「過剰適応は適応能力を締め出す。」
という言葉は、実に簡潔でありながら洞察に満ちた格言だ。
クレイトン・クリステンセンの
『イノベーションのジレンマ』が炙り出した盛者必衰の理にも通ずるものがある。
しかし、ここで疑問に思うはずだ。
「では、適切な適応とは何なのか?」
競合より適応能力に劣れば競争に負ける。
競合に勝つためには、誰よりも早く、速く、深く適応する必要がある。
そのような状況の中で、過剰適応となる境界線の寸前で立ち止まることは、可能だろうか?
その境界線がどこにあるのか見定めることができるとは思えないが、仮にできたとしても、それでは競争に負ける可能性が高い。
これでは破滅する前に自滅してしまう。
もし競争の参加者全員が境界線を知ることができたとしたら、全員が横並びになるかもしれない。
その上で競争に「談合」を持ち込むことで皆がWin-Winの関係を構築できる。
参加者全員をコントロール(協調)可能で、誰かの犠牲なしに全員で分かち合うだけの資源的な余裕があるのであれば、それもありだ。
だがそれは、そういったユートピアがこの現実世界に実現できれば・・の話だ。
たいていは「囚人のジレンマ」にはまり、参加者は利己的に動くゆえに競争となる。
いや、「競争」の語源は「互いの良いところを引き出す」という意味であるように、競争はより良いものを引き出す手段として必要だ。
この議論の本質は、「高すぎる適応能力」と「低すぎる適応能力」との境界線を探ることに意味はない、ということなのだ。
繰り返しになるが、競争に勝つには誰よりも早く、速く、深く適応する必要があり、それゆえ適応に「高すぎる」などという概念はない。
「適切な適応能力」などというものは存在しないのだ。
すると、我々には、滅ぶか、負けるかの選択肢しかないのか?
実は、そうだ。
「長期的にはわれわれはすべて死んでいる(In the long run, we are all dead.)」
であるならば、なぜ我々の生活は今こうして成立しているのか?
なぜ100年を超えて存続する組織があるのか?
どうして多くの国は滅んだのに、いまだに多くの国は存在するのか?
この問題に対して、多くの識者はこう答える。
「これは適応の"高低"が問題ではなく、"柔軟性"の問題だ。」
つまりこういうことだ。
誰よりも早く、速く、深く適応し、環境変化の兆しに気づいたら誰よりも早く変わればいい。
しかし、適応するということと柔軟性があるということは両立するのか?
一見、両立するようにも思える。
たとえば、水は容器の形に合わせて姿を変えることができるだろう。
孫子の兵法にもこうある。
兵を形すの極みは無形に至る。無形なれば、則ち深間も窺うこと能わず、智者も謀ること能わず。形に因りて勝を衆に錯くも、衆は知ること能わず。人は皆、我が勝の形を知るも、勝つ所以の者は知る可からず。故に其の戦い勝つや復さずして、形に無窮に応ず。
夫れ兵の形は水に象る。水の行は高きを避けて下きに走る。兵の勝は実を避けて虚を撃つ。水は地に因りて行を制し、兵は敵に因りて勝を制す。故に、兵に常勢無く、常形無し。能く敵に因りて変化して勝を取る者、之を神と謂う。五行に常勝無く、四時に常位無く、日に短長有り、月に死生有り。
水に決まった形がないように、柔軟に形を変えることは有用だ。
が、しかし、そんなことが可能であろうか?
可能なのであれば、どのようにして可能となるのだろうか?
我々はそれほど柔軟な存在なのだろうか?
