オーディオ再開!レコードで音楽を楽しもう

オーディオ、シアター、ゴルフ、etcみんな中途半端な趣味だった、もう一度このブログと共にオーディオを再開!

我がサウンドの基本はJBLスタジオモニターサウンド

2021年06月04日 22時17分00秒 | オーディオ
JBLサウンドと言われると
 
皆さんはどんな音を思い描きますか?



私は初めてJBLを聴いて、感動し興奮してこのオーディオの世界に入って来ました

初めて聴いたのは中1か中2の時、同級生の電気屋のオジサンに連れて行ってもらった
 
何処かのオーディオフェアで聴いたのはL200スタジオモニター
 
 
 
他のスピーカーとは全く違ったそのリアルなサウンドに憧れ
 

すぐにバイトでJBL LE8Tを手に入れ、
次いで購入の山水AU607との組み合わせでご機嫌なオーディオライフだったが
 
またそれを一変させたのもJBL


リアルなサウンドに驚いた4310モニターとの出会い


その後も多くのJBLサウンドとの出会いで
 
私はオーディオを楽しんできたと思います





皆さんはどんなJBLサウンドを描きますか?


最も日本で代表的なのはJBLサウンドはやっぱり 

4343等の緻密でありながらも、
力のある大迫力のサウンドだと思います






私のJBLへの想いをちょっと気ままに書かせて頂きますね


名前や生まれ等様々な説が有りますが、
メインはJBL社のホームページを参考にします


James Bullough Lansing、1902年生まれ、
12歳にして独学で小型無線送信機を作り上げたほどの才能が有った様で
カレッジ卒業後ラジオ放送局の技師として働き始めます


ジェームスは当時のラジオの音が余りにひどいことに嫌気がさし
その改善のためにスピーカー製造の会社を設立を考え



1927年、25歳での時にロスアンジェルスに
Lansing Manufacturing Co.を設立

この下請け時代が幸運とも言うべき事だったのだと思います

この会社ではWEのユニットの修理等の下請け修理等も行った様で

これが後のJBL製品に大きな影響があったものだと思います



同じく1927年映画界でも変革が起き、初のトーキー映画「ジャズ・シンガー」が上映され
無声映画からトーキーへと映画産業が大きく変わる年でもあったようです


当時の映画音声と言えばWestern erctricがその音響を独占し
販売をせず高額なリースとしてWE 555w等のフルレンジスピーカーを
中心とした機器を提供していましたが




1933年4月フレッチャーシステムによる立体高音質伝送実験で大きく時代が変わったと思います


ユニットを高域と低域に本格的に分けた「ツーウエイスピーカーシステム」の登場です


それまではフルレンジスピーカーを中心に、補足に低域を加えた程度のものでしたが

ここでWE594Aとして本格的高音質高域ユニットが作られ、
低域もジュラルミン振動板の高音質ウーハーが完成し


しかしこの実験でWEとベル研は最高の音質のスピーカーを作りました

システムは完全な失敗作で

このスピーカーが世には出る事はありませんでした


最高の低域ユニットと、最高の高域の高域ユニットの音ズレ

タイムアライメントのズレが、スピーカーシステムとしては使い物にならず

その後は最高の音質から、バランスの良いシステムが求められたのだと思います



既にフルレンジスピーカーでは不十分であり

WEでは1929年にLee G Bostwick氏が開発した高域再生用レシーヴァー

WE 597Aで高域の不足を解消しようとしましたが


抜本的な音質改善とはならなかった様ですね




映画産業界からは新しい映画音響用の強力なスピーカーが必要とされ、
 
当時巨大なホールを数多く有していたMGM社が動き出します

1935年、ダグラス・シャーラーDouglas Shearer(MGM映画会社の音響責任者)を中心とした
本格映画上映用ツーウエイスピーカーシステムを完成させます、


