かつて週刊誌といえば中年会社員の手ごろな時間つぶしグッズだった。
多くの週刊誌が毎週数十万部の売上を誇っていた。
文芸出版社系の「週刊文春」、「週刊新潮」は穏健というか保守的。
総合出版社系の「週刊現代」とか「週刊ポスト」は刺激的なヌードグラビアやエロいゴシップを掲載。
さらにアンダーグラウンドなのは「週刊大衆」とか「アサヒ芸能」とか。
新聞社系の週刊誌はおとなしい印象だった。
ところが団塊世代の人たちがどんどん退職して、週刊誌の市場が縮小してきた。
50万部以上の売上を維持しているのは文春と新潮くらいのもので、他の週刊誌は部数を大きく減らしている。
文春や新潮は女性の読者を視野に入れていたから、派手さはなかったけど生き延びているのかもしれない。
■2009年週刊誌売上(2004年売上)
週刊文春 75万部(81万部)
週刊新潮 67万部(76万部)
週間ポスト 46万部(68万部)
週刊現代 43万部(72万部)
週刊大衆 33万部(37万部)
週刊朝日 27万部(35万部)
アサヒ芸能 21万部(28万部)
SPA! 19万部(22万部)
AERA 17万部(25万部)
サンデー毎日 13万部(16万部)
以前はぼくも時々週刊誌を買っていたけど、最近はほとんど買うことはない。
20年くらい前は週刊文春の俳句欄に応募していた。
月刊の文藝春秋に俳句が載ると5千円、週刊文春に載ると2千円もらえた。
一度、文藝春秋から「月刊誌のほうに応募してもらった句を週刊誌のほうで選んでしまった。どうしましょう。いやなら載せませんが」というような電話がかかってきたこともある。仕方なく週刊誌のほうに載せてもらった記憶がある。3千円損した気分だった。
そんなことはともかく、昨年11月に週刊新潮が「美味んぼ」作者の雁屋哲さんに関して記事を書いたところ、雁屋哲さんがブログで反論をしていた。
雁屋さんはウツなんだから、週刊新潮も挑発を控えておけばよかった。
これを期にまたウツになってしまうのでは、という悪い予感があったけど、案の定、2/12夜のブログで「去年の十一月から、鬱がぶり返し、毎日の大半の時間を鬱に必死に耐えるために費やしている」と書いている。
痛々しい。週刊新潮のせいだ。
週刊新潮を批判した雁屋哲さんの11/29のブログには、就職するときのことを振り返ってこう書いてあった。
(略)「物書き」と言う言葉を私の父は甚だしく軽蔑していた。
私が、「物を書いて生きていく」いうと、「ちょっと待て」といって、いったん奥に引っ込んで、どこかからか、週刊誌を持ってきた。
それが「週刊新潮」だった。(今日の本題ですよ)
父は、私に「週刊新潮」を突きつけて言った
「この、週刊誌を読め。物書きになって、こんなものを書くようになったら、いったいどうするつもりなんだ」
当時の「週刊新潮」の表紙は谷内六郎氏の童話的なきわめて人の心を休めてくれるような暖かい絵だったが、その表紙絵の清潔さと裏腹に内容は、芸能界、財界人、有名人など様々な世界の人々の醜聞、醜悪で残酷な犯罪事件の再現、異常な性的な話題に埋め尽くされていて、開いて二三ページも読むと、汚いものを無理矢理のどに突っ込まれたような気分になる。
その内容は今も変わらない。
私は、父に言った。「こんなものに書くくらいなら、物書きなんかにならないよ」
それから、40年経って、私はついに「週刊新潮」に書くようなことをせずに、物書きとしていきのびてくることができた。
この点だけで、私は、父を裏切ることがなかったのである。
「週刊新潮」は以前にも、私の書いた「日本人と天皇」の韓国訳版が出たときに、その編集部の知的水準の低さを見せたくてたまらないと言うような記事を載せた。
あのような週刊誌を続けていると、自分がどこまで無知で嫌らしく不潔な人間であるのか、どんどんやけになって見せびらかして、自虐的な快感に酔うことになるのだろう。
上記のように、週刊新潮を価値のないものとして否定している。
比較的穏健な週刊新潮に対してこう言う人は、週刊大衆とかアサヒ芸能を見たらどう思うのだろうか。
チラ見しただけで卒倒してしまうのだろうか。
そういえばぼくは自分が買った週刊文春以外、自宅で週刊誌を目にすることがなかった。
