波打ち際の考察

思ったこと感じたことのメモです。
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波屋山人

新聞記者

2021-06-04 20:28:21 | Weblog
むかし、同僚女性が新聞記者の中途採用試験を受けた。
試しに私もついて行ったら、私だけ筆記試験に受かってしまい少し気まずかった。
東京支社で受けた面接では、「今の勤務先の方がいいのではないか?」などと言われて採用されなかった。

何年も後にあるイベントの会場で、その新聞社の東京支社長(当時)と偶然知り合いになった。
もし、その人と早く出会っていれば、私は今ごろ新聞記者になっていたかもしれない。

だけど、実名で記事を書く記者は、バッシングを受けることも多い。
99本の正確な記事を書いても、1本不正確な記事を書いただけで、全否定されることもある。
記者の仕事も責任重大でたいへんだな、と感じる。
(最近は記者も危険性の高い権力者・扇動者扱いされているのか、市民から監視や批判の対象になることも少なくない)

以前、ある記者が叩かれていたことを覚えている。
知り合いの元東京支社長と同郷の、その記者の実家はのどかな田舎のよい所にある。

http://asunaroojisan.blog113.fc2.com/blog-entry-4193.html
> おい朝日! 慰安婦の検証事案で世間を騒がしている最中に、よりによってこんなポン助記事を! 記事の執筆者の「小河雅臣」とやらは第二の植村隆か!、それともただのアホか!

http://ameblo.jp/mikan-ha417/entry-11908787153.html
> マンガン記念館についていて書いた小河雅臣なんて記者の名前を聞くのは初めてですが、正義感溢れる左巻きの青年なんでしょうね。証拠はないけど日本は悪いことをしたに決まっている!

2014年ぐらいに、マンガン記念館についての記事についてずいぶん叩かれていた。
たしか、この記者は橋下知事(当時)について攻撃的な記事を書いて一部から反発を招いていた。

多少事実誤認があっても、全体として人権の尊重や弱者の救済や平和や民主や社会正義につながり、そういったことを旗印にする勢力の拡大に役立つのであれば、容認するという人もいるだろう。

小河記者は、2020年の段階では朝日新聞大阪社会部次長になっている。
たしか筑波大学の国際関係学類(当時)を出て1997年に入社。朝日新聞社で順調に出世しているようだ。
最近はジャーナリズム賞を受賞。おめでとうございます。

https://www.koekizaidan-sakatakinen.jp/pc/free9.html
>第27回坂田記念ジャーナリズム賞授賞理由一覧(敬称略)
【第2部門】(国際交流・国際貢献報道)
 新聞の部 坂田記念ジャーナリズム賞特別賞(1件)
   ★朝日新聞大阪社会部・国際報道部・映像報道部取材班
    代表=朝日新聞大阪社会部次長・小河雅臣
    被爆75年と冷戦終結30年の節目でのゴルバチョフ元ソ連大統領への単独インタビュー


ただ、丹波マンガン記念館については、田中宇さんの本が、古典的な名著?として有名だ。
この本を読んでいれば、安直な記事は書けない。
小河雅臣記者は、この本を読まずに取材したのではないだろうか。
そういえば、この本の書評は読売や産経には掲載されていたようだが、朝日や毎日には載っていなかったようだ。世界観に合わなかったのだろうか。
http://tanakanews.com/i11.htm
(小河記者のことを非難する人も、的外れなことを言わないためにも読んでおいた方がいいと思う)

ジャーナリストの田中宇さんは、どちらかというと保守派ではなくリベラル。右ではなく左。中国韓国に対して否定的な姿勢ではない。
だけど、地道な取材を続けると、思い描いていた構造が現実に当てはまらないことに気づくこともある。

少なくとも、田中宇さんの慎重な調査では、マンガン鉱山での強制連行や徴用は確認できなかった。
しかし、小河雅臣さんの記事を読めば、マンガン鉱山で強制連行による強制労働が行われたように読める。
小河記者は、何か新情報を得ることができたのだろうか。
もし、地道な調査を行わず、一方の利害関係者にとって都合の良い記事を仕立て上げたのであれば、ジャーナリストとして誠実な行為だろうか。
権力者におもねるのも、反権力の人の世界観を無条件に肯定するのも、似たようなものではないだろうか。

