朝日新聞に、掲載された性被害者の記事の中に「プライベートパーツは誰も触ってはいけない大事なもの」ということを小さい頃から子どもたちに認識してもらうような教育が重要であるというようなことが書かれてあった。
本当にそうだと思った。
嫌なことなのに、誰かに相談できない、あるいは、母親に相談したけれど、黙っていなさいと言われたから、イヤ!という声をあげれなかた・・・と。
その結果、大人になって、みな苦しんでいた。うつ病になったり・・・。
勇気を出して母親に相談しても、そこで、黙っていなさいと言われたら、幼い子どもはなすすべがない。だから、母親への教育というより、子どもたちにきちんと伝えていくことが大切だとこの記事に共感した。
自分の夫が、あるいは、息子が、娘にそんなことをしていると知ったら、おそらく、私だったら、夫とはとっとと離婚する。息子には・・・、どうするだろう。暴力はいけないけれど、なんだか大泣きしながら叩きまくるような気がする。黙っていなさい・・・なんて、考えられない。
黙っていなさいという母親も、病むしかなかった過去からのサバイバーの思考なのだろうか。
心の安心より、身の安全を選択してきた人生の結果なのだろうか・・・。
ところで、この記事には、こんなことが書かれてあって、久しぶりに脳天を打ち砕かれた。
アメリカの2歳半健診を受けたことのある日本人ママの体験談。
小児科のお医者さんが「今から、彼のプライベートパーツを触る。彼の同意を得て」と告げられ、母親は息子に聞くこともなく「はい、大丈夫です。」と何の気もなしに応えたところ、そのお医者さんは真剣な表情で「あなたではなく、彼の同意が必要。ちゃんと説明して」と言われたとのこと。
ガビーン。
私は、我が子たちに、同意を得てから、行動するというような子育てをしてきただろうか?
答えは、ノーである。ほぼ・・。
ゾッとした。
人権なんてどこにもない。
たまに、思い出したかのように、することはあったかもしれない。
でも、全然、私の体に染みついていなかった。
私の中に、一人の人間として我が子と接するというワードは、時々顔を出した。
泣けばオッパイを咥えさせることが、実は「あなたはあなたであってはならない」という口封じ育児だったと気づいて唖然とした『抱っこ法』
駄々こねがひどかった次男が、一発で治った時に出逢った『親業』
おそらく私も含めて、人の話を自分を空っぽにして聴ける人って、ほとんどいないんじゃないかと実感させられたカールロジャースの『積極的傾聴』
そして、ママが幸せのお手本でさえあれば、それさえあれば、子どもの将来を案ずる必要は全くない。ただ、ただ、ママが我が子に幸せのお手本の後ろ姿を見せてあげることと教えてくれた菜花聡さんの『不登校から抜け出すたった一つの方法』との出逢い。
我が子の子育てを通して出逢えた宝物により、私のこころは、確かに成長していった。
頭の中では、子どもだろうが赤ちゃんだろうが何だろうが、一人の人間として、友人のように接することが大切であると認識はしていたけれど、頭のなかだけで、身体全身に沁みとおっていなかった。
しかし、この朝日新聞の、同意を得るといアメリカ人小児科医の毅然とした態度の記事を読んだ瞬間、頭から全身に向かって、『同意を得る』という言葉が稲妻のように貫いた。
今までの、諸々の学びのバラバラが、統合されたって気がした。
実は、その新聞はこう続く。
これが、また、ショックだった。
せっかく、我が子にプライベートパーツを守ることの大切さを伝えたいと思っていたのに、3歳児健診の身体計測で人前で脱がなきゃいけないことになり、仕方がないのでバスタオルでくるんで計測したと書いてあった。
人権尊重の点と点が、私の脳内でやっと繋がった。
ドキッとした。
そういえば、3歳児健診の計測で、全然平気な子もいれば、恥ずかしがってなかなか計測できない子や、動けない子などもいる。そのため、スタッフもなだめたりほめたりしながらなんとか測らせてもらっていた。
同意を得て測るなんて考えたこともなかった。
もし、自分がその恥ずかしがる3歳児だったとしたら・・・と考えると、なんと恐ろしいことをしてしまったのだろうとショック。
恥ずかしいに3歳児も20歳も50歳もない。
恥ずかしいは恥ずかしいなのだ。
今まで、本当に申し訳ないことをしてきた・・・と猛反省。
さっそく、職場で、検討した。
予算がないので、どうしたら、3歳児健診での身体測定を一人一人の個の空間を確保できるか、知恵を出し合った。
おそらく、身内による性犯罪が起こる家庭って、言えない・言ってもスルーされるようなおかしな家庭の可能性が強いような気がする。だから、本人が訴える力を身につけるしかない。 私たち3歳児健診をする立場の者は、1回しかチャンスがない。その1回のチャンスをどう活かすか?
