よく大人が子どもたちに向かって「大きくなったら何になりたい?」と聞く。
野球選手、教師、バスの運転手、看護師などという声を聞いてやさしくほほえむ。
アフリカの難民キャンプやアジアの貧困地域に行ったレポーターが、貧しげな子どもたちに向かって「大きくなったら何になりたい?」と聞く。
なかなか返答できない子どもたちを見て、ここには明るい展望がないのだと思い込む。
ほんとうは、「なりたいもの」を聞くということは、一種の教育であり、一種の洗脳でもある。
混沌や無秩序を秩序や組織のほうに絡めとる意識がひそんでいる。
小さな子どもは、はじめて「なりたいもの」を聞かれたとき、大人たちから見ると想像を絶する答えをする場合が多い。
花になりたい、海になりたい、高層ビルになりたい、ココアになりたい、リカちゃん人形になりたいと言う子どもだっているだろう。
幼稚園のとき、ぼくは「空になりたい」と答えたことを覚えている。
ところが、そういった答えは周囲の大人たちに別方向に誘導されていく。
空になんてなれないよ、空にあるものといえば飛行機か? 飛行機のパイロットになりたいのか? などと誘導され、パイロットに全く興味はなかったけど、ぼくはパイロットになりたいんだということにされてしまった。
子どもたちは無秩序や混沌に親しんでいる。脈絡のない想像もするし、因果関係を間違えて認識していたりもする。
だけど、そういった姿勢は、秩序や組織の枠の中で生きていくには不都合だ。
ちゃんと物事の因果関係を認識し、段階を追って考えていく姿勢が求められる。
将来何になりたいか、という質問によって、子どもたちは具体的な職業を言わせられる。
アナーキストになりたいとか、大海賊になりたい、反政府ゲリラのリーダーになりたい、社会的常識を超えた芸術家になりたい、などという答えは検閲される。
社会秩序の維持に不都合な考えは、子どもの頃から矯正されてしまうのだ。
社会組織の一部として生きている大人たちにとって、秩序の破壊につながるものを放置することは許されない。当たり前のように否定されるべきことだから、反社会的な存在に子どもたちを育てようとは思わない。
だけど、そういった狭い視野で子どもたちを囲い込めば、フィロソファーやアーティストの成長を阻害してしまうことにもなる。
ほんとうの幸せって何だろう、ほんとうに意義のあることって何だろう、調和って何だろう、などということを考えるのは、社会秩序に絡めとられていないフィロソファーであり、アーティストだ。
秩序を守る人たちを育てるのもいい。世の中の形を見出し、充実や満足を感じ、平穏な日々を送ることができる。
だが、フィロソファーやアーティストの存在も大切だ。
秩序は、秩序だけでは存在できない。無秩序と秩序を行き来するフィロソファーやアーティスト、アウトサイダーたちがこの社会の輪郭を浮かび上がらせている。
出来上がったばかりの政権の下では、反政府的な動きは強く弾圧される。
安定し、組織化が弱まってきた社会では、芸術が広く日常に受け容れられてくる。
日本もそういった社会になってきているのではないかと思う。
野球選手、教師、バスの運転手、看護師などという声を聞いてやさしくほほえむ。
アフリカの難民キャンプやアジアの貧困地域に行ったレポーターが、貧しげな子どもたちに向かって「大きくなったら何になりたい?」と聞く。
なかなか返答できない子どもたちを見て、ここには明るい展望がないのだと思い込む。
ほんとうは、「なりたいもの」を聞くということは、一種の教育であり、一種の洗脳でもある。
混沌や無秩序を秩序や組織のほうに絡めとる意識がひそんでいる。
小さな子どもは、はじめて「なりたいもの」を聞かれたとき、大人たちから見ると想像を絶する答えをする場合が多い。
花になりたい、海になりたい、高層ビルになりたい、ココアになりたい、リカちゃん人形になりたいと言う子どもだっているだろう。
幼稚園のとき、ぼくは「空になりたい」と答えたことを覚えている。
ところが、そういった答えは周囲の大人たちに別方向に誘導されていく。
空になんてなれないよ、空にあるものといえば飛行機か? 飛行機のパイロットになりたいのか? などと誘導され、パイロットに全く興味はなかったけど、ぼくはパイロットになりたいんだということにされてしまった。
子どもたちは無秩序や混沌に親しんでいる。脈絡のない想像もするし、因果関係を間違えて認識していたりもする。
だけど、そういった姿勢は、秩序や組織の枠の中で生きていくには不都合だ。
ちゃんと物事の因果関係を認識し、段階を追って考えていく姿勢が求められる。
将来何になりたいか、という質問によって、子どもたちは具体的な職業を言わせられる。
アナーキストになりたいとか、大海賊になりたい、反政府ゲリラのリーダーになりたい、社会的常識を超えた芸術家になりたい、などという答えは検閲される。
社会秩序の維持に不都合な考えは、子どもの頃から矯正されてしまうのだ。
社会組織の一部として生きている大人たちにとって、秩序の破壊につながるものを放置することは許されない。当たり前のように否定されるべきことだから、反社会的な存在に子どもたちを育てようとは思わない。
だけど、そういった狭い視野で子どもたちを囲い込めば、フィロソファーやアーティストの成長を阻害してしまうことにもなる。
ほんとうの幸せって何だろう、ほんとうに意義のあることって何だろう、調和って何だろう、などということを考えるのは、社会秩序に絡めとられていないフィロソファーであり、アーティストだ。
秩序を守る人たちを育てるのもいい。世の中の形を見出し、充実や満足を感じ、平穏な日々を送ることができる。
だが、フィロソファーやアーティストの存在も大切だ。
秩序は、秩序だけでは存在できない。無秩序と秩序を行き来するフィロソファーやアーティスト、アウトサイダーたちがこの社会の輪郭を浮かび上がらせている。
出来上がったばかりの政権の下では、反政府的な動きは強く弾圧される。
安定し、組織化が弱まってきた社会では、芸術が広く日常に受け容れられてくる。
日本もそういった社会になってきているのではないかと思う。