小河記者は、もし誰かが「私の祖父は小河記者の祖父と共に中国に出征した。体格のよかった小河記者の祖父は無抵抗の捕虜や市民を残虐な方法で殺害するなど、非人道的な行為を行ったと伝え聞いた」と証言したら、どう思うだろうか。
証言があれば、まずは調査を行うのではないだろうか。
そこで、実際にひどい行為をしていたことが判明したら謝罪し、していなかったのであれば汚名をすすごうとするのではないだろうか。
一方的な証言を元に、自分の身内を犯罪者扱いして貶めたりはしないのではないだろうか。

最近、久しぶりに『マンガンぱらだいす』を読み直して、ふとそんなことを思った。


<参考>
http://tanakanews.com/mangan3.htm
http://tanakanews.com/mangan4.htm
『マンガンぱらだいす 鉱山に行きた朝鮮人たち』田中宇著、風媒社、1995年
P28-29
 事業を次々に思いつくが、なかなかうまく行かない。生活に困り、一家でトラックに乗り、町内の廃品回収もしたが、これも田舎では廃品が少ないので失敗した。農家が多い田舎町では、貞鎬さんのような人は奇異な存在だった。孤立無援の状態が続いた。
 そんな貞鎬さんが、鉱山を使った事業として最後に考えたのが、マンガン記念館だった。この、最後の「ほるもん事業」は成功した。マンガン記念館には開館直後から、マスコミが取材に来るようになった。虐げられてきた在日朝鮮人たちが自分たちの歴史を残すため記念館を作った、というストーリーが、ジャーナリストたちの正義感をくすぐったのだ。ニューヨークタイムズまでが取材に訪れ、大きな記事が出た。記念館の展示室には、その記事が誇らしげに掲げてある。かく言う私も、通信社の記者として記念館を取材し、記事を書いた一人だった。

P38-39
 記念館がオープンしたのはちょうど、強制連行や朝鮮人従軍慰安婦のことがクローズアップされ出した時期だった。日本の戦争責任を考える市民グループには、学校の先生が多い。それで記念館には、ドライブなどで訪れる人々に混じって、課外授業で先生に連れられて小中学生がやって来た。市民グループの団体も多くなった。在日朝鮮人が自分たちの歴史を残すために作った博物館は、日本でここだけしかないということも、遠くから人々が訪れる理由となった。(略)
 告発調の展示がないにもかかわらず、記念館に置いてある感想文ノートには、ざんげ調の文章が多い。(略)まるで奉納した写経か絵馬のように、同じような文章が並んでいる。日本の戦争責任を重く考える「良心派」の人々が書いたものだ。

P40-43
(略)だが息子の竜植さんは、なぜ貞鎬さんがしきりに賞賛されるのか、どうも納得いかない。(略)
 竜植さんが「良心派」の日本人たちと比べ、マンガン記念館や鉱夫たちのことを覚めた目で見ているのは、父親をはじめとする在日朝鮮人一世、二世たちの仕事ぶりを、つぶさに見てきたからだ。
(略)生活していくためには、法律違反すれすれの、少々やばいことでもしなければならない。貞鎬さんが交通事故の示談屋をしたり、企業恐喝まがいのことをしてきたのも、そうした背景があったからだ。
 だが、良心派の人々は在日朝鮮人のこうした各種のやばい事業について、詳しく知りたいと思っていない。知ってはいけないし、在日朝鮮人にそのことを穏便に尋ねることすら良くないこととされている。それは、日本が朝鮮を植民地支配し、戦後も在日朝鮮人を差別してきたことについて、罪の意識を持っているからだ。良心派の人々の多くは、日本人は、朝鮮人を批判したり、ありのままをとらえて見る権利が全くないと思っている。
 こうした掟ゆえ、良心派の人々は、貞鎬さんのことを賛美することはできても、批判することはできない。「ほるもん事業」の闇の部分の存在を感づいても、貞鎬さんにそれをあれこれ尋ねることはタブーである。かくいう私も、そのタブーを長く感じていた。
 竜植さんは、そういった良心派のいかがわしさを批判しているようだ。