同意を得るという見本・プライベートパーツを守るという見本になれたらいいな。
それにしても、人生の折り返し地点を過ぎてからの、気づきに我ながら愕然とする。
子どもの人権って、めっちゃ、ないがしろにされているという現実に慄くばかり。
こんな大切なことに気づいてすらいない大人(私も含めて)による人権教育って必要かな?と学校の道徳の時間への疑問がふつふつと湧いてくる。偉そうなことは、誰も言えない。
だって、30年以上、3歳児健診をやってきて、スタッフの中で、一度も集団の場で着脱する行為に対してプライバシーの侵害という意見なんか出なかったもの。
ただ、身体計測を担当する母子保健推進員さんに、今まで、県外から転入してきたママから数人、『ここは、服を脱ぐとき、個別ではないんですか。」と尋ねられたことがあったと。
日本全国に、まずは、3歳児健診の身体計測の環境を整える動きが出て来ることを、また、必ず、3歳児の同意を得るスタッフが増えることを願う。
虐待という行為は、誰でもわかりやすい人権侵害の最たるものである。
みな、とんでもない行為だと断言する。
しかし、どうだろう。3歳児に、同意を得ないで、イヤなこと・恥ずかしいことを無理やりする行為は、虐待の方にベクトルは向いていないだろうか。
自分のお粗末さに、穴があったら入りたいくらい。
私の中で、点と点が繋がった。
だから、子どもの同意を得るということにこだわる。
振り返れば、神様から授かった子どもを、独り立ちするまで責任をもって育てさせていただくというイメージで、決していい環境とは言えないなかで、しかも、怒の感情が未分化な未熟な私が、私なりに、精いっぱい育てたつもりだった。
4人の男の子を育てる中で、あっちぶつかりこっちぶつかりしながら、本物の人権を守ることについて、少しだけ近づいた気がする。
長男を父親から守る勇気の醸成には、長い時間が必要だった。長男が高2の冬に、やっと、夫に立ち向かい、言いたいことを言えた。
もっと、小さい時から、守れなかった後悔。
私は、キレる夫が怖くて、長男の人権を守ってあげれなかった。なんて、情けない。でも、それが、私だった。
人は、不満より身の安全を選ぶ。
本当にそう思う。
母親から虐待されている子どもは、意外とお母さんのそばから離れないという。
子どもは、一人では生きてゆけない。
母親無しでは生きてゆけない。食べていけない。
母が怖くても、生存を選ぶ。
私は、人よりも、怒の感情が未分化で防衛力の低い人間だったから、戦闘機さながらの夫の口撃にはとてもとても太刀打ちできなかった。
しかしながら、石の上にも17年。
私も戦闘機に立ち向かえるような防衛力を身に着けることができた。幸か不幸か、夫のおかげで。
『イヤなことはイヤだとどんな相手にもきちんと言えるちゃんとした人間』になるために、長男を犠牲にしてしまったというような申し訳ない気持ちが、いつもどこかにある。
そう考えると、プライベートパーツは誰にも触れさせないという教育を小さい頃より行っていくことの意味は、ものすごく重要なことなのではないかと今、ふと思った。イヤなことはイヤだとどんな相手にも言える、あるいは、SOSを出せる防衛力を身に着ける道の一つに浮上してきた。
三男の『あの時から、もう、お母さんには自分のことは絶対話さないって決めたんだ。』という言葉。
本当にそうだと思った。
嫌なことなのに、誰かに相談できない、あるいは、母親に相談したけれど、黙っていなさいと言われたから、イヤ!という声をあげれなかた・・・と。
その結果、大人になって、みな苦しんでいた。うつ病になったり・・・。
勇気を出して母親に相談しても、そこで、黙っていなさいと言われたら、幼い子どもはなすすべがない。だから、母親への教育というより、子どもたちにきちんと伝えていくことが大切だとこの記事に共感した。
