江戸切絵図(尾張屋清七板)」(人文社)
市古夏生 鈴木健一 編「江戸切絵図集 新訂 江戸名所図会 別巻1」(ちくま学芸文庫)

コメント (3)    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 荷風生家跡~断腸亭跡~偏奇... | トップ | 荷風生家跡~断腸亭跡~偏奇... »

3 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
薬王寺町史 (曙橋)
2012-02-09 10:04:34
「歴史的にそうでなければ、この坂名は長続きしないような気がする。」と書かれていますが、郷土史研究家芳賀善次郎氏が編纂した「薬王寺町史」をご参照下さい。児玉源太郎の自宅地図と日露講和条約当時の焼き打ち事件も掲載されています。地元の人は小さな坂でしたが「児玉坂」と呼んでいました。新宿図書館に所蔵していますので貴方が住んでいる図書館で取り寄せてもらえます。
また、永井荷風の歩いた行程がお分かりにならないようですが、路面電車路線図をお求めになって研究されると良いと思います。荷風は四谷2丁目から三田まで市電に乗ったと考察できます。その時に大逆事件で市ヶ谷監獄に収監されていた幸徳秋水が連行される姿を見たと著作にあります。
返信する
コメントありがとうございます (asaichibei)
2012-02-12 01:49:59
このブログのasaichibeiです。コメントありがとうございます。

市谷薬王寺町の児玉坂について、そう呼ばれていたとありますので、機会がありましたらお薦めの「薬王寺町史」を閲覧したいと思います。九段南の東郷坂などと同じように日露戦争後に名づけられたのでしょう。個人的は、そのとなりの薬王寺坂の方がいつころからそう呼ばれていたのか興味があります。

永井荷風が通った道について、それを問題にしたのは、この後の記事の荷風生家跡~断腸亭跡~偏奇館跡(4)と荷風生家跡~断腸亭跡~偏奇館跡(5)で、以下の荷風「断腸亭日乗」を引用し、この日の荷風はどんな道順をとったのか考えてみたからでした。

大正六年(1917)「十月廿四日。両三日腹具合大に好し。午後家を出で紀の国坂を下り豊川稲荷に賽す。」

『日和下駄』の著者であれば、当然に余丁町の自宅から歩いて行ったと思い込んでしまったのですが、新宿通りで電車に乗ったとは考えませんでした。しかし、この日の前まで腹の調子が悪く、ようやくよくなってきた時のことですので、荷風の慎重な性格からいうと、電車の方が正解かもしれません。

『日和下駄』の「第八 閑地」に次の記述があります。

「四谷鮫ヶ橋と赤坂離宮との間に甲武鉄道の線路を堺にして荒草萋々たる日避地がある。初夏の夕暮私は四谷通の髪結床へ行った帰途または買物にでも出た時、法蔵寺横町だとかあるいは西念寺横町だとか呼ばれた寺の多い横町へ曲って、車の通れぬ急な坂をば鮫ヶ橋谷町へ下り貧家の間を貫く一本道をば足の行くがままに自然とかの火避地に出で、ここに若葉と雑草と夕栄とを眺めるのである。」

上記の車の通れぬ急な坂とは、東福院坂や観音坂と考えられ、荷風は、そこを下り鮫ヶ橋谷町から赤坂離宮のわきの火避地まで歩いています。そこから鮫河橋坂を上れば、そのすぐ先が紀の国坂上で、ここを下れば、豊川稲荷までそんなに遠くありません。

『日和下駄』は大正3年(1914)8月~翌年6月まで「三田文学」に掲載されていますので、荷風は上記の大正6年の散歩のとき、上記の道筋を知っていたと思われます。このこともあって、どのような道順で紀の国坂上に出たかをあれこれ考えたのですが、必ずしも坂を下り鮫ヶ橋谷町まで出なくともよいと思い至り、そのようなことを書いたのでした。
返信する
場所の記憶を求めて (島次郎)
2013-07-31 16:16:22
まったくの同趣味の方がおられることにいたく共感を覚えました。
返信する

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。

坂道」カテゴリの最新記事