波打ち際の考察

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波屋山人

認識と否定

2010-02-21 15:40:25 | Weblog
最近はネットのニュースにコメント欄が付いていることが多い。
批判を恐れる大手新聞社はコメントを受け付けていないが、
ポータルサイトが提供する記事や影響力の大きいブログにはコメント欄が設けられ、
一方的ではない言論の場が育ってきている。
政府批判で勇名を馳せた日刊ゲンダイの記事も、ネット上では批判的なコメントが多く
批判的メディアとしての有利な立場を失っていることは興味深い。

それにしてもネット上には否定的な意見が多い。
中にはひねった否定やおもしろい否定技もあって興味をそそられるのだが、
全体的にはつまらなく感じることが多い。

否定のやり方が、平凡なのだ。
何を根拠に否定しているか、というところに目をやるとすぐわかる。
説得力ある論理もなく、好きか嫌いか、気に入るか気に入らないか、
自分の価値観で受け入れられるかどうでないか、などといったことで簡単に判断している。

もう少し物事の仕組みを考えたほうが、不平不満を抱え込まないで楽しく生活することができると思う。
世の中には、いろんなことに価値を見出して、日々を愉快にすごしている人もたくさんいる。

いろんなことに価値を見いだせない人も、それなりに世界を認識して、表現をして、
自分の存在を確かめたいと思っている。
だけど、そんな時に、物事を否定する方向に行ってしまうのは少しさみしい。
物事を否定することによって何かを表現できるということもあるけど、失うものも大きい。

ぼくもすぐ物事を否定してしまうことがあり、そんなときはちょっと心がすさんでいたかなと反省する。
できれば、何かを否定しないで、嫌な顔をしないで安穏に過ごしたいものだ。

認識するということは、何かを否定することと切り離せない。
何かをすばらしいと思うことは、ともすると何かと比較して、何かを否定していることにもつながりかねない。

何かの存在を認識するには、何かの存在を無視する必要がある。

例えば、人間は、見える色の領域が決まっている。
赤外線と紫外線の間にある波長の光しか目に見えないから、赤、青、黄、緑などの色を見ることができる。
もし、紫外線も赤外線も遠赤外線も目に見えたら、きっとこの世の中はわけのわからない混沌とした色に見える。

また、物体が反射した光を目で見るということは、物体の後ろの空間を見ないことによって、
そこに物体があると認識していることを意味する。
もし、あらゆる物体を透過して見ることのできる目を人間が持っていたら、
服も体も建物も地面も透けて見えてしまい、どこに形を見出せばいいのかわからなくなってしまう。

触ればそこに物質の存在を確かめることができるかもしれないけど、
触れるということも、触れた面以外のことを無視することによって、感じることができる。
どこでもすり抜けられる透明人間は、きっと何に触れても形を感じることはできない。

人間の手足の長さも、長さに限界があるからこそ、使うことができる。
もし、無限に伸び縮みしたり、形を変えることができる手足を持っていたら、どう手足を使えばよいかわからなくなるだろう。

形の制約があるから、ぼくたちは何かを認識し、表現することができる。
制約は、否定と紙一重。

俳句は5・7・5で制約が多いから表現するのが難しいと言う人もいるけど、
そういう人は400字を与えられても無限にスペースを与えられても、100色の色鉛筆を与えられても、おそらくすごい表現をすることはできない。
俳句でも詩でも小説でも、言葉を使用するという制約からは抜け出せないし、
水墨画でも水彩画でも油絵でも、キャンバスを使用するという制約からは抜け出せない。
だから、ぼくは最小限の要素で芸術的価値のある構造を考えるべく、ポップでロックな俳句の創造に取り組んでいる。

何かを否定しなければ何も表現できない、ということを意識すれば、
何かを否定する、という自己表現においても何か変化が見られるのではないだろうか。

安易な否定は、貧しく、才能もなく、努力もしないで何も得られない人が、
それでも何とか自尊心を維持していたいと思って周囲を否定する発言をすることに似ているかもしれない。

本当に豊かな生活をしたければ、否定するとはどういうことか、ちょっと考えてみることが必要ではないだろうかと考える。


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