厳格な親は、週刊誌などという刺激的なものを読もうとは思わなかったのだろう。
マンガ雑誌もマンガ本も一切なかった。
なぜ雁屋哲さんの父親は忌み嫌う週刊誌を自宅に持っていたのだろう。
雁屋さんも、週刊新潮に関して「こんなものに書くくらいなら、物書きにはならないよ」と言いながら、
なぜ、週刊漫画ゴラクなどの品がいいとは言えない雑誌に暴力描写の激しいマンガを載せたりするのだろうか。
「こんなもの」の基準は何なのだろう。
思想信条の違いかな。
きっと雁屋さんの父親も雁屋さんも、週刊新潮が左翼陣営と対立していることを良く知っていて、否定したかったのだろう。
だけど、右翼でもなかなかおもしろい人物はいるし、得るものもある。
ぼくは新潮社の伝説的編集者、齋藤十一さんが全見出しを作っていたという当時の週刊新潮を見てみたかった。
齋藤十一さんは、現在でも編集者の間で話題に上る存在だ。
また、週刊新潮や保守派の人たちが、雁屋哲さんと対立するのはわかるけど、全否定しなくてもいいのではないだろうか。
むかしは雁屋さんのような考え方の人が多かった。
その時代の常識が、雁屋さんを作ったとも言えるのだから、あんまり雁屋さんを責めなくてもいい。
雁屋哲さんにも週刊新潮にも、暴力漫画やエロ雑誌にも魅力があると感じるぼくは、いろんなマンガや文章や評論を楽しむことができて幸せだ。
世の中のさまざまなことに不満を感じて絶望したり憤死するような思いをする人は、左右を問わず、何かを守ろうとして苦しんでいる保守的な人ではないかと思う。
否定し合うことは創造的ではない。ストレスがたまるばかりだ。
ぼくが週刊新潮の編集部員であれば、雁屋哲さんのいいところを無理やり10個くらいみつけて、誌上で称えたい。
あるいはおいしいお酒を送って、「刺激的だけど中身のない記事を書いてごめん」と謝る。
経営がおもわしくない「週刊金曜日」を引き取って、そこで思う存分雁屋さんに書いてもらうのもいい。
新潮社には頭脳明晰で穏健な人が多いから、雁屋さんが誤解したままでいるのはもったいない。
雁屋さんの容態がよくなられることを祈る。
多くの週刊誌が毎週数十万部の売上を誇っていた。
文芸出版社系の「週刊文春」、「週刊新潮」は穏健というか保守的。
総合出版社系の「週刊現代」とか「週刊ポスト」は刺激的なヌードグラビアやエロいゴシップを掲載。
さらにアンダーグラウンドなのは「週刊大衆」とか「アサヒ芸能」とか。
新聞社系の週刊誌はおとなしい印象だった。
ところが団塊世代の人たちがどんどん退職して、週刊誌の市場が縮小してきた。
50万部以上の売上を維持しているのは文春と新潮くらいのもので、他の週刊誌は部数を大きく減らしている。
文春や新潮は女性の読者を視野に入れていたから、派手さはなかったけど生き延びているのかもしれない。
■2009年週刊誌売上(2004年売上)
週刊文春 75万部(81万部)
週刊新潮 67万部(76万部)
週間ポスト 46万部(68万部)
週刊現代 43万部(72万部)
週刊大衆 33万部(37万部)
週刊朝日 27万部(35万部)
アサヒ芸能 21万部(28万部)
SPA! 19万部(22万部)
AERA 17万部(25万部)
サンデー毎日 13万部(16万部)
以前はぼくも時々週刊誌を買っていたけど、最近はほとんど買うことはない。
20年くらい前は週刊文春の俳句欄に応募していた。
月刊の文藝春秋に俳句が載ると5千円、週刊文春に載ると2千円もらえた。
一度、文藝春秋から「月刊誌のほうに応募してもらった句を週刊誌のほうで選んでしまった。どうしましょう。いやなら載せませんが」というような電話がかかってきたこともある。仕方なく週刊誌のほうに載せてもらった記憶がある。3千円損した気分だった。
そんなことはともかく、昨年11月に週刊新潮が「美味んぼ」作者の雁屋哲さんに関して記事を書いたところ、雁屋哲さんがブログで反論をしていた。
雁屋さんはウツなんだから、週刊新潮も挑発を控えておけばよかった。
これを期にまたウツになってしまうのでは、という悪い予感があったけど、案の定、2/12夜のブログで「去年の十一月から、鬱がぶり返し、毎日の大半の時間を鬱に必死に耐えるために費やしている」と書いている。
痛々しい。週刊新潮のせいだ。