P53-57
 その後、京北町の北にある美山町に住む在日一世の男性、全谷介さんに会いに行った。谷介さんは平成四年に八十七歳で亡くなったが、私たちはその少し前、平成三年四月に、谷介さんがじん肺で入院していた美山町平屋の病院を訪れた。(略)
 「田中さん、質問してください」と貞鎬さんに促されたものの、私は谷介さんの痛ましい姿を前にして、「加害者」である日本人としてどう振舞って良いか分からず、委縮してろくな質問ができなくなってしまった。その日はちょうど、朝鮮日報の記者で、在日二世の女性、鄭容順さんが同行していた。私は「在日朝鮮人の容順さんなら、質問しても大丈夫だろう」などと思い、容順さんに質問してもらった。すると、話の中にこんなやり取りがあった。
 容順「日本人に言いたいことはありませんか」
 谷介「ありません。みんな大切にしてくれるから」
 容順「今は、大切にしてくれますからね」
 谷介「今じゃなくても、その時(昔)でも」
 日本語がたどたどしく、言葉が聞き取りにくい谷介さんが、日本人への恨みを聞かれ、「ありません」と、意外にはっきりした口調で言ったことが、強く印象に残った。その言葉は、聞き取りに来た私が、日本人に酷使された朝鮮人、という先入観を持っていることを戒めるような、きっぱりした口調だった。
 丹波の在日朝鮮人一世の話を聞くにあたり、日本人につらい思いをさせられた、苦労させられた、という話が多いと思っていた。だが、出会った人たちは、淡々と体験談を語り、日本人がいかに悪かったか、という視点で描くことは難しかった。
 「悲惨さ探し」をしようとすればするほど、逆に全谷介さんの話を聞いたときのように、「朝鮮人=悲惨な人生」というステレオタイプを壊すことを迫られる結果になった。日本人につらい思いをさせられた朝鮮人の歴史を綴ることで、加害者としての日本人の立場を問い直す、という当初のストーリーは、朝鮮人元坑夫やその未亡人に二十人近く会った段階で、見直さざるを得なくなった。
 しかも、私たちが取材した範囲では、朝鮮半島から直接、丹波のマンガン鉱山に国家の計画による強制連行(徴用)をされて来た人は見つからなかった。唯一、強制連行で来たのは金甲善さんという人だったが、甲善さんが強制連行されたのは、マンガン鉱山ではなく、京都府亀岡市にあったタングステン鉱山だった。(略)丹波のマンガン鉱山は、いずれも規模が小さかったので、強制連行で労働者を集める必要はなかった、と私は推測している。

P58
 地質学の調査のため、マンガン鉱山を三十年以上にわたって見てきた、京都教育大学の井本伸広教授は、「鉱山関係者には、差別意識や偏見を持たずに朝鮮人とつき合っていた日本人が多かった。地域の日本人と朝鮮人の関係は、日本政府が在日朝鮮人を差別してきたこととは、分けて考えなければならないと思います」と言っている。
 そんなわけで、日朝合計で三十人以上の人に会い、取材をしたが、悲惨な話は見つからなかった。私は行き詰ってしまった。

P221
 終戦直後に帰国した人の中には、帰国したものの、すぐに日本に帰ってきた人もいた。(略)
 在九さん夫妻は半年ほど故郷で生活した後、日本に戻ることに決めた。釜山まで行ったものの、連絡船には日本人しか乗せないと断られた。戦時中に朝鮮で暮らした日本人妻とその家族を装って、押し問答の末、ようやく船に乗り込んだ。
 「当時、朝鮮は日本より、生活が苦しかったから、故郷に帰ったものの、すぐに日本に帰ってきた朝鮮人は多かった。船の中では朝鮮人に恨みを持ち、狂ったように泣く日本人が何人もいた。皆、朝鮮人をとても恐がっていた。私は、朝鮮人だということが周りの日本人にばれたら殺されるのではないかと思い、恐ろしかったですよ」

P231-232
 在日朝鮮人の戦後史を語る上で、民族団体の活動は欠かせない。特に北朝鮮を支持する在日朝鮮人総連合会(総連)と、その前身だった在日朝鮮人連盟(朝連)、在日朝鮮統一民主戦線(民戦)は、在日朝鮮人の生活や思想に、大きな影響を与えた。政治運動はもちろん、終戦直後と朝鮮戦争後の二度にわたる帰国事業、民族教育などは、いずれも総連やその前身組織が組織してきた。

p233-234
 朝鮮戦争中は、舞鶴港が輸送基地となって、朝鮮にいる米軍に物資を補給していた。わが同胞が殺されている戦争を終わらせるためには、舞鶴に向かう山陰線の列車を爆破しなければならない、という論法で、鉄橋の爆破を計画したんや。爆弾はお手のもんや。鉱山にダイナマイトが何ぼでもある。
 京都府の丹波町の下山と、日吉町の胡麻に、山陰線の高い鉄橋がある。あれを爆破しに行くことを計画して、爆弾も用意した。だが、どういう理由か忘れてしまったが、結局やめることになった。本当にやっとったら皆、死刑じゃ。
 自民党の国会議員のNも、当時はバリバリの共産主義者だった。彼は園部の細胞(組織)のキャップをしていたので、一緒に細胞会議をしたこともある。今じゃバリバリの自民党だもんね。


