波打ち際の考察

思ったこと感じたことのメモです。
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波屋山人

楳図(うめず)かずお邸の前を通ってみた

2008-09-17 01:45:28 | Weblog
先日、吉祥寺のライブハウスで楳図(うめず)かずお先生の誕生日イベントがあった。
楳図かずお先生の漫画は少ししか読んだことはないけど、激しいまでの才能を感じ、尊敬している。

イベントに行く前に、ちょっと話題の楳図邸にも行ってみた。
吉祥寺駅から南東方向に行ってちょっと通りを入ると閑静な住宅街がある。

なかなか落ち着いた高級住宅街。こんなところに住んでみたいなぁ。
武蔵野市吉祥寺南町1-23-XXあたりにさしかかると、外壁が赤白ストライプの、ユニークな家屋が目の前にあらわれる。

家の前に木が植えられているせいか、道からぎりぎりのところに建てられていないせいか、刺激的なデザインだとは感じない。
エントランスあたりはギリシャ的な柱もあったりして、東京にしては余裕のある建て方。
丁寧に作ってある。

ただ、斜め向かいの家とは対照的な印象。
斜め向かいの家は花々にあふれ、イギリス的というか欧風というか。洗練されたデザイン。
社会的に正しいデザイン。世の中の一般構成員の常識に反しないデザイン。はみ出していない。
社会的地位の高い紳士淑女が住まわれているのではないかという印象を受ける。

この高級な邸宅に比べると、そりゃあ楳図さんの赤白ストライプハウスは個性的。
まあ、芸術家というものは社会システムや社会秩序の維持を価値観の基本にはしていないから、一般社会人とはちょっと価値観が合わない場合もある。
一般社会人が当然だと思っていることでも、芸術家にとってはそうでなかったりする。

芸術がわからなくても、できるだけ「否定」を避けられるように心がけたほうが不幸にはならないだろう。
自分たちの「当然」とか「当たり前」という価値観はひとつの仮定にすぎない、と割り切ればいろんなことにこだわらなくて済むかも。

ただ。。。
単なる私の思い込みで申し訳ないけど、率直に感想を述べさせていただくと、
控えめにうめずかずお邸を撮っていたときに、斜め向かいの邸宅から、殺気のようなものを感じてしまった。

「うちの敷地内に足を踏み入れて写真を撮るな」
「休日にぞろぞろいろんな人が来ると迷惑」
「こっちは撮るな」
なんだかそんな想念を感じてしまった。根拠のないことでたいへん申し訳ないが。

おそらく、私の心の中で危惧していることがあるから、そのような印象を感じてしまうのだろう。

ぜひ、うめずかずお先生宅を見学に行かれる方は、ご近所の迷惑にならないようにしましょう。
友人同士で大きな声を上げないようにしましょう。
どたばた大きな音をたてないようにしましょう。
ご近所さんの姿をみかけたら、礼儀正しく会釈をしましょう。
斜め向かいの邸宅の敷地内に足を踏み入れないようにしましょう。

幸い、私が訪れたときにも何組かのカップルがやってきて楳図邸を写真におさめていたが、みなさん控えめな様子だった。

ファンのせいで楳図先生にご迷惑がかかりませんように。

楳図先生宅の家の前の通りはグーグルストリートビューで見ることができない様子。
おそらく、南町1-19-XXとか南町1-23-XXなどの家の人たちがGoogleに通報したのではないだろうか。
プライバシーの侵害だから画像を公開するな、と。
そういったことに敏感な方が楳図邸近くにいらっしゃるのだろうと感じる。
少なくとも、先生のファンはご近所への配慮が必要ではないかと思った。


<参考>怖いものや汚いものについて
■読売ウイークリー 2008年9月14日号「楳図かずおインタビュー」より
http://news.nifty.com/cs/magazine/detail/yw-20080904-01/3.htm
(略)
人間はだれでも「怖い」と感じる心を持っているのに、理性がそれを消してしまっているところがある。そういうことって都会に住んでいると仕方のないことなんですけど、怖さを、変な言い方だけど「なめて」しまっているところがあって、それが人間として怖いと思う。謙虚になれない部分が勝手に出来上がってしまっているのがよくない、と僕は思っているんです。何かを怖いと感じるのは、自分が一番ではなく「自分よりもっと何か大きなものがある」と感じるからなんで、そういう怖さを忘れてしまっている。街の中って、特にそんな感じですよね。
 戦後、アメリカが「日本は畑に人糞を撒いて野菜を育てている」と驚いた。それは今で言えば「エコ」なんですけど、アメリカは化学的な薬品でもって食べ物とかを育てるという考えになっていた。確かに人糞は汚いんですけども、当時の日本の田舎はどこに行っても肥溜めがありました。汚くても自然の循環には合っていた。「汚い」とか「臭い」とかいうことを、ちゃんと踏まえた生活があったと思うんですが、その後は何でも「きれい、きれい」を目指すことになっちゃった。でも自然というのは本来どれをとってもグニャグニャ、グチャグチャ、ベチャベチャというふうに不気味なんですね。自然界に「まっすぐ」なものはないと僕は思ってます。汚いとか暗いとかいうと普通、あってはいけない「闇の部分」みたいに捉えられがちですが、それ以前に自然の力がある。どこの世界も臭かったり闇があったりしないと本当の「自然」ではないと思いますね。おっしゃるように、そういう中で育つということが本当は大事だったんじゃないのかな。
(略)

コメント
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