政治にも政治家にも余り興味の湧くほうではないが、衆議院選挙の行方も多少は気になる。ということで、珍しく政治家に関する本を、ブックオフで買った。ワンコインの古本である。
『政治に必要なのは、言葉と想像力と、ほんの少しのお金』という長いタイトルのこの本。現毎日新聞編集局顧問の岩見隆夫が1995年から97年まで、サンデー毎日に連載したコラムを纏めたもので、著名な政治家たちの発した「言葉」を軸にして、ひとりひとりの政治的個性を評価したものだ。著者はその前書きにこう書いている。
「最近は言葉が踊らなくなった。枯れかけている。言葉の衰退は、民族、社会、国家の先細りにつながると思えて仕方ない。なかでも、言論の府であるはずの政治の場において、衰退傾向が著しいのだ。政治家が語る言葉に迫力がない。感動がない。説得力にも乏しい。と気づきはじめてから相当の時間がたっている。気の利いたアドリブ的表現が重用され、言葉は映像の付属品と見られている。演説も次第に漫談風になり、聴衆の笑いを取ればそれで及第点とされている。」
「政治が衰退した最大の原因は、政治家の言論軽視にある。云ったことはかならず実行するという気概がいつのまにか乏しくなった。言質をとられることを好まないから、適当で曖昧な表現になってしまう。言論の不在、言葉の衰退に安住しているこうした現在の政界に危機感を抱いたのが、本書を執筆した理由である。」
「まあ同心円でいこうや」と云った脳梗塞で倒れる直前の田中角栄に始まって、「大蔵改革は党是にちかい」と譲らなかったさきがけの園田博之まで、108の決めセリフが並んでいる。今では名前を聞くことも無くなったひとびとも多く、読んでいて懐かしかった。
「(国民の皆さんの)ご機嫌は伺わない」(石橋湛山)、「理屈はあとから貨車でくる」(春日一幸)、「政治家は一本のろうそくたるべし」(河本敏夫)、「両国とも天罰を受くべし」(鈴木貫太郎)、「議員たちに病気を自覚させることだ」(尾崎行雄)、「まあお茶でもいれましょうや」(井出一太郎)、「短い人生、楽しく送らなくちゃ」(石田博英)、などがその例。このセリフを吐くに至った、それぞれのエピソードがまた面白い。
「はっきり言うから嫌われる」、「役所の考えに乗った改革はだめ」、「揺らぎという弱い部分は民主主義の本質だ」とは、それぞれ、新進党時代の小沢一郎、橋本(自社さ)政権時代の菅直人、民主旗揚げ時代の鳩山由紀夫のひとことなのだが、いまや政権奪取を狙う民主党幹部3人の「言葉」に当時と今とでは、どこか変化はあるのだろうか。
「国民の耳に痛いことをお願いする以上、政治家もきちんと責任はとらなければならない。」と云ったわりに、自分の政治資金の出所についての説明責任は未だとっていない小沢一郎だし、「霞ヶ関に対する国民の怒りのエネルギーを、いかに実体的な政策としてぶつけていけるか。民主党の存在意義もそこにある」といった菅直人が本当に「官を退治する菅」なのかどうかは10年後の今も判らない。
鳩山由紀夫のキーワード、「友愛」についても、さきがけ代表時代の1995年、衆議院本会議での村山首相に対する質問で「経済中心の時代から、宇宙意識を持った心の時代に導いていくため、友愛精神を今一度、政治の舞台に上がらせたい」と発言した。質問の常識を破り、やたらと「愛」が繰り返されたこのスピーチが民主党旗揚げの原点になったのだとある。こと「友愛精神」遵守については、今もブレてはいないようだ。
しかし、「揺らぎという弱い部分は民主主義の本質だ」という前の部分は、「市民が政治に参加すればするほど、われわれの主義主張も変化しうる。その揺らぎのなかで、最終的に結論を集約させていく能力が問われる」である。状況が変われば主張が変わるのは当然といった、よく言えば臨機応変、はっきり云えば八方美人的手前勝手を認めているとも取れる発言だ。
そして、後の部分には「信念は揺らいではいけない」として結ばれるのだから、よくわからない。信念は主義や主張とは違うということで、変わらぬ彼の信念とは友愛精神だといいたいのだろう。最後に愛があれば、国民はついていくのだろうか。やっぱり、よくわからないぞ。
『政治に必要なのは、言葉と想像力と、ほんの少しのお金』という長いタイトルのこの本。現毎日新聞編集局顧問の岩見隆夫が1995年から97年まで、サンデー毎日に連載したコラムを纏めたもので、著名な政治家たちの発した「言葉」を軸にして、ひとりひとりの政治的個性を評価したものだ。著者はその前書きにこう書いている。
「最近は言葉が踊らなくなった。枯れかけている。言葉の衰退は、民族、社会、国家の先細りにつながると思えて仕方ない。なかでも、言論の府であるはずの政治の場において、衰退傾向が著しいのだ。政治家が語る言葉に迫力がない。感動がない。説得力にも乏しい。と気づきはじめてから相当の時間がたっている。気の利いたアドリブ的表現が重用され、言葉は映像の付属品と見られている。演説も次第に漫談風になり、聴衆の笑いを取ればそれで及第点とされている。」
「政治が衰退した最大の原因は、政治家の言論軽視にある。云ったことはかならず実行するという気概がいつのまにか乏しくなった。言質をとられることを好まないから、適当で曖昧な表現になってしまう。言論の不在、言葉の衰退に安住しているこうした現在の政界に危機感を抱いたのが、本書を執筆した理由である。」
「まあ同心円でいこうや」と云った脳梗塞で倒れる直前の田中角栄に始まって、「大蔵改革は党是にちかい」と譲らなかったさきがけの園田博之まで、108の決めセリフが並んでいる。今では名前を聞くことも無くなったひとびとも多く、読んでいて懐かしかった。
「(国民の皆さんの)ご機嫌は伺わない」(石橋湛山)、「理屈はあとから貨車でくる」(春日一幸)、「政治家は一本のろうそくたるべし」(河本敏夫)、「両国とも天罰を受くべし」(鈴木貫太郎)、「議員たちに病気を自覚させることだ」(尾崎行雄)、「まあお茶でもいれましょうや」(井出一太郎)、「短い人生、楽しく送らなくちゃ」(石田博英)、などがその例。このセリフを吐くに至った、それぞれのエピソードがまた面白い。
「はっきり言うから嫌われる」、「役所の考えに乗った改革はだめ」、「揺らぎという弱い部分は民主主義の本質だ」とは、それぞれ、新進党時代の小沢一郎、橋本(自社さ)政権時代の菅直人、民主旗揚げ時代の鳩山由紀夫のひとことなのだが、いまや政権奪取を狙う民主党幹部3人の「言葉」に当時と今とでは、どこか変化はあるのだろうか。
「国民の耳に痛いことをお願いする以上、政治家もきちんと責任はとらなければならない。」と云ったわりに、自分の政治資金の出所についての説明責任は未だとっていない小沢一郎だし、「霞ヶ関に対する国民の怒りのエネルギーを、いかに実体的な政策としてぶつけていけるか。民主党の存在意義もそこにある」といった菅直人が本当に「官を退治する菅」なのかどうかは10年後の今も判らない。
鳩山由紀夫のキーワード、「友愛」についても、さきがけ代表時代の1995年、衆議院本会議での村山首相に対する質問で「経済中心の時代から、宇宙意識を持った心の時代に導いていくため、友愛精神を今一度、政治の舞台に上がらせたい」と発言した。質問の常識を破り、やたらと「愛」が繰り返されたこのスピーチが民主党旗揚げの原点になったのだとある。こと「友愛精神」遵守については、今もブレてはいないようだ。
しかし、「揺らぎという弱い部分は民主主義の本質だ」という前の部分は、「市民が政治に参加すればするほど、われわれの主義主張も変化しうる。その揺らぎのなかで、最終的に結論を集約させていく能力が問われる」である。状況が変われば主張が変わるのは当然といった、よく言えば臨機応変、はっきり云えば八方美人的手前勝手を認めているとも取れる発言だ。
そして、後の部分には「信念は揺らいではいけない」として結ばれるのだから、よくわからない。信念は主義や主張とは違うということで、変わらぬ彼の信念とは友愛精神だといいたいのだろう。最後に愛があれば、国民はついていくのだろうか。やっぱり、よくわからないぞ。
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