https://www.freeml.com/bl/6381040/98269/
■京都)坑道に刻まれた過酷 丹波マンガン記念館
朝日新聞 2014年8月10日
府の中部、丹波地方一帯はかつてマンガンの国内有数の産地だった。マンガンは兵器製造には欠かすことができず、戦時中は朝鮮半島出身者らが過酷な採掘作業にあたった。そんな鉱山の一つが記念館として残されている。
 京都市の中心部から車で約1時間。右京区京北町の杉林に囲まれた山中に、丹波マンガン記念館はある。
 元鉱山労働者で在日1世の故・李貞鎬(リジョンホ)さんが1989年、自ら経営した鉱山を私財を投じて改修し、開館した。資金難から2009年にいったん閉鎖したが、日韓で支援の輪が広がり、11年7月に再び開館した。
 その1カ月後のことだ。
 「強制連行なんてなかった」「日本が嫌なら、朝鮮に帰れ」。記念館の門前に十数人が陣取り、メガホンでがなり立てた。
 「ヘイトスピーチ」は約1時間半続き、10人ほどいた来館者はみな怖がって帰ったという。
 貞鎬さんの三男で館長の龍植(ヨンシッ)さん(54)は「『強制連行を伝える唯一の記念館』を名乗っているためだろうか、嫌がらせは珍しくない。しかし負の歴史も直視してほしい」と言う。
 坑道は約80本あり、総延長は約20キロに及ぶ。うち約300メートルを整備し、公開している。龍植さんの案内で、高さ約2メートル、幅約1・8メートルの坑道を進む。
 ゴツゴツした岩肌から水滴がしたたり落ちる。元々の坑道は、中腰か腹ばいにならないと進めない狭さだったようだ。地下深くまで掘り下げた縦穴も、黒々と口を開けて残る。
 過酷な作業の様子はマネキンで再現されている。戦前・戦中は、硬い岩盤にノミとハンマーで穴を開け、発破をかけて掘り進んだ。1日で進める距離はわずか3センチ。掘り出したマンガンは人力で外に運び出した。
 マンガンは鉄に混ぜて硬度を高め、戦車や戦艦、大砲などを作るために必需品だった。
 しかし戦争の激化に伴い国内では働き手の成人男性が不足し、政府は朝鮮半島に労働力を求めた。最盛期の太平洋戦争前後には、一帯で約3千人の朝鮮人が働いていたとされる。発破の粉じんによるじん肺で、長年苦しんだり亡くなったりした労働者も多いという。
 貞鎬さんは記念館を「朝鮮人の鉱夫には墓がない。ここが墓、肺塚や」と話していたという。貞鎬さんが95年にじん肺のため62歳で亡くなった後も、龍植さんが記念館を続けてきた。公的な支援は一切ない。
 7月下旬、三重県名張市の小学校の教員17人が研修で訪れた。女性教諭(30)は同行した記者に「知らないことがまだいっぱいあることを思い知った」と話した。
 「未来を担う子どもたちに戦争の実態を伝えたい」
     ◇
 〈丹波地方のマンガン鉱山と記念館〉右京区京北町や南丹市一帯の鉱床で、1895(明治28)年ごろから採掘が始まった。最盛期には鉱山は約300カ所に上ったとされる。しかし安い輸入マンガンに押され、1980年代初頭までに姿を消した。丹波マンガン記念館(075・854・0046)は国道162号の下中交差点を東へ数分。大人1200円、小中学生800円。水曜休館。
■「加害」の歴史継承を
 京都に着任して1年3カ月あまり。同僚に聞くまで、鉱山や記念館について詳しく知らなかった。記念館を作った故・李貞鎬さんの両親は、日本の植民地支配で田畑を奪われ、仕事を求めて来日したという。「力ずく」ではないものの、やむにやまれずに日本に渡った朝鮮半島出身者も少なくないとされる。貞鎬さんは「これも強制連行の一種だ」と話していたという。こうした「加害」の歴史もしっかり記憶し、継承していきたい。(小河雅臣)



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1 コメント

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Esszie Telematics (gps tracker in jaipur)
2022-01-06 00:46:34
this is really feel great to read such a nice article ..thanks for sharing
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