名優、市川団十郎の密葬が行われた。
先日は中村勘三郎さんがお亡くなりになったばかりだ。
表現活動にも、後身育成活動にも、類稀な功績を残されていた。
合掌。
勘三郎さんにはロックの心意気を強く感じた。
芸術至上。秩序や社会的価値観に基づく制約を軽々と飛躍。
平成中村座などは、浅草弾左衛門の本拠地のすぐ近く。
歌舞伎は江戸時代半ばにエタ頭による支配を抜け出たけど、それでも長くワイルドなアウトローの世界で活躍してきたことは歴史的事実だ。
社会的地位を築いたからといって名門ぶって守りに入らず奔放に失踪する姿は現代のアウトローからも共感、支持される。
そうでなければ椎名林檎だって勘三郎さんのほうを見たりはしない。
市川団十郎家については知らなかったけど、教派神道のひとつ、神習教の信者らしい。
他の教派神道仲間だった黒住教や金光教や天理教よりも、クラシックな神道に近い新宗教。
日本には無宗教の人が多いけど、意外に新宗教信者の人も多い。中学の頃、授業中に創価という言葉の意味について解説していた先生がいた(たぶん創価学会)。成長と生長の違いについて解説した先生もいた(もしかしたら生長の家)。卒業文集に、人生は芸術だ、と書いていた同級生もいた(たぶんPL教)。同級生の親には禅宗の僧侶とか数学教師がいて、今も地元の九条の会を主導している(ずっと共産党員)。高校時代には、創価学会員の友人とよく仏教話をしてかみ合わなかった(ぼくは自然科学+初期仏教哲学に興味)。部活の顧問の先生はエスペラント語が堪能だった(もしかしたら大本教)。大学時代に学生宿舎を回っていた宗教の勧誘者ともよく話をしたけど、そのとき来てた品良さそうな女性は現在幸福の科学学園のベテラン国語教師。会社に入っても、いろいろ気づくけど割愛。
個人的には迷信に興味がない。
むかしから北枕愛好派だし。4(シ)や9(ク)を避けるというようなダジャレみたいな言葉遊びに関心はない。仏滅も大安も名前の画数占いも明治以降の日本オリジナルの根拠のないおふざけみたいなもの。
信仰を持つ人の誠実さや真摯さは尊敬するけど、迷う中で進路を見出したいぼくは、方向性を固定しがちな、組織的な宗教にあまり興味がない。
宗教を信じている人は、安易に問題の解決を他者に頼っていないだろうか。
言葉にならない概念をずっと抱えてもどかしい思いをしながら熟成というかひらめきというか、ぴったりくる感じをつかむのはとてもたいへんなことなのだ。
子どもの頃から勉強もしないで毎日ぼーっとしてたぼくだけど、いろいろ考えることができたのは貴重な財産となっている。
非常に頭の機能の優れた人でも、「自分が消滅するということ」や「言葉にならない概念」、「肯定否定の判断基準」など、不確かな概念を長期間抱き続けたことのある人はおどろくほど少ない。
雨水が複雑な岩穴を埋め尽くしてあふれ出るように、方向性を持たない思考から生じるものもある。知識や計算から出てくるまっすぐで効率のいい思考だけが知恵ではない。
脈絡がないまま自分なりにいろいろ考えていくなかで、過去の宗教の痕跡から、なんとなく自分が考えていたことはこういうことだったのだろうかと想像をふくらますこともある。
例えば、さまざまなことに対して、不満や憤りを感じてストレスをためる人は多い。
自分の価値判断基準と異なる考えが視界を横切るのは苦痛だろう。
だけど、わだかまりというかこだわりというか、漢訳仏典で言う「苦」という頑ななものは、視点や姿勢を変えるだけで、もろく崩れ、消失していく。
ぜったいに守らなくてはいけない変えられないものなんて、そんなに多くない。
「色即是空」は、確固とした存在だと認識されるものでも実際はとらえどころがないというか、鉄でも原子レベルで見たらスカスカだというか、価値あると思ってることも幻想みたいなものにすぎないとか、そんな感じかも。
ストレスたまる人も多いだろうけど、自分が守ろうとしているものの確かさを疑うだけで、ずいぶんストレスは軽減されると思う。
自分は坊さんみたいなもの、というようなことを言う同い年の陶芸作家の言葉を耳にして、ぼくもそんなふうに思ったことがあることを思い出した。
先日は中村勘三郎さんがお亡くなりになったばかりだ。
表現活動にも、後身育成活動にも、類稀な功績を残されていた。
合掌。
