東京さまよい記

東京をあちこち彷徨う日々を、読書によるこころの彷徨いとともにつづります

無縁坂

2012年01月23日 | 坂道

今回は、湯島・池之端の無縁坂から団子坂などを経て動坂まで、本郷台地の東端にある坂を巡った。前回湯島坂からとなりの切通坂まで歩いたので、その続きの意味でもある。

無縁坂下 無縁坂下 無縁坂下 無縁坂中腹 午後湯島駅下車。

一番出口から出て、切通坂から北へ延びる道に出て右折し直進すると、不忍通りに出たので、左折し、歩道を歩く。次の信号を右折すると不忍池の方であるが、左折し進むと、四差路に至る。そこから、一枚目の写真のように、無縁坂が中程度の勾配で西へほぼまっすぐに上って、上側でやや左に曲がっている。

坂の左側(南)に石垣とその上の古びた煉瓦からなる塀が坂に沿ってずっと続いており、この坂の独特の雰囲気をつくっている。この向こうは旧岩崎邸庭園らしい。右側(北)は坂上側にマンションがあり、現代風になっている。明治の鷗外のころとは大きく異なっているのであろう。

坂上を直進すると、何回か角を曲がって、やがて春日通り(切通坂上)に出る。意外にもたくさん人が行き来するので、裏道といった雰囲気ではない。地下鉄湯島駅への道となっているのであろうか。

坂中腹の旧岩崎邸側の歩道に、一枚目の写真のように、無縁坂の標識が立っている。その裏面に次の説明がある。

「無縁坂(むえんざか)
『御府内備考』に、「称仰院前通りより本郷筋へ往来の坂にて、往古 坂上に無縁寺有之候に付 右様相唱候旨申伝・・・・・・」とある。
 団子坂(汐見坂とも)に住んだ、森鴎外の作品『雁』の主人公岡田青年の散歩道ということで、多くの人びとに親しまれる坂となった。その『雁』に次のような一節がある。
「岡田の日々の散歩は大抵道筋が極まっていた。寂しい無縁坂を降りて、藍染川のお歯黒のような水の流れこむ不忍の池の北側を廻って、上野の山をぶらつく。・・・・・・」
 坂の南側は、江戸時代四天王の一人・康政を祖とする榊原式部大輔の中屋敷であった。坂を下ると不忍の池である。
  不忍の 池の面にふる春雨に
     湯島の台は 今日も見えぬかも
  岡 麓(本名三郎・旧本郷金助町生まれ1877~1951・墓は向丘二丁目高林寺)
   文京区教育委員会 昭和55年1月」

尾張屋板江戸切絵図(小石川谷中本郷絵図) 無縁坂中腹 無縁坂中腹 無縁坂上 一枚目は、尾張屋板江戸切絵図(小石川谷中本郷絵図(文久元年(1861))の部分図であるが、湯島天神のそばに東西に延びる切通坂があり、その北側に榊原式部大輔の長い屋敷がある。この屋敷に沿って東西に延びる道がこの無縁坂である。坂の北側には、坂上に松平飛騨守の屋敷、坂下に講安寺、称仰寺(称仰院)がある。その道の東端は不忍池である。坂名も坂マークもないが、近江屋板には坂マーク△がある。

この坂は、江戸でも古い坂らしく、天和二年(1682)の『紫の一本』に次のようにある。

「無縁坂 松平加賀守屋敷につき、榊原式部大輔の下屋敷の裏門通り、不忍の池の端へ下る坂を云ふ。」

『御府内備考』(文政十二年(1829))は、上記の標識にも引用されているが、稱仰院(称仰院)門前の書上に次のようにある。

「一無縁坂 高凡三丈程、幅三間、登り六拾壹間三尺、右は稱仰院門前より本郷筋へ往来の坂にて、往古の坂上に無縁寺有之候に付右様相唱候旨申伝、尤無縁寺跡相分不申候、」

同じく、講安寺門前の書上には次のようにある。

「一右門前町屋起立の儀寛永五辰年中、寺社御奉行阿部飛彈守様え相願、願の通被仰付候、尤往古は奥州街道にて無縁寺有之、右跡え引地に相成候由、只今以同寺境内古き庚申塚相残有之候、其外委敷儀は相分り兼申候、」

坂名の由来は、そのむかし、前者の書上には坂上に無縁寺があったこととされているが、その跡は分からないとされている。後者によれば、むかしは奥州街道で講安寺門前に無縁寺があったようである。石川は、称仰院が古くは無縁寺であったのが坂のおこりといわれるとする(横関も)。いずれにしても、尾張屋板の講安寺、称仰寺の上側あたりに無縁寺があったと思われる。

江戸図鑑綱目(元禄二年(1689))を見ると、榊原邸の北側には、無縁坂を挟んで、高安寺、正高院があるが、いずれも誤字と思われ、元禄のころには上記の二つの寺があったようである。

無縁坂上 無縁坂上 無縁坂上 無縁坂中腹 石川は、この坂が有名になったのは、森鷗外『雁』のおかげであるとするが、この小説のヒロインお玉はこの坂にある家に住んでおり、無縁坂が主要な背景となっている。

