今日で国立大2次試験の前期が終了。まだ後期試験が残っている人も、センターから試験続きだったのがひと段落、というところではないだろうか。
受験生と関係者の皆様はお疲れ様でした。
頑張ってる受験生をさしおいて、大学入試の時期になると「日本の大学入試制度はおかしい」という議論が毎年噴出する。
こんなカンニング事件が発生したりすると、それを燃料に議論は燃える。
京大入試問題、試験中に質問サイトへ投稿、受験生か-日経新聞
そもそも日本の大学入試というのは本当に「おかしい」のだろうか。何が論点なのかをちょっと考えてみたい。
日本の大学入試は間違っているのか
「日本の大学入試が間違っている」という論の多くは、次の3点に尽きると思われる。
1) 今日本が必要としてるのは、グローバルなリーダーとか起業家とかである。一回限りの筆記のみの学力試験でそういうポテンシャルを持った学生を採用できるわけがなく、試験が出来る学生しか取れるのみで意味がない
2) 小学校から高校までの教育がこの一回限りの学力試験で成功することを目的に設計されており、子供の多様な可能性を伸ばす教育が出来ないという悪影響を与えている
3) このような筆記のみの学力試験で入試選抜をしている国は世界でもまれ。「世界でも非常識」である
そしてこれらを解決する方法として、小論文と面接など基調とし、個人の能力を丁寧に判定する試験に変えることを提案する意見が多い。これは本当だろうか。
大学の選抜方法が筆記で一発の国は日本だけではない
まず答えやすい3)から行くと、良いかどうかはともかくとして、日本と同様の試験一発の大学入試制度を採用している国はたくさんある。いわゆる「小論文や面接」を基調としてるのは、米国の私立トップスクールとその制度をならった一部国だけだということは頭にとめておきたい。
フランスではバカロレア(Baccalaureat)、ドイツもアビトゥーア(Abitur)という共通の高校卒業試験があり、これで行ける大学が決まる。専門によって受ける試験の種類が違い、一部に口頭試問を含むが基本は筆記である。(仏グランセコールは別で、別途試験がある。)これらは、日本の大学受験のように「滑り止め」はなく、たった一回の試験で進学できる大学が決まる、という意味で日本の入試以上に厳しいと言える。
中国は科挙の国であり、かつては筆記試験だけで人生全てが決まる国だった。その凄まじさと悲哀は浅田次郎の小説「蒼穹の昴」に詳しいから一読すると面白いかも。現在でも「全国高等院校招生統一考試(「高考」)」というセンター試験一発で、行ける大学が決まり、それで将来の就職先も決まるという意味で日本より厳しい。
以上、日本以上に筆記一発で大学入学が決まる国はたくさんあるというお話でした。
米国トップスクール型の大学入試をうまくやるには仕組みと手間とコストが必要
各国がこういう入試制度を活用するには理由がある。
ヨーロッパでは、教養のある人間が大学まで終わらせるのは当然だから、わざわざ面接などにコストをかける必要がないという思想が根底にある。その代わり大学院では小論文や面接などで人物を重視するコストをかけた入試が行われる。入試のコストと、そこからのリターンを考えろ、ということなのだ。
一方日本は長いこと、国力を上げるために大企業組織で機能する人材を育てるのが大学の目的だった。だから、出来るだけコストをかけずに筆記が出来る人材をとる今までの入試制度は正しかった。それがいま、組織を出て起業したり、グローバルに活躍する人材が求められており、現行の入試制度だと、そういう人材を落としてしまうのでは、というところが問題になっている。
仮に大学が「将来成功する起業家になる人」を選びたいなら、たとえば英Virginグループの総帥、リチャード・ブランソンは難読症で、おそらく東大や京大のような「読ませる」入試には通らないだろう。学校の成績が総じて悪かったAppleのSteve Jobsも同様かもしれない。
大学として「起業家を育てたい」という明確なミッションを実現するなら、「小論文と面接」で入試を行い、そういう学生を多めに採用する、というのは正しい戦略かもしれない。
しかしこれをうまく運用するにはそれなりの仕組みが必要だ。
米国トップスクールでは、まずエッセイと高校時代の成績(GPA)と課外活動の記録、SATの点数による書類選考が行われる。エッセイは自己アピールで、日本企業のエントリーシートを2-3ぺじの長文にした感じだ。書類選考で通ると、面接に呼ばれる。企業の採用と同様、これを実際に行うのはかなりの手間と、人を見極めるスキルがいる。ただでさえ忙しい大学の先生が研究と教育の片手間で出来ることではない。
したがって、米国のトップスクールでは採用する方もかなりの体制を敷いている。
「Admission」という組織があり、300人くらいの学生を2000人くらいの候補者から選抜するために5-6人の専門のチームを組んでいる。この人たちは、かつて一般企業で採用担当だったとか、人事コンサルにいたとか、ほかの大学のAdmissionにいたとかで、人物を見る目がそれなりに備わっているとされている人たちだ。彼らが、全世界から送られてきたエッセイを全て読んで、喧々諤々議論して決め、次は全国津々浦々を訪ねて候補者への面接を行う。