我々が柔軟に変化できるとする説は、その理由は我々が「学習」するからだと教える。
そうだ。
我々は学習するから過去に起きた過ちを繰り返さぬようにすることができるし、昨日できなかったことが今日できるようになる。
ただ、「学習」と一言でいってもその言葉が捉えているスケールは幅広い。
我々は科学技術の力で巨大な物体を宇宙まで飛ばすことができるようになったが、いくら学習しても自分の力だけで空を飛ぶことはできない。
火傷をすることでロウソクの炎に触ることが危険なことだと学習することはできるが、ロウソクの炎を触っても大丈夫な皮膚を手にすることはできない。
(一部の人が修行によって炎にまけない身体を手にした話を幾つも知っているが・・)
流行のファッションを学んで雰囲気イケメンになることはできるが、身長を伸ばすことはできない。
何事も外形的なもの(格好)を変化させることは容易いが、内部構造を変えることはすぐにはできない。
遺伝的な変化であればなおさらだ。
「突然変異」のような「特異」な出来事は変化万能主義者にはとても良いことのように捉えられているが、基本的に変異は淘汰されて蓄積しないようになっている。
既存の生態系の中では、特異であることは生存していく上で不利だからである。
しかし、平時には不利なのであるが、有事であれば事情は変わる。
環境変化が大きい時は、これまでとは異なるということが武器になる。
ただ、6500万年前に起きた隕石の衝突ほど大きい(地球上の75%の種が絶滅されたとされる)変化になると変異どころでは適応しきれず、この場合はK-T境界を乗り越えられる条件を持つ種が地球上にどれだけ存在しているか、といったところが重要となる。
この自然の総当り戦略でさえも、巨視的に観れば、絶え間ないフィードバックを得るための学習なのだというなら、「進化」ほどのスケールの話も学習の成果だと言えてしまうのかもしれない。
自然は命をムダにする
http://blog.goo.ne.jp/advanced_future/e/e98d828c318cbd4d9677b82f653b26c8
少し戻って、「適応するということと柔軟性があるということは両立するのか?」という問いに対する答えはこうだ。
両立する。
それは学習によって両立する。
ただし、学習というのは思い直しのようなミクロなものから、生物学的な進化や種の生存といったマクロなスケールを範疇に含めた幅広い概念で、環境変化のレベルに応じた学習能力が必要である。
そして、学習のために必要なものが「多様性」である。
多様である可能性が存在すること、と言った方がわかりやすいかもしれない。
つまり、環境変化のレベルに応じた多様性が存在しているかどうかが、過剰適応の罠を乗り越えられるかどうかにおいて重要である。
この日本という国は政権が変わっても存続しているし、
(一つのやり方がダメでも、クーデターや革命なしに他のやり方を選べる。)
10年もすれば企業が扱うカタログの中身は変化するし、
(扱う商品やサービスが変わっても企業は存続できる)
私の身体を構成している何十兆もある細胞は日々生まれ変わっているのに私は今ここに昨日と変わらず存在するのは
(構成要素が変わっても自己同一性を維持できる)
それらが多様性を使って日々生まれ変わる(学習する)ということをしているからだ。
養老孟司
『バカの壁』の中に出てくる「論語」の一説に対する意訳が、「知る」という不可逆の変化をよく表現していると思う。
君たちだってガンになることがある。
ガンになって、治療法がなくて、あと半年の命だよと言われることがある。
そうしたら、あそこで咲いている桜が違って見えるだろう。
ガンの告知で桜が違って見えるということは、自分が違う人になってしまった、ということです。
その桜が違ってみえた段階で去年までどういう思いであの桜を見ていたか考えてみろ。
多分思い出せない。
では桜が変わったのか。
そうではない。
それは自分が変わったということに過ぎない。
知るというのはそういうことなのです。
知るということは、自分がガラッと変わることです。
したがって、世界が全く変わってしまう。
見え方が変わってしまう。
それが昨日までと殆ど同じ世界でも。
これに一番ふさわしい言葉が『論語』の「朝に道を聞かば、夕に死すとも可なり」。
道を聞くというのは、学問をして何かを知るということです。
朝、学問をして知ったら、夜、死んでもいいなんて、無茶苦茶な話だ、と思われるでしょう。
私も若い時には何のことだかまったくわからなかった。
しかし、「知る」ということについて考えるうちに気がついた。
要するに、ガンの告知で桜が違って見えるということは、自分が違う人になってしまった、ということです。
去年まで自分が桜を見てどう思っていたか。
それが思い出せない。
つまり、死んで生まれ変わっている。
(知ってしまったらもう過去の自分はそこにはいない)
そういうことを常に繰り返していれば、ある朝、もう一度、自分ががらっと変わって、世界が違って見えて、夕方に突然死んだとしても、何を今さら驚くことがあるか。
絶えず過去の自分というのは消されて、新しいものが生まれてきている。
実は「覚悟を決める」や「死んだつもりになって」「捨て身になる」という言葉には、そんな含意があるのかもしれない。
アントレプレナーシップの極意ではないか。