句作を再開したのは去年の3月だった。
ある日、ふと思いついて同郷の俳人の名前をネットで検索すると、公式ブログがすぐ見つかった。
告知されていた俳句の集まりに参加させていただいたのが、句作再開のきっかけだ。
10代の後半は雑誌に投句し、20代の半ば頃はネット句会に投句していた。
東京勤務になってからリアルの句会にちょっと参加したこともあるけど、満足できる句は1つもできなかった。
句を作るにはひらめきもセンスもねばりも必要だ。
ぼくはものぐさだからすぐに限界を感じ、長く句作をやめていた。
大学時代には句会の授業を受けたり、俳句に関する授業を受けたりもしたけど、
記憶に残ることはなかった。
卒論は俳句に取り組んでもいいなと思っていたけど、ある日、ぼくが蕪村の句の示している構造を分析してみたことに対し、先生が「それほど意味の深い句じゃないわよ」というような言葉を発したことがある。
(雨は上から下への方向性であり、それに垂直に云々、というような構造を説明したんですけどね)
その時、「ああ、この先生は芸術とは何か、とか句の構造とは何か、といったことに関して考えている人ではないんだな。文学史系の先生なんだな」と感じ、俳句を卒論にすることはあきらめた。
俳句に関わる人の多くは、俳句に関してさまざまな持論を持っているけど、「俳句とはこういうものなんだ」という理論をはっきり言う人は少ない。
俳句に対しての評価の語彙もあいまいなものが多い。
なぜ、俳句の本をほとんど読むこともなく、歳時記すら持たない私がそれなりに俳句について意見を述べ、俳句を作ることができるかと言えば、俳句の本や俳人のセミナーから俳句の世界に入ってきたわけではないからだ。
世捨て人系の者として、世の中の物事の調和とは何かということを考えていると、構造とかバランスといったことについて意識的になる。
おそらく、構造とかバランスについて考える調和学(仮称)について学んできた人であれば、生け花でも俳句でも絵画でも合気道でもカメラでも、すぐに一定以上のレベルに達するのではないかと思う。
私たちは、芸術の構造を分析することができる。
代表的な「情緒」である人間の表情ですら、科学的に構造を分析され、ロボットでの再現を可能にしている。
情緒というあいまいなものでごまかす必要はない。読解をあきらめなくていい。
芸術の構造を分析することによって、なぜその構造が意味を持つのか、価値を持つのか、人にインパクトを与えるのか、などといったことが明らかになってくる。
合気道だって神秘ではなく、きちんと合理的な作用によって相手を組み伏せる。
強い武道は、その武道の世界の外に出ても強さが通用する。
様々な武道は時折格闘技イベントで異種格闘技を行う。
芸術も同じだ。
すごい日本画は、日本画の世界の外に出てもすごさが通用する。
優れた民俗芸能は、外国に行っても芸術として通用する。
おいしい料理は、外国に行っても評価される。
もし、日本舞踊の世界独特の価値観だとか、
俳句の世界でしか認められていないスタイルに固執するのであれば、
世界では闘えない。
異種格闘技イベントに参加できないローカルな弱い格闘技と同じように、文化財として残すことしかできないだろう。
いい俳句は、俳句の世界での常識を知らない人にも感動が伝わる。
私は、俳句の世界の外の人にも伝わる俳句を作って行きたい。
俳句に芸術として価値のある構造があれば、翻訳して外国人に伝えることすら可能だ。
今年は精進しなくては。
追記
生け花やカメラは俳句に似ているところがあると思う。
どちらも構造を切り取らなくてはいけない。
生け花は、花と葉と花器、カメラは対象物と枠と紙(画面)が必要だ。
俳句は、5・7・5の17文字と季語。
上記の条件をそろえただけで、形はすぐにできるけど、芸術として通用する構造がなければ、芸術とは言えない。
逆に言うと、芸術として取り組むのであれば、花器や枠や季語を取り払うこともありえる。
大事なのは、構造とバランスであって、形や枠ではない。