それだけではなく、Admissionは、ビジネスコンテストの優勝者とか数学オリンピック受賞者などに積極的にアプローチして、リクルートをする。また、優秀な人物を輩出する高校には定期的に訪問し、めぼしい学生を採用に来る。
かけたコストが将来的に償還されるトップスクールだけで小論文+面接は行われる
実は米国でも、私立の有名トップスクールでは上記のようにコストをかけた小論文や面接での入試を行っているが、州立大学ではSAT(米国版センター試験)と州共通の筆記試験だけで選抜しているところも少なくない。SATを何度か受けるチャンスがある、という再チャレンジを認めるところが米国らしいが、それ以外は基本筆記で決まるのだ。
プラグマティックな米国では、将来的に経済や政治でトップを担う可能性の高い学生が輩出されるトップスクールでは、コストをかけてしっかりと人物を選定する。一方でそこまでいかない人たちは、コストをかけない共通筆記入試で十分じゃないか、という考えられている。なぜなら将来的に経済や政治でトップを担う人は、卒業生として影響力を持つし、大金持ちになって学校に償還してくれる人が多いからだ。MITが「起業家になりたいし、なれる能力のある人」をコストをかけて選抜するのは、起業家になれば金持ちになって、大学に寄付という形で帰してくれるからだ。だからコストをかけてでも、選抜する価値がある。中堅の州立大学だと、そういう可能性も薄いから、そこまではやらない。
米国では教育はビジネスである。
投資してリターンがあるところに、投資をする、そういう考え方だ。
同様に、日本の大学でも入試制度を全て変えて、AO入試的なものに変えるなんて論は、
コストメリットを考えても間違っているし、有効な方法ではない。
そもそも入試制度は、いろいろあって日本ではもっとも変えにくいものの一つだ。現状の入試制度を活用しながらも、如何に日本の大学で起業家とかグローバル人材なども含む多様な人材を輩出するか、という方向で考えなくてはならない。
以上、
・米国型の入試が世界で一般的なわけじゃないこと
・いずれにせよ米国型の入試はちゃんとやるとコストが非常にかかること
・したがって将来グローバルに活躍するとか、起業して金持ちになるとかコストをかけるメリットがある人たちだけを対象に行うべきだということ
・日本の入試制度を抜本的に変えるのは難しいこと
これを考えると、日本の大学の入試や教育の制度はどうあるべきか、という話を明日書きます。
追記)さっきTwitterで下の内容を書いたら、たくさんRTされたのでここにも一応ポスト。
Lilaclog 12:58pm via HootSuite
東大や京大の入試は全体の半分が解ければ受かる、という難易度になってることによって、結果として一芸人材と満遍なく何でもできる人材の両方が取れているのは面白いと思う。日本で入試制度を変えるのは至難の業なので、現行の制度を活用しながら如何に、柔軟で面白い人材を採って育てるかが鍵
面接比重がある程度高いということは
わいろ対策なんかもきちんと設計されてたりするんでしょうか。
全員入学させた上で、キャンパスもなくし、インターネットだけで受講できるようにする。
卒業も自由にさせればよい。
ただ、大学時の、作成した論文や試験結果などはデータとして蓄積して、入社を希望する企業に見せればよいだろう。
これだけ、大量の情報の蓄積技術や検索技術が発達しているのだから。
これからはますます回答がない時代となっていく。
会社にどうアピールするか、企業がどういう人材を選択するか、すべてその人や企業にまかせればいいのだ。
結局は、何がいいなんて回答はないのだ。
資本主義でも、戦争でも、大学受験でもそうですが、言い訳でいろんなことが通ってしまう社会は長期的にはだめです。あくまで誰の目にも見える結果を重視しなければなりません。
アメリカの一流私大のシステムは大学側にはメリットがありますが、米国民全体にとってメリットがある仕組みなのかどうかはちょっと微妙だと思います。国立大は国益を重視すべきだし、日本の私大でそこまで凄いところはないですしね。
半分できれば合格できる試験、僕はとても良いと思います。ただし、数学の試験を数学科教員に作らせると、優秀な数学者になれる人材だけが欲しいので試験を極端に難しくしてしまうという問題もあるようです。
アメリカ有名大学式のエッセイとか面接とか。まず、受けたことのない人が採点するのはほぼ不可能じゃないかな。また、日本の自分を謙遜を重んじる風潮が受験者の足を引っ張ってしまって、少なくとも当面は(能力以前に)臆面なく自分を主張することのできる人だけが面接に呼ばれるということになりかねませんね。
本人の努力次第で成功というなら、みんなで50年前と同じ教科をがり勉するより、それぞれの才能や興味に合わせた勉強をするべきなんじゃないかな?