勘三郎さんにはロックの心意気を強く感じた。
芸術至上。秩序や社会的価値観に基づく制約を軽々と飛躍。
平成中村座などは、浅草弾左衛門の本拠地のすぐ近く。
歌舞伎は江戸時代半ばにエタ頭による支配を抜け出たけど、それでも長くワイルドなアウトローの世界で活躍してきたことは歴史的事実だ。
社会的地位を築いたからといって名門ぶって守りに入らず奔放に失踪する姿は現代のアウトローからも共感、支持される。
そうでなければ椎名林檎だって勘三郎さんのほうを見たりはしない。
市川団十郎家については知らなかったけど、教派神道のひとつ、神習教の信者らしい。
他の教派神道仲間だった黒住教や金光教や天理教よりも、クラシックな神道に近い新宗教。
日本には無宗教の人が多いけど、意外に新宗教信者の人も多い。中学の頃、授業中に創価という言葉の意味について解説していた先生がいた(たぶん創価学会)。成長と生長の違いについて解説した先生もいた(もしかしたら生長の家)。卒業文集に、人生は芸術だ、と書いていた同級生もいた(たぶんPL教)。同級生の親には禅宗の僧侶とか数学教師がいて、今も地元の九条の会を主導している(ずっと共産党員)。高校時代には、創価学会員の友人とよく仏教話をしてかみ合わなかった(ぼくは自然科学+初期仏教哲学に興味)。部活の顧問の先生はエスペラント語が堪能だった(もしかしたら大本教)。大学時代に学生宿舎を回っていた宗教の勧誘者ともよく話をしたけど、そのとき来てた品良さそうな女性は現在幸福の科学学園のベテラン国語教師。会社に入っても、いろいろ気づくけど割愛。
個人的には迷信に興味がない。
むかしから北枕愛好派だし。4(シ)や9(ク)を避けるというようなダジャレみたいな言葉遊びに関心はない。仏滅も大安も名前の画数占いも明治以降の日本オリジナルの根拠のないおふざけみたいなもの。
信仰を持つ人の誠実さや真摯さは尊敬するけど、迷う中で進路を見出したいぼくは、方向性を固定しがちな、組織的な宗教にあまり興味がない。
宗教を信じている人は、安易に問題の解決を他者に頼っていないだろうか。
言葉にならない概念をずっと抱えてもどかしい思いをしながら熟成というかひらめきというか、ぴったりくる感じをつかむのはとてもたいへんなことなのだ。
子どもの頃から勉強もしないで毎日ぼーっとしてたぼくだけど、いろいろ考えることができたのは貴重な財産となっている。
非常に頭の機能の優れた人でも、「自分が消滅するということ」や「言葉にならない概念」、「肯定否定の判断基準」など、不確かな概念を長期間抱き続けたことのある人はおどろくほど少ない。
雨水が複雑な岩穴を埋め尽くしてあふれ出るように、方向性を持たない思考から生じるものもある。知識や計算から出てくるまっすぐで効率のいい思考だけが知恵ではない。
脈絡がないまま自分なりにいろいろ考えていくなかで、過去の宗教の痕跡から、なんとなく自分が考えていたことはこういうことだったのだろうかと想像をふくらますこともある。
例えば、さまざまなことに対して、不満や憤りを感じてストレスをためる人は多い。
自分の価値判断基準と異なる考えが視界を横切るのは苦痛だろう。
だけど、わだかまりというかこだわりというか、漢訳仏典で言う「苦」という頑ななものは、視点や姿勢を変えるだけで、もろく崩れ、消失していく。
ぜったいに守らなくてはいけない変えられないものなんて、そんなに多くない。
「色即是空」は、確固とした存在だと認識されるものでも実際はとらえどころがないというか、鉄でも原子レベルで見たらスカスカだというか、価値あると思ってることも幻想みたいなものにすぎないとか、そんな感じかも。
ストレスたまる人も多いだろうけど、自分が守ろうとしているものの確かさを疑うだけで、ずいぶんストレスは軽減されると思う。
自分は坊さんみたいなもの、というようなことを言う同い年の陶芸作家の言葉を耳にして、ぼくもそんなふうに思ったことがあることを思い出した。
日蓮正宗系というのは ホウボウというので 普通の人に嫌われるのかなぁ?大石寺と創価学会の戦いは いつまで 続くのかなぁ?
創価学会の 子供の名前について 人生が 決められるのかナァ 名前の身分制度があるのかなぁ?超能力者は 大幹部なのかなぁ?
宗教研究会(名前検討中 政治研究会(名前検討中