ある日、ふと思いついて同郷の俳人の名前をネットで検索すると、公式ブログがすぐ見つかった。
告知されていた俳句の集まりに参加させていただいたのが、句作再開のきっかけだ。
10代の後半は雑誌に投句し、20代の半ば頃はネット句会に投句していた。
東京勤務になってからリアルの句会にちょっと参加したこともあるけど、満足できる句は1つもできなかった。
句を作るにはひらめきもセンスもねばりも必要だ。
ぼくはものぐさだからすぐに限界を感じ、長く句作をやめていた。
大学時代には句会の授業を受けたり、俳句に関する授業を受けたりもしたけど、
記憶に残ることはなかった。
卒論は俳句に取り組んでもいいなと思っていたけど、ある日、ぼくが蕪村の句の示している構造を分析してみたことに対し、先生が「それほど意味の深い句じゃないわよ」というような言葉を発したことがある。
(雨は上から下への方向性であり、それに垂直に云々、というような構造を説明したんですけどね)
その時、「ああ、この先生は芸術とは何か、とか句の構造とは何か、といったことに関して考えている人ではないんだな。文学史系の先生なんだな」と感じ、俳句を卒論にすることはあきらめた。
俳句に関わる人の多くは、俳句に関してさまざまな持論を持っているけど、「俳句とはこういうものなんだ」という理論をはっきり言う人は少ない。
俳句に対しての評価の語彙もあいまいなものが多い。
なぜ、俳句の本をほとんど読むこともなく、歳時記すら持たない私がそれなりに俳句について意見を述べ、俳句を作ることができるかと言えば、俳句の本や俳人のセミナーから俳句の世界に入ってきたわけではないからだ。
世捨て人系の者として、世の中の物事の調和とは何かということを考えていると、構造とかバランスといったことについて意識的になる。
おそらく、構造とかバランスについて考える調和学(仮称)について学んできた人であれば、生け花でも俳句でも絵画でも合気道でもカメラでも、すぐに一定以上のレベルに達するのではないかと思う。
私たちは、芸術の構造を分析することができる。
代表的な「情緒」である人間の表情ですら、科学的に構造を分析され、ロボットでの再現を可能にしている。
情緒というあいまいなものでごまかす必要はない。読解をあきらめなくていい。
芸術の構造を分析することによって、なぜその構造が意味を持つのか、価値を持つのか、人にインパクトを与えるのか、などといったことが明らかになってくる。
合気道だって神秘ではなく、きちんと合理的な作用によって相手を組み伏せる。
強い武道は、その武道の世界の外に出ても強さが通用する。
様々な武道は時折格闘技イベントで異種格闘技を行う。
芸術も同じだ。
すごい日本画は、日本画の世界の外に出てもすごさが通用する。
優れた民俗芸能は、外国に行っても芸術として通用する。
おいしい料理は、外国に行っても評価される。
もし、日本舞踊の世界独特の価値観だとか、
俳句の世界でしか認められていないスタイルに固執するのであれば、
世界では闘えない。
異種格闘技イベントに参加できないローカルな弱い格闘技と同じように、文化財として残すことしかできないだろう。
いい俳句は、俳句の世界での常識を知らない人にも感動が伝わる。
私は、俳句の世界の外の人にも伝わる俳句を作って行きたい。
俳句に芸術として価値のある構造があれば、翻訳して外国人に伝えることすら可能だ。
今年は精進しなくては。
追記
生け花やカメラは俳句に似ているところがあると思う。
どちらも構造を切り取らなくてはいけない。
生け花は、花と葉と花器、カメラは対象物と枠と紙(画面)が必要だ。
俳句は、5・7・5の17文字と季語。
上記の条件をそろえただけで、形はすぐにできるけど、芸術として通用する構造がなければ、芸術とは言えない。
逆に言うと、芸術として取り組むのであれば、花器や枠や季語を取り払うこともありえる。
大事なのは、構造とバランスであって、形や枠ではない。