これがシャラーホーンシステムで

このユニットを担当したのが若きランシングでした


シャラーホーンの高域にはランシングが作り上げた
 

Lansing284ドライバーが使われましたが


これは国家レベルで超高精度に作られたWE594Aを
 
その下請け時代に得ていた知識と技術で、一回り小さくして作った様なもので

当然ながらWE社からのクレームで284Eや、285に細部を変更されて使われたそうです


やがて287へと改良され、
 
アルニコに改造され288へと退化して行きました、☆Altec 288物語、妄想編を読んで下さいね



低域にはコーン型の15XSユニットを使ったフロントフォールデッドホーンシステムが採用されました


フロントロードの分見た目の配置はタイムアライメントは同一位置の配置ではありませんが

フロントフォールデッドホーンの長さに合わせて
 
タイムアライメントを揃えています


このシャラーホーンシステムは、
当時の絶対王座のWEを抑えて
映画音響アカデミー賞の技術賞を授与されました

これはとんでなくすごい事だと思います、
 
 
民間企業が絶対的な国を抜いた、どっかの民間飛行機会社がNASAを抜いた

そんな風にも思える偉業だと思います


無論対するWEは翌年、更に位相を揃えたミラフォニクサウンドシステムで対抗します



ランシングのシャラーホーンシステム

WEのミラフォニックサウンドシステム


この二つが当時の最高のサウンドシステムだと思います

実は私は「今でもこの二つを超えたスピーカーシステムは無い」と思って今も使っています(笑)



その後劇場のシャラーホーンシステムの技術を小型2ウェイのシステムに凝縮し


lansing287Field Coil、コンプレッションドライバー
ロールエッジ、金属製フェイズを使った
FIELD 220V、V・Cインピーダンス22Ω

ヴォイスコイルは2.84インチ(7.2cm)径にとどめられたとあるが
(注、当然これが284の名前の由来です)

lansing 415低域ウハーは、蝶形ベークライトダンパー、FIX-エッジで
FIELD 220V、V・C IMPED 6Ω


500-A型や500-B型などの小型器を作り

lansingの最高傑作とも言える世界初の本格的なスタジオモニター、
アイコニック800シリーズを開発します。
これはlansingマニファクチャリング社の製品と聞くが

実際の製品にはAltec の文字が入ってる様で、
 
 
現存する多くはAltecに入ってからのものが多い様ですね




シャラーホーンで名を挙げ順調に見えた、
Lansing Manufacturing Co.社であったが、その経営はかなり悪化してしていったとの事です




少し遡りランシング達のシャラーホーンがアカデミー賞を取った2年後の

1937年、米国ウェスタン・エレクトリック社の業務用音響機器部門子会社E.R.P.I.が集中排除法の適用を受け解散となる

実質これがWEサウンドの終焉を迎えてしまった


そしてWE社の主要メンバーがWEの保守メンテナンスを行う、アルテックサービス社を設立する事になる

1937年アルテック・コーポレーションの設立



そして5年後ALTECはWEの保守から、新しい製品を作ろうと考え

技術は有るのに経営が思わしく無い会社を社員施設ごと買い取り新たな事業展開を始める

買われた会社はあのランシング率いる、ランシング・マニュファクチャリング社


ランシングを5年契約で技術担当副社長に迎え

1941年社名を(Altec Lansing Co.)アルテック・ランシングと改める

だがここで皮肉にも今までWEやベル研の壁に阻まれていた
 
多くの技術等を全て使えるようになり、一気にランシングの才能が開花する



フラットボイスコイルを高速で巻き上げる技術や
大口径のアルミニューム・ダイアフラムをドーム状に整形する油圧成形法など
今日世界中のスピーカー製造メーカーが用いている技術の基礎を開発したと言われています


