不適切な表現に該当する恐れがある内容を一部非表示にしています

波打ち際の考察

思ったこと感じたことのメモです。
コメント欄はほとんど見ていないので御用のある方はメールでご連絡を。
波屋山人

差別に身構えない

2013-04-18 00:14:21 | Weblog
大学生の頃、史というかアウトサイダー史、差別論に興味があった。
高校では日本史も世界史も学ばず歴史知識が乏しかったので、同級生もよく知らない世界に踏み込んでみた。

べつに、社会正義を掲げる意識はなかった。
一般的に、差別問題に関わると、市民運動家だとか社会主義者、反政府主義者だと思われかねない。
だけど、ぼくはそうではなかった。
差別者を見下して否定するなんて、差別者と同じ行為じゃないか、と覚めた目で見ていた。

外国出身の知り合いが日本社会の中で名誉ある地位を得ようとしているのを見て、そんなものなのか、と思ったりもした。
アウトローにはアウトローの価値観があっていいじゃないか、社会的名誉がなくても違った価値が見出せるかもしれないじゃないか、そう感じていた。

価値判断基準よりも世の中の構造を認識することに興味のあったぼくにとって、ルールに違反する人を疎外することは、異文化に育った人を疎外することと同じように見えた。
歴史上、一般社会の価値観に合わせて行動しない人は一般人から奇異な目で見られ、時には道化、時には犯罪者として遇されてきた。

何かを犯罪視して否定することを「差別的構造」として認識することは重要なポイントだと思う。
それが社会的に当然とされているうちは「差別問題」とはならない。
社会の価値観が変化して、問題視されるようになってはじめて、ありふれた構造が社会的な「問題」として表出する。

差別は見下されて当然の価値のない行為なのだろうか。
現在、人種差別者や家庭内暴力者を見下し、排斥するのは当然のことだと思っている人は多いだろうけど、
それは、同性愛者やヤクザやロリコンや、外国人やネオナチや共産主義者などを排斥するのは当然だと思っている人と、意識レベルは大差ない。

犯罪者を疎外し、見下すことは当然だと思い込む。
ゴミや病原菌を否定し除外することは当然だと反応する。
その意識こそが、「差別的構造」を生み出しているのだ。

差別問題を攻撃する人の多くは、差別を犯罪視して疎外する。
だけど、それは差別者の意識と同じレベルだ。
そんなことでは差別的構造は消滅することはない。

民主的な教育を受けて進歩的な意識を持っていると自覚している評論家や活動家が、
自分と価値観の異なる者を犯罪者に見立てて非難するけど、その姿勢は保守的な人と大差ない。
そう自覚してはじめて差別のないフィールドが近づくのではないだろか。


被害者意識をもって差別に抵抗するのもいいけど、誰でも何らかの差別的心理から逃れることはできないということを自覚してもいいと思う。

不潔な人は無価値で否定されて当然。
欧米的容姿の人は高評価されて当然。
低収入低学歴低身長の人はもてなくて当然。
犯罪者は否定されて当然。
そんな価値判断基準を持っている人は、根深い差別意識を持っている。正しい、ということは不安定なものだ。

しかし、まったく差別的な意識を持たないような状態にたどりつくのは不可能に近い。
ついついある基準で価値を判断してしまう。それがなければ思考すらできなくなるのかもしれない。
そういったことに意識的になれば、差別者を安易に攻撃して排斥することもなくなるのではないだろうか。
そんなことを夢想する。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする