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波打ち際の考察

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波屋山人

弱者による差別、被害者による加害

2012-01-14 22:23:21 | Weblog
「弱い立場の者を守るのは当然だ、生存能力が弱いことはネガティブにとらえられるべきではない。
弱い人を攻撃して自分の勢力の拡大をはかることは許されない」

そのような価値観がうまれたのはいつの時代だっただろうか。
いつの時代でも強い政治権力や武力を持つ部族や都市や国が近隣の人々を蹂躙して
同化させてきた事実はある。

やがて無法地帯での勢力争いに疲れた人々は、無駄な疲労を避けるために
せめぎあっていた勢力と共通のルールを設けた。

生き残る力が弱く社会の隅に追いやられている人たちのことを思いやるのは
とても知的で寛容な態度だろう。
だけど、弱者を聖なる存在かのように持ち上げ、被害者として贖罪意識を向けるのは
ひとつの信仰のようなものかもしれない。

弱者だって差別もすれば暴力も働く。
右翼だろうと左翼だろうと、排他的という点で共通している人が多いように、
金持ちだろうと貧者だろうと、政治家だろうと風俗嬢だろうと、
人を見下したり支配したりすれば同じような思考レベルだ。

読売新聞夕刊には俳人の長谷川櫂さんによる「海の細道」という連載があるけど、
先日は被害者としての沖縄にふれていて、失礼ながらベタな表現だなと思ってしまった。
感傷にひたるのもいいけど、沖縄の焼き物についてもきちんと検証されているのだろうか。
渋い色を安易に被支配による暗い色と言われても困る。
琉球王朝は奄美や宮古、八重山などに対して侵略を行い、強者としてふるまっていた過去もある。

今日は鹿児島の歴史について、「大和に服従。哀しい伝承」と書いて古事記における海彦(隼人)、山彦(大和)のことを書かれていた。
薩摩は琉球王朝を侵略した強者の一面もあったわけだが、とりあえず弱者としての面に目を向けたのだろう。

そうすると、そのうち弱者としての吉備、出雲、弱者としての大和も取り上げるのだろうか。
実際、吉備や出雲も大きな勢力だったけど最終的には大和に服した。
大和も外来勢力に服したこと言えるだろう。
長谷川櫂さんにとっての強者とは何なのだろう。日本?中国?アメリカ?国際的金融機関?

弱者や強者というのは相対的な存在に過ぎない。絶対的ではない。
「世の中には弱い組織と強い組織があり、弱い組織は優先的に保護されなくてはならない」、
などという科学的事実はない。
弱者を絶対視し、権力化させることは思考の広がりを妨げる。

弱者であろうと強者であろうと、理解できない人を見下し、価値がないものとして攻撃すれば同じ意識レベルの自己中心的な人だ。
弱者であろうと強者であろうと、あらゆるところに意味を見出し、意味や価値を見出し尊重する人はやさしい人だ。
弱者を楯に正義のほうに立とうとする人には、安易さも感じる。

だから、強者と同じような意識レベルなのに自己保全のために弱者を守ろうとする人を見ると、「弱者の実態を知っていますか?」と言いたくなる。

きれいごとを言っても、弱者の世界だってどろどろしている。
沖縄本島を統一した勢力が、対立していた地方をどのように扱ったか。
沖縄本島を統一した勢力が、侵略した奄美や宮古や八重山にどのような圧制を強いたか。

かつて在日韓国・朝鮮人は日本の被差別民が朝鮮半島の白丁(ペッチョン)のようなものだと聞くと、彼らを見下した。
被差別出身の人だって、在日韓国・朝鮮人のほうを下に見ることがあった。
在米韓国人がアメリカ黒人を見下し、アメリカ黒人に在米韓国人が見下されたこともあった。

在日アジア人に対する日本人の差別意識を糾弾する人は多かったけど、
自分が欧米に行けば欧米人から見下されることもあるということを意識してない人も少なくない。

実際に、いわゆる「弱者」に関わっている人から見れば
弱者の人たちだっていたって普通の人たちだ。
まじめな人もいればエロい人もいる。温厚な人もいればキレやすい人もいる。
上品な人もいれば暴力的な人もいる。心広い人もいれば権威主義的な人もいる。

体が不自由だろうが容姿が不格好だろうが、社会的評価が低かろうが、
いい芸術作品を作る人やお金を稼げる人や研究結果を出せる人は社会的に評価されるだろうし、
いくら健康だろうが美男美女だろうが、社会的権力があろうが、
ろくな作品も作れず、お金も稼げず、研究結果も出せない人は評価されないだろう。
それだけの話だ。

社会的に評価されない容姿や立場の人がちょっと努力したくらいで、
かわいそうなのにがんばっている、と評価されなくてもいい。
いくら社会的に不自由でも、いい作品を作ったりいい研究結果を残せば、それについて正当な評価をすればいい。

それに、自分は被差別者や障害者ではないと思っている人も、ちょっと意識を変えてもいい。
自分だって自分と異なる文化圏の人たちのところに行けば、立派な被差別者になる場合がある。

祇園に行っても欧米の高級店に行っても、どこの田舎者がお粗末なことをしているのだ、
というような視線を向けられることがあるだろう。
食事中にマナー違反の行為をすれば、パリだろうがバンコクだろうがハワイだろうが、
現地の人に嫌悪の目を向けられるかもしれない。

ぼくは弱者でもあれば強者でもある。
経済的に貧しい国の人と話をすることもあれば、裕福な国の人と話をすることもある。
でも、フランスやイギリスの人に卑屈に振舞い、ルーマニアやミャンマーの人に尊大に振舞うということはしたくない。
安易に権力者に反発し、不遇な人を憐れむこともしない。

一般的な人よりは、被差別とか在日韓国・朝鮮人とかアイヌとか貧民とかアンダーグラウンドなアーティストについての知識があるけど、だからと言って、彼らを全肯定して、彼らを抑圧する存在を全否定するわけではない。

下記のようなことにも意識を向けたいと思う。
どんどん論文に書く人はいないかな。

・被差別者間における差別感情の実態
・少数者間における差別感情の実態
・弱小国における勢力争いの実態

そこから見えてくる人間の意識の構造から、興味深いものが読み取れるはずだと感じている。


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