その最大の功績?就任の翌年

1942年キャリントン社長の要請で主流のFIELD Coil方式、励磁から
軍事兵器でもあった強力な永久磁石「アルニコV」のマグネットの使用を提案された
 

lansing 287Field Coilを、アルニコの288に改良


同時に415Field Coilスピーカーも、アルニコの515へと改良


メンテナンス不要でコストも安く大量に生産できる
パーマネントスピーカーを作り上げます


でもそれは音質よりも使う側、作る側の一方的なコストと利便性の追及だけだったと思いますが

産業の発展とは企業の発展で有り、そんな物だとおもいます
これで時代は大きく変わります



音質はよくても電源を必要とし手間とコストの掛かったField Coilスピーカーは

あっという間にその姿を消す事になる


これを機にWEの技術やlansingの培った映画音響技術が開花し
1945年には、今日でも無敵のと言われる 
 
Voice of the Theater シリーズを完成させる

A2〜A6等の、有名なA7やA5システムなどの名機を完成させた


在籍した5年間でその才能を開花し
今日にも残るアルテック・ランシング社の最高の製品群を開発したが




ALTEC社との契約を終えた
1946年10月1日新会社を立ち上げ、また新たな試練の始まりとなる

そして最大の悲劇に襲わていきます


1946年10月1日、ALTECから離れ自らのフルネームを用いた新会社、
ランシング・サウンド・インコーポレーテッド
(Lansing Sound Inc.)を設立したが


しかし「ランシング」という商標は、アルテック社との合併によって
アルテック・ランシング社に帰属しており

新会社の名前の頭にlansingを用いることに対してアルテック社から抗議を受けます。



また多分抗議を受けたのは社名だけでなく

最大の問題は今までの5年間で培った「劇場音響技術の全て」をALTEC社のものとし

新しい会社ではその全てを使えなくなってしまったのだと思います



そこでlansingは様々なもの逆向きで使う事で対抗した

社名も名前を逆にして後ろにランシングを付けて
(James B. Lansing Sound Inc.)と変更

175DLHのタンジェンシャルリングの向きや


WEで決めたのはR1にプラスの信号が入った時はVioice Coilは磁界の外に押し出される
そのN極とS極のルールも逆使用で使うなど

様々なルールを逆接で使い製品としてはその使用が可能となったのだと思う
 


だが問題は、利益となる業務用音響機器は、そのノウハウも含めて全てALTEC社のもの

劇場用のVoice of the Theater シリーズは勿論の事


スタジオ用に開発したアイコニックシリーズもALTEC社のもので


ランシングの作り上げた最大の武器「劇場用の音響技術」を封じられ
劇場用の製品は販売した様だが
 
 
当時のALTEC社のそれには及ぶはずも無く

利益の出せる業務用音響機器の道を断たれ
 
 

やむを得ず利益の出る業務機器ではなく



コンシュマー機器の道を選択するしかなかったのだと思います


これは様々な機器だけで無く、lansing最大の武器であった「音の魅力も」
 
ALTECの音とは、逆に使うことになるのだと思う
 
 

そして今までと全く違う音響機器の開発が必要になったのだと思います


それまでのランシングの得意だったサウンドは劇場用のサウンドで「遠くまで響かせ」
 
ホールの隅々までその声を拡声して届ける「PAサウンド」
 
 
 
省けるものは省いて遠くへ届く、ちょっとおおらかなサウンドから
 
 
 
至近距離で聴く緻密な家庭用サウンド
 
今までとは全く違った反対の音への変革だったと思う
 
 
 
WE社での至近距離でホーンの位相を合わせる音響レンズ研究の資料は当然ランシングも持っていたと思うが
 
ALTEC社では至近距離視聴の考えは無くこれを必要としなかった
 
 
 
コンシュマーの路線でランシングはそれを活かしたのだとお思う
175DLHのレンズでもその多くの技術が採用されて、
 
金属レンズの内側にはフェルトを貼り
 
至近距離視聴では余分な金属の響きを抑え位相を重視したのだと思う
 


コンプレッションドラバーの、フェイズプラグそのモノも響の多い金属を使わない
 
至近距離で聴きやすい、新素材プラスチックフェイズプラグが必要とされたのだと
 
 
 