自分の夫が、あるいは、息子が、娘にそんなことをしていると知ったら、おそらく、私だったら、夫とはとっとと離婚する。息子には・・・、どうするだろう。暴力はいけないけれど、なんだか大泣きしながら叩きまくるような気がする。黙っていなさい・・・なんて、考えられない。
黙っていなさいという母親も、病むしかなかった過去からのサバイバーの思考なのだろうか。
心の安心より、身の安全を選択してきた人生の結果なのだろうか・・・。
ところで、この記事には、こんなことが書かれてあって、久しぶりに脳天を打ち砕かれた。
アメリカの2歳半健診を受けたことのある日本人ママの体験談。
小児科のお医者さんが「今から、彼のプライベートパーツを触る。彼の同意を得て」と告げられ、母親は息子に聞くこともなく「はい、大丈夫です。」と何の気もなしに応えたところ、そのお医者さんは真剣な表情で「あなたではなく、彼の同意が必要。ちゃんと説明して」と言われたとのこと。
ガビーン。
私は、我が子たちに、同意を得てから、行動するというような子育てをしてきただろうか?
答えは、ノーである。ほぼ・・。
ゾッとした。
人権なんてどこにもない。
たまに、思い出したかのように、することはあったかもしれない。
でも、全然、私の体に染みついていなかった。
私の中に、一人の人間として我が子と接するというワードは、時々顔を出した。
泣けばオッパイを咥えさせることが、実は「あなたはあなたであってはならない」という口封じ育児だったと気づいて唖然とした『抱っこ法』
駄々こねがひどかった次男が、一発で治った時に出逢った『親業』
おそらく私も含めて、人の話を自分を空っぽにして聴ける人って、ほとんどいないんじゃないかと実感させられたカールロジャースの『積極的傾聴』
そして、ママが幸せのお手本でさえあれば、それさえあれば、子どもの将来を案ずる必要は全くない。ただ、ただ、ママが我が子に幸せのお手本の後ろ姿を見せてあげることと教えてくれた菜花聡さんの『不登校から抜け出すたった一つの方法』との出逢い。
我が子の子育てを通して出逢えた宝物により、私のこころは、確かに成長していった。
頭の中では、子どもだろうが赤ちゃんだろうが何だろうが、一人の人間として、友人のように接することが大切であると認識はしていたけれど、頭のなかだけで、身体全身に沁みとおっていなかった。
しかし、この朝日新聞の、同意を得るといアメリカ人小児科医の毅然とした態度の記事を読んだ瞬間、頭から全身に向かって、『同意を得る』という言葉が稲妻のように貫いた。
今までの、諸々の学びのバラバラが、統合されたって気がした。
実は、その新聞はこう続く。
これが、また、ショックだった。
せっかく、我が子にプライベートパーツを守ることの大切さを伝えたいと思っていたのに、3歳児健診の身体計測で人前で脱がなきゃいけないことになり、仕方がないのでバスタオルでくるんで計測したと書いてあった。
人権尊重の点と点が、私の脳内でやっと繋がった。
ドキッとした。
そういえば、3歳児健診の計測で、全然平気な子もいれば、恥ずかしがってなかなか計測できない子や、動けない子などもいる。そのため、スタッフもなだめたりほめたりしながらなんとか測らせてもらっていた。
同意を得て測るなんて考えたこともなかった。
もし、自分がその恥ずかしがる3歳児だったとしたら・・・と考えると、なんと恐ろしいことをしてしまったのだろうとショック。
恥ずかしいに3歳児も20歳も50歳もない。
恥ずかしいは恥ずかしいなのだ。
今まで、本当に申し訳ないことをしてきた・・・と猛反省。
さっそく、職場で、検討した。
予算がないので、どうしたら、3歳児健診での身体測定を一人一人の個の空間を確保できるか、知恵を出し合った。
おそらく、身内による性犯罪が起こる家庭って、言えない・言ってもスルーされるようなおかしな家庭の可能性が強いような気がする。だから、本人が訴える力を身につけるしかない。 私たち3歳児健診をする立場の者は、1回しかチャンスがない。その1回のチャンスをどう活かすか?