上記の標識の説明で引用されている部分は次のように続く。

「岡田の日々の散歩は大抵道筋が極まっていた。寂しい無縁坂を降りて、藍染川(あいそめがわ)のお歯黒のような水の流れ込む不忍の池の北側を廻って、上野の山をぶらつく。それから松源(まつげん)や雁鍋(がんなべ)のある広小路、狭い賑やかな仲町(なかちょう)を通って、湯島天神の社内に這入って、陰気な臭橘寺(からたちでら)の角を曲がって帰る。併し仲町を右へ折れて、無縁坂から帰ることもある。これが一つの道筋である。」

さらに、次の部分(弐の冒頭)などに無縁坂が登場する。

「その頃から無縁坂の南側は岩崎の邸であったが、まだ今のような巍々(ぎぎ)たる土塀で囲ってはなかった。きたない石垣が築いてあって、苔蒸した石と石との間から、歯朶(しだ)や杉菜(すぎな)が覗いていた。あの石垣の上あたりは平地だか、それとも小山のようにでもなっているか、岩崎の邸の中に這入って見たことのない僕は、今でも知らないが、兎に角当時は石垣の上の所に、雑木が生えたい程生えて、育ちたい程育っているのが、往来から根まで見えていて、その根に茂っている草もめったに苅られることがなかった。
 坂の北側はけちな家が軒を並べていて、一番体裁の好いのが、板塀を繞(めぐ)らした、小さいしもた屋、その外は手職をする男なんぞの住いであった。店は荒物屋に烟草(たばこ)屋位しかなかった。中に往来の人の目に附くのは、裁縫を教えている女の家で、昼間は格子窓の内に大勢の娘が集まって為事(しごと)をしていた。時候が好くて、窓を明けているときは、我々学生が通ると、いつもべちゃくちゃ盛んにしゃべっている娘共が、皆顔を挙げて往来の方を見る。そして又話をし続けたり、笑ったりする。その隣に一軒格子戸を綺麗に拭き入れて、上がり口の叩きに、御影石を塗り込んだ上へ、折々夕方に通って見ると、打水のしてある家があった。寒い時は障子が締めてある。暑い時は竹簾が卸してある。そして為立物師(したてものし)の家の賑やかな為めに、此家はいつも際立ってひっそりしているように思われた。
 此話の出来事のあった年の九月頃、岡田は郷里から帰って間もなく、夕食後に例の散歩に出て、加州の御殿の古い建物に、仮に解剖室が置いてあるあたりを過ぎて、ぶらぶら無縁坂を降り掛かると、偶然一人の湯帰りの女が彼(かの)為立物師の隣の、寂しい家に這入るのを見た。もう時候がだいぶ秋らしくなって、人が涼みにも出ぬ頃なので、一時人通りの絶えた坂道へ岡田が通り掛かると、丁度今例の寂しい家の格子戸の前まで帰って、戸を明けようとしていた女が、岡田の下駄の音を聞いて、ふいと格子に掛けた手を停(とど)めて、振り返って岡田と顔を見合せたのである。」

坂の南側は岩崎邸であったが、石垣の上に雑木がたくさん生えて大きく育ち、往来から根まで見えるような有様であった。北側は、板塀のある小さいしもた屋、手職をする男なんぞの住いがあり、店は荒物屋に烟草屋程度であった。その中の為立物師の家の隣の寂しい家がお玉の住んでいる家という設定である。

石川によれば、この小説は、鷗外が医学生であった明治15年前後を時代背景とし、明治44年から書きはじめ大正2年に完結したが、岩崎邸の石垣がつくられたのが明治27年中で、そのときまで無縁坂は片側町ではなかったと思われるので、この小説で片側町としたのは、「蛇」の事件とからみ合わせるための鷗外の作為、または、思いちがいではなかったか、と推定されている。

この小説を読んでいると、題名の雁となんの関係があるのかと思ってしまうが、終わりごろになってやっとわかる。一言でいえば、この小説のテーマは「偶然性」であると思う。

坂を下り、直進し、不忍通りを横断し、不忍池に向かう。
(続く)

参考文献
横関英一「江戸の坂 東京の坂(全)」(ちくま学芸文庫)
山野勝「江戸の坂 東京・歴史散歩ガイド」(朝日新聞社)
岡崎清記「今昔 東京の坂」(日本交通公社)
石川悌二「江戸東京坂道辞典」(新人物往来社)
「嘉永・慶応 江戸切絵図(尾張屋清七板)」(人文社)
デジタル古地図シリーズ第一集【復刻】江戸切絵図(人文社)
市古夏生 鈴木健一 編「江戸切絵図集 新訂 江戸名所図会 別巻1」(ちくま学芸文庫)
「大日本地誌大系御府内備考 第二巻」(雄山閣)
「鷗外選集 第三巻」(岩波書店)
校注・訳 鈴木淳 小道子「近世随想集」(小学館)

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