前回に続いて、文京区小石川台地の主に春日通りの北東側の坂を巡った。伝通院のある側である。前回は春日通りの南西側で、ちょうど春日通りが分水嶺となっている。この位置関係は、北側に津の守坂や暗闇坂、南側に円通寺坂や女夫坂がある四谷あたりの新宿通りと同じである。
4a出口から出ると、眼の前が礫川公園である。富坂下の南側に広がる公園で、西の上側へ続いている。
礫川(れきせん)とは、小石川の別名で、千川ともいい、上流では谷端川(やばたがわ)といった(以前の記事参照)。長崎村の粟島神社(現・豊島区要町二丁目14番)の弁天池が水源とされ、千川上水の分水を合わせて南流し、小石川台地と白山台地との間の小石川の谷を流れ、水戸徳川家上屋敷内(現東京ドーム)を通り、水道橋の下流で神田川に注いでいた。現在、暗渠化され、千川通りとなっている。公園のちょうど東側が千川通りで、千川通りはこのあたりが始点(終点)のようである。この礫川(小石川)が公園名のいわれであろう。
尾張屋板江戸切絵図(東都小石川絵図)を見ると、安藤坂上を右折し、東へ延びる道があるが、ここが富坂で、坂南側は広く水戸屋敷になっている。北から坂下に流れてきた川に、小石川大下水ト云、とある。ちょうど坂下で東側からの流れが合流する。近江屋板も同様で、坂に坂マーク(△)がある。
公園内でハンカチの木というのを見つけた。正確には、前に一度来て、そういうのがあったなと思い出して見つけたというべきだが。
右の写真にあるように、木の前に立っている説明パネルに『幸田文ゆかりの「ハンカチの木」』とある。次の説明がある。
『「ハンカチの木」は、19世紀中頃中国に滞在したフランス人宣教師アルマン・ダビットによって、四川省の西境で発見され、発見者にちなんで、ダヴィディアと命名された。白い花びらのように見える部分は、大小たれさがった苞であり、これがあたかもハンカチを広げたように見えることから和名「ハンカチの木」と名づけられた。なお、別名「ハトノキ」とも呼ばれる。
一科一属一種といわれている珍しい木で、落葉高木、花は雌雄同株の丸い花序え、白い苞片に守られているように見える。4~5月に花をつけ、5月初旬が見頃である。
作家の幸田文(1904~1990)が小石川植物園の山中寅文(東京大学農学部技術専門員)から譲りうけたこの「ハンカチの木」は、長女で随筆家の青木玉の庭に仮り植えされていたものである。平成14年(2002)12月、多くの方々に見ていただきたいという青木玉の好意により、ここ礫川公園に移植された。
平成16年(2004)は幸田文生誕100年にあたる。
文京区教育委員会 平成16年4月』
ハンカチの木とは、上記のように、白い花びらのように見える大小たれさがった苞がハンカチを広げたように見えることからその名がついたとのこと。植物名としてはおもしろい名である。5月初めが見頃とのことで、忘れなかったら来てみたい。
幸田文は幸田露伴の娘である。『父 -その死-』の「菅野の記」の書き出しに、「なんにしても、ひどい暑さだった。それに雨というものが降らなかった。あの年の関東のあの暑さは、焦土の暑さだったと云うよりほかないものだと、私はいまも思っている。」とある。昭和22年の夏のことである。これを読んだのが、あの暑い日が続いた去年の夏の終わりごろであったので、妙にこの部分を覚えている。それで、ここに記した。暑い夏であっても、過ぎてしまえばなんということはないが、杉花粉症の人にとっては、まさにこれから前年夏の暑さの影響がでるいやな季節となる。
説明パネルの右に、その娘青木玉の「緑のある木」という文がのっているが、そのハンカチの木が庭に根付いてから開花するまで20年が過ぎたとのことで、母はついにそれを見ることができなかった。その残念さが伝わってくる。
(続く)