同意を得るという見本・プライベートパーツを守るという見本になれたらいいな。
それにしても、人生の折り返し地点を過ぎてからの、気づきに我ながら愕然とする。
子どもの人権って、めっちゃ、ないがしろにされているという現実に慄くばかり。
こんな大切なことに気づいてすらいない大人(私も含めて)による人権教育って必要かな?と学校の道徳の時間への疑問がふつふつと湧いてくる。偉そうなことは、誰も言えない。
だって、30年以上、3歳児健診をやってきて、スタッフの中で、一度も集団の場で着脱する行為に対してプライバシーの侵害という意見なんか出なかったもの。
ただ、身体計測を担当する母子保健推進員さんに、今まで、県外から転入してきたママから数人、『ここは、服を脱ぐとき、個別ではないんですか。」と尋ねられたことがあったと。
日本全国に、まずは、3歳児健診の身体計測の環境を整える動きが出て来ることを、また、必ず、3歳児の同意を得るスタッフが増えることを願う。
虐待という行為は、誰でもわかりやすい人権侵害の最たるものである。
みな、とんでもない行為だと断言する。
しかし、どうだろう。3歳児に、同意を得ないで、イヤなこと・恥ずかしいことを無理やりする行為は、虐待の方にベクトルは向いていないだろうか。
自分のお粗末さに、穴があったら入りたいくらい。
私の中で、点と点が繋がった。
だから、子どもの同意を得るということにこだわる。
振り返れば、神様から授かった子どもを、独り立ちするまで責任をもって育てさせていただくというイメージで、決していい環境とは言えないなかで、しかも、怒の感情が未分化な未熟な私が、私なりに、精いっぱい育てたつもりだった。
4人の男の子を育てる中で、あっちぶつかりこっちぶつかりしながら、本物の人権を守ることについて、少しだけ近づいた気がする。
長男を父親から守る勇気の醸成には、長い時間が必要だった。長男が高2の冬に、やっと、夫に立ち向かい、言いたいことを言えた。
もっと、小さい時から、守れなかった後悔。
私は、キレる夫が怖くて、長男の人権を守ってあげれなかった。なんて、情けない。でも、それが、私だった。
人は、不満より身の安全を選ぶ。
本当にそう思う。
母親から虐待されている子どもは、意外とお母さんのそばから離れないという。
子どもは、一人では生きてゆけない。
母親無しでは生きてゆけない。食べていけない。
母が怖くても、生存を選ぶ。
私は、人よりも、怒の感情が未分化で防衛力の低い人間だったから、戦闘機さながらの夫の口撃にはとてもとても太刀打ちできなかった。
しかしながら、石の上にも17年。
私も戦闘機に立ち向かえるような防衛力を身に着けることができた。幸か不幸か、夫のおかげで。
『イヤなことはイヤだとどんな相手にもきちんと言えるちゃんとした人間』になるために、長男を犠牲にしてしまったというような申し訳ない気持ちが、いつもどこかにある。
そう考えると、プライベートパーツは誰にも触れさせないという教育を小さい頃より行っていくことの意味は、ものすごく重要なことなのではないかと今、ふと思った。イヤなことはイヤだとどんな相手にも言える、あるいは、SOSを出せる防衛力を身に着ける道の一つに浮上してきた。
三男の『あの時から、もう、お母さんには自分のことは絶対話さないって決めたんだ。』という言葉。