週刊新潮を批判した雁屋哲さんの11/29のブログには、就職するときのことを振り返ってこう書いてあった。
(略)「物書き」と言う言葉を私の父は甚だしく軽蔑していた。
私が、「物を書いて生きていく」いうと、「ちょっと待て」といって、いったん奥に引っ込んで、どこかからか、週刊誌を持ってきた。
それが「週刊新潮」だった。(今日の本題ですよ)
父は、私に「週刊新潮」を突きつけて言った
「この、週刊誌を読め。物書きになって、こんなものを書くようになったら、いったいどうするつもりなんだ」
当時の「週刊新潮」の表紙は谷内六郎氏の童話的なきわめて人の心を休めてくれるような暖かい絵だったが、その表紙絵の清潔さと裏腹に内容は、芸能界、財界人、有名人など様々な世界の人々の醜聞、醜悪で残酷な犯罪事件の再現、異常な性的な話題に埋め尽くされていて、開いて二三ページも読むと、汚いものを無理矢理のどに突っ込まれたような気分になる。
その内容は今も変わらない。
私は、父に言った。「こんなものに書くくらいなら、物書きなんかにならないよ」
それから、40年経って、私はついに「週刊新潮」に書くようなことをせずに、物書きとしていきのびてくることができた。
この点だけで、私は、父を裏切ることがなかったのである。
「週刊新潮」は以前にも、私の書いた「日本人と天皇」の韓国訳版が出たときに、その編集部の知的水準の低さを見せたくてたまらないと言うような記事を載せた。
あのような週刊誌を続けていると、自分がどこまで無知で嫌らしく不潔な人間であるのか、どんどんやけになって見せびらかして、自虐的な快感に酔うことになるのだろう。
上記のように、週刊新潮を価値のないものとして否定している。
比較的穏健な週刊新潮に対してこう言う人は、週刊大衆とかアサヒ芸能を見たらどう思うのだろうか。
チラ見しただけで卒倒してしまうのだろうか。
そういえばぼくは自分が買った週刊文春以外、自宅で週刊誌を目にすることがなかった。
厳格な親は、週刊誌などという刺激的なものを読もうとは思わなかったのだろう。
マンガ雑誌もマンガ本も一切なかった。
なぜ雁屋哲さんの父親は忌み嫌う週刊誌を自宅に持っていたのだろう。
雁屋さんも、週刊新潮に関して「こんなものに書くくらいなら、物書きにはならないよ」と言いながら、
なぜ、週刊漫画ゴラクなどの品がいいとは言えない雑誌に暴力描写の激しいマンガを載せたりするのだろうか。
「こんなもの」の基準は何なのだろう。
思想信条の違いかな。
きっと雁屋さんの父親も雁屋さんも、週刊新潮が左翼陣営と対立していることを良く知っていて、否定したかったのだろう。
だけど、右翼でもなかなかおもしろい人物はいるし、得るものもある。
ぼくは新潮社の伝説的編集者、齋藤十一さんが全見出しを作っていたという当時の週刊新潮を見てみたかった。
齋藤十一さんは、現在でも編集者の間で話題に上る存在だ。
また、週刊新潮や保守派の人たちが、雁屋哲さんと対立するのはわかるけど、全否定しなくてもいいのではないだろうか。
むかしは雁屋さんのような考え方の人が多かった。
その時代の常識が、雁屋さんを作ったとも言えるのだから、あんまり雁屋さんを責めなくてもいい。
雁屋哲さんにも週刊新潮にも、暴力漫画やエロ雑誌にも魅力があると感じるぼくは、いろんなマンガや文章や評論を楽しむことができて幸せだ。
世の中のさまざまなことに不満を感じて絶望したり憤死するような思いをする人は、左右を問わず、何かを守ろうとして苦しんでいる保守的な人ではないかと思う。
否定し合うことは創造的ではない。ストレスがたまるばかりだ。
ぼくが週刊新潮の編集部員であれば、雁屋哲さんのいいところを無理やり10個くらいみつけて、誌上で称えたい。
あるいはおいしいお酒を送って、「刺激的だけど中身のない記事を書いてごめん」と謝る。
経営がおもわしくない「週刊金曜日」を引き取って、そこで思う存分雁屋さんに書いてもらうのもいい。
新潮社には頭脳明晰で穏健な人が多いから、雁屋さんが誤解したままでいるのはもったいない。
雁屋さんの容態がよくなられることを祈る。
キジョーイしてもらうバ イ トおもろすぐるwwwwww
オレ動かなくても勝手にイって5万くれるし。。。
ちょっと試すだけのつもりだったのになぁ(^^;