波打ち際の考察

思ったこと感じたことのメモです。
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波屋山人

なりたいものはなくていい

2009-10-18 12:58:55 | Weblog
よく大人が子どもたちに向かって「大きくなったら何になりたい?」と聞く。
野球選手、教師、バスの運転手、看護師などという声を聞いてやさしくほほえむ。

アフリカの難民キャンプやアジアの貧困地域に行ったレポーターが、貧しげな子どもたちに向かって「大きくなったら何になりたい?」と聞く。
なかなか返答できない子どもたちを見て、ここには明るい展望がないのだと思い込む。

ほんとうは、「なりたいもの」を聞くということは、一種の教育であり、一種の洗脳でもある。
混沌や無秩序を秩序や組織のほうに絡めとる意識がひそんでいる。

小さな子どもは、はじめて「なりたいもの」を聞かれたとき、大人たちから見ると想像を絶する答えをする場合が多い。
花になりたい、海になりたい、高層ビルになりたい、ココアになりたい、リカちゃん人形になりたいと言う子どもだっているだろう。

幼稚園のとき、ぼくは「空になりたい」と答えたことを覚えている。
ところが、そういった答えは周囲の大人たちに別方向に誘導されていく。

空になんてなれないよ、空にあるものといえば飛行機か? 飛行機のパイロットになりたいのか? などと誘導され、パイロットに全く興味はなかったけど、ぼくはパイロットになりたいんだということにされてしまった。

子どもたちは無秩序や混沌に親しんでいる。脈絡のない想像もするし、因果関係を間違えて認識していたりもする。
だけど、そういった姿勢は、秩序や組織の枠の中で生きていくには不都合だ。
ちゃんと物事の因果関係を認識し、段階を追って考えていく姿勢が求められる。

将来何になりたいか、という質問によって、子どもたちは具体的な職業を言わせられる。
アナーキストになりたいとか、大海賊になりたい、反政府ゲリラのリーダーになりたい、社会的常識を超えた芸術家になりたい、などという答えは検閲される。
社会秩序の維持に不都合な考えは、子どもの頃から矯正されてしまうのだ。

社会組織の一部として生きている大人たちにとって、秩序の破壊につながるものを放置することは許されない。当たり前のように否定されるべきことだから、反社会的な存在に子どもたちを育てようとは思わない。

だけど、そういった狭い視野で子どもたちを囲い込めば、フィロソファーやアーティストの成長を阻害してしまうことにもなる。
ほんとうの幸せって何だろう、ほんとうに意義のあることって何だろう、調和って何だろう、などということを考えるのは、社会秩序に絡めとられていないフィロソファーであり、アーティストだ。

秩序を守る人たちを育てるのもいい。世の中の形を見出し、充実や満足を感じ、平穏な日々を送ることができる。
だが、フィロソファーやアーティストの存在も大切だ。
秩序は、秩序だけでは存在できない。無秩序と秩序を行き来するフィロソファーやアーティスト、アウトサイダーたちがこの社会の輪郭を浮かび上がらせている。

出来上がったばかりの政権の下では、反政府的な動きは強く弾圧される。
安定し、組織化が弱まってきた社会では、芸術が広く日常に受け容れられてくる。
日本もそういった社会になってきているのではないかと思う。



コメント (1)
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シンクロ

2009-10-18 11:27:33 | Weblog
ぼくはあまり占いや迷信に興味がない。
子どもの頃から自分の意思で北枕で寝ているし、霊柩車を見て親指を握ったりしない。お守りを買うこともないし、新聞やテレビの星座占いも関心がない。ゲンをかつぐこともない。
神社やお寺で手を合わせることはあるけど、自分の精神状態を整えて、周囲の雰囲気を感じ取るだけ。

リベラルを自称する人たちが迷信を守っていたり、根拠のない占いに依存しているのを見ると、なんと保守的なのだろうかと感じる。
ブッダの生まれ変わりがどうのこうのとか死後の世界はどうのこうのという宗教者を見ると、初期仏教典ではそんなこと言ってないだろう、ブッダの言っていると思われることは現代科学とも相反しないだろう、と思う。