言葉は悪いがそれまでの劇場用を家庭でも楽しめる様にモデファイ
 
だが、これらの機器の開発はランシングの本意では無かったのではないかと思う
売り出された家庭用シリーズは販売も思わしく無く
 
当然利益が出るはずもなく、会社は経営難に再び窮地に立たされて



新会社設立から四年周年を前に

1949年9月、ランシングは自社所有地の木に首を吊って自殺

その命と引き換えに保険金1万ドルで会社は存続することが出来たそうです



天才ランシングが命を捧げた会社はこれを機に奮起します

二代目社長に就任した、ウィリアムH.[ビル]トーマス(William H. [Bill] Thomas) が
ジェームスの意志を受け継ぎ、残されたスタッフ達と会社を再建します


トーマスは、ジェームスの「優れたスピーカーはその外観にもそれが表れるべきだ」という信念で

それまでの劇場用を家庭に持ち込んだデザイン性の無いものから
 


新たな魅力的デザインのコンシュマー製品を次々に世に送り出して行きます。
 
 
その成功の影には劇場用から家庭用の至近距離視聴でも視聴可能な最高級機器の開発があったと思う
 
1954年、JBLは初の4インチ径ドライバーユニット375の完成が幸いだったと思います


もちろんその原型はWE594A、ランシングが作りたくても作れなかったか
 
はたまた4インチ振動板の大きさは必要としなかったかわかりませんが
 
 
 
音響レンズと共に彼の家庭用至近距離描写には最適なユニットの完成
 
この375ユニットと音響レンズの採用で一気に家庭用高級機の成功を収める
1954年夢のスピーカー、ハーツフィールド の完成

そして、1957年、パラゴン D44000 RANGER-PARAGONの完成

1960年の、オリンパス D50S8R OLYMPUSの完成と次々に成功を収め




1970年に入りその「至近距離での緻密再生サウンド」を武器に
 
業務分野へ4310で返り咲いた





そんなジェームスBランシング・サウンド・コーポレーションの業績が上がり
「ジム・ランシング・シグニチャリング、に
アルテック・ランシング社は依然ランシングの名前が使われていることに再び抵抗を示した様ですが


幾度と無くアルテック側と紳士的な話し合いを続けた結果、James B. Lansingのイニシャルを大文字で表わした



「JBL」をブランド名として用いることを決めたそうで
そして、ジェームスの偉業に対する深い感嘆の念を込め、
そこに感嘆符を付け現在のマークが出来たと言われています

JBLのデザインはパラゴンをデザインしたアーノルドウルフだそうです







凄いで方ですね、ランシングさんは


国家的な規模と予算で作り上げられたのWEスピーカーを

民間レベルで撃ち破る天才



今なお伝説のアルニコV神話を作り

劇場用の、スタジオ用の世界を圧巻しながらも


二度の破綻に遭い、その全てを会社に注ぎ

70年経った今も音響機器の王者として君臨している会社





凄いな〜と思いながら、我がランシングサウンドを楽しんでいます




結局長々と、何が言いたいのかというと

私はランシングの生き方も含めてJBLサウンドが大好きです




改めて聴き直すと、私のサウンドはWEやALTECの

劇場用サウンドではなく



JBLスタジオモニターsoundが基本に有ると思っています



若い頃に憧れたJBLスタジオモニターsoundが音の基本で



使っているのは劇場ユニットですが、奏でているのは

シャープで緻密なスタジオモニターサウンドです(笑)



ハッキリ言うと所謂JBLモニター育ちに私は

ALTECのA7やA5の締まりの無い音は元々好きでは無いんです




lansingマニファクチャリング社や

ALTEC lansing社のユニット改良し


WE社のホーンを使っていますが


奏でているのは引き締まった重量感と力感を伴った


緻密で音像定位の良いJBLスタジオモニターsound




改めてオーディオ機器は使い方だと思います

使う者の歴史を奏でるのだと思います




まだまだ自分的には、人としては伸びしろ十分だと思っています

子供の頃から全然成長していませんから(笑)

音ももっと成長すると良いのですが^_^





実は、ちょっと今体調を崩して病院で静養中です
病床で自分の動画を聴いたり、過去のブログを読んだりしながら
少し自分のオーディオルーツを振り返って見ました
お付き合い頂きありがとうございます^_^