↑そういうのを甘えって言うんですよ^^
この記事について、ちょっと誤解があるのではないか、と思ったのでコメントします。 日本の受験システムとフランスのバカロレアが一発勝負なのが共通だと書かれているので、両者が似たシステムだと考えていらっしゃるという印象を受けましたが、両者は全く性格が違うと、私は思います。
また、日本の受験システムが一発勝負なのが問題だと書かれていますが、私は試験の回数より、試験の中身の方が問題だとずっと思ってきましたが、どうでしょう。
私はイギリス在住で、17歳の子どもがインターナショナルバカロレア(IB)を受けているのですが、彼女のIBの勉強は、あるテーマについて議論する筆記が中心で、日本の受験勉強とはまったく異質だとずっと感じてきました。
日本の試験でおなじみの、知識の量と正確さや、与えられた問題を公式を使って解く力を試すというタイプの問題はあまりありません。 (私が考える日本の公式とは、数学などのExplicitは公式だけでなく、塾や受験本が教える、国語の解き方などのImplicitな公式も含みます)。
IBは、私が観察するところ、それぞれの教科の主要テーマを理解し、知識をもった上で試験にのぞみ、その場で与えられたテーマを、分析したり、議論したりする力を試されていると思います。 試験に備える勉強も、数千字のレポートを繰り返し書いて、分析や議論の力を磨くことです。
私自身、ずいぶん以前にWhartonでMBAを取りましたが、MBAの定期試験もこうした記述による議論が多かったことを思うと、この記述式議論のテストは、アメリカヨーロッパでかなり共通なのではないかと思います。
Lilacさんが言及されているフランスのバカロレアも、とても手ごわい記述中心だと聞いています。
そんなわけで、マークシートに便利な選択式の問題が多い(と聞いていますが、もう変わったのでしょうか?)試験にそなえて、知識の詰め込み重視の受験準備をさせ、その後の大学での勉強でも議論や記述をあまりさせずに、比較的楽ちんに卒業させてしまう「勉強」の中身の方が、日本のシステムの問題だと思うのですが、どうでしょうか?
まぁ、記述中心にもそれなりに問題があるとは思います。(採点者の主観が入りやすいので、採点者の教育や、採点プロセス、異議申し立てシステムの確立などのコストが高いこと、採点に時間がかかることなど)でも、日本の教育システムで議論やプレゼン、エッセータイプの訓練があまりに少ないというのは、社会人になって国際社会に出てくると、かなり苦しいとは思います。
日本も少子化ですし、そろそろ、試験実施者に楽なテストではなく、本当に必要な学力を試す試験をするべく、大学にはもっと努力してほしいと私は思います。
公平というのは、生まれや育ちに関係なく
同じ問題を出して同じ基準で採点することをいいます。
検索しまくるもよし、知恵袋に聞くのもよし
雇用企業から見たら現在の脳みその中の記憶量なんかドーでもよく、未知の課題をどうやってクリアするか?が必要なわけで、目的の情報に最短で到達できるキーワードを探し求める「ググる力」で判断してもいいくらい。
中高年を中心に「おまえの目の前の箱は飾りか?」ってやつが余りに多い。
日本がこれから対峙していく相手は、暗算能力に長けた相手じゃない。
http://kamome.2ch.net/test/read.cgi/books/1296706398/986