不思議なことは好奇心旺盛な人にとって興味深いことかもしれないけど、超能力や神秘現象の多くは、不思議なものを求める人々の心が作り出したものだ。

男女関係のエロティックなことにはけ口を求めにくい真面目な人たちは、神秘的なことにエロティックさを感じてのめりこむ場合がある。
宗教者も禁欲のために、神秘的なことに意識を振り向けているのかもしれない。

実際、エロと神秘には共通点がある。
隠されていると、見たくなる。知らないところには、何か知らなかった楽しさがあるのではないか、と想像する。
神秘的なものが好きな人は、真面目そうな顔をしていてもエロティックなことが好きな場合が多い。

トンデモ本と言われる、科学的根拠が欠落した不思議な本を購入して読んでいる人は、エロ本やエロDVDを楽しんでいる人と大差ない。

超古代史とか超古文書とか超能力とかUEOなどの本を読んでいる人だって、本当はこんなことありえなんじゃないかと心の片隅で思いながら、わくわく感を楽しんでいる。
痴漢物とかナンパ物とか野外物とかのエロDVDを見ながら、本当はこんなことありえないんじゃないかと思って楽しむ人と同じように。

もちろん、一部の判断力が乏しくのめりこみやすい人は、詐欺的な占い師にだまされてしまうかもしれないし、痴漢に走って逮捕されてしまうかもしれない。

中高生の頃に各種のトンデモ本を一通り読んで、大学生や社会人になるとそこから離れる人も多い。ぼくもそうだった。
神秘やエロについては、はしかのように、幼い頃に抵抗力をつけておいたほうがいいのかもしれない。
大人になってから神秘やエロにのめりこむと、こじらせてしまう恐れがある。


今のぼくは、世の中のすべてのことは化学式や数式で表現できると思っている合理主義者だ。
雰囲気とか情緒とか余韻などという繊細なものも、すべて化学式や数式で表現できるものだと思っている。
食物の腐敗とか雲海とか夕日といった事象がすべて化学的あるいは物理的に説明できるように。

世の中の不思議な現象も、もし、物理的に根拠がある現象であれば、いつの日かすべて科学的に説明できると思っている。

だから、ぼくは神秘を信じるわけではないけど、不可思議な現象のすべてを否定するつもりはない。
とくに、超能力といわれている能力は、いつか科学的に解明されるのではないかと思っている。

遠くに離れていても、何らかのぴったり合う性質を持つものは、反応する可能性があるかもしれない。プラス極とマイナス極が引き合うように。

ぼくにはまったく特別な能力はないけど、何か直感で感じることはある。
数ヶ月に一度も思い出さない人のことが脳裏をよぎったら、直後にその人からメールが届いた、ということが何回かある。

先日は、ふと後輩と飲みに行こうかと思ってメッセンジャーで文面を書き、送信しようと思ったちょうどそのタイミングでその後輩から飲みに行こうという文面が届いた。

むかし、大学入試のときは第一志望の合格発表の何日か前に、なぜか根拠もなくうれしい気分が心の中に出てきて、もしかしたら合格が決まったのかもしれないかと感じたことがある。

裏返しのトランプを6枚か7枚か連続で、ハートかダイヤかスペードかクローバーか当てたこともある。ハートかスペードか形が判別しにくかったことを覚えている。

彼女にマッサージをすることがときどきあるけど、どのあたりが凝っているか、どのあたりを押せばものすごくくすぐったがるか、ピンポイントで押す前からわかる。

歳をとってくると、失われてくる能力も多いけど、表面化してくる能力もあるのかもしれない。
気功かレイキか何か学ぶと、目覚めてくるものがあるのかもしれない。その能力を日々の生活に活かすこともできるかもしれない。

そういうわけで、もしぼくが気功かレイキか何かの教室に通いだしたとしても、それは神秘にあこがれるナルシストな行為ではない、と思ってもらえれば幸い。


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