5522の眼

ゆうぜんの電子日記、2021年版です。

通し矢と膂力

2015-01-18 21:48:54 | 歴史
世の中には様々な古来から伝わる初春の伝統行事があるが、今日のNHKTVは「京都三十三間堂で弓の引き初め」という晴れ着の新成人が参加する華やかな映像を見せてくれた。

江戸時代に盛んだったという「通し矢」に因んだ毎年恒例の弓道全国大会である。競技に先立って新成人の女性たち100名による「弓の引き初め」が行われ、振袖に袴の女射手が三十三間のほぼ半分、60メートル先の的に向かって弓を射掛けるデモンストレーションを参加者と観客がともに楽しんだとある。

三十三間堂には中学生時代に一度訪れたことがあり、仏像の並んだ見事さには息を呑んだ記憶はあるのだが、「通し矢」についてはすっかり忘れている。WIKIを読むと、江戸時代の尾張や三河の武士とも関係があることがわかる。

弓術の種目のひとつ「堂射」がいわゆる「通し矢」で、三十三間堂の軒下を射通す複数の競技だが、一昼夜に何本が射通せたかを争う「大矢数」がその典型。江戸時代の前期(慶長~寛永~貞享)が全盛で、最初の記録樹立者は尾張・清洲藩の朝岡平兵衛という侍だったという。家光時代の寛永以降は尾張藩と紀州藩が競って記録を更新していった。大矢数の最高記録は綱吉時代の貞享三年(1686)に和佐範遠がつくった8133本だという。全射数13053本というのも物凄い数ではないか。

その後、大矢数挑戦は徐々に減っていき18世紀半ば以降はほとんど行われなくなったともある。武士が戦に出ることはなくなり、太平楽な時代が続いたからだろうか。明治三十二年(1899)に旧高槻藩士の若林正行が4457本を射通したというのが最後の記録として残る。

ということは、現在の我々の多くは本当の「通し矢」というものを見たことがないというわけだ。もちろん「弓の引き初め」は通し矢ではないし「大的競技」も遠的のカテゴリーになるのだろう。そうしてみると、寛永時代の武芸としての「通し矢」が俄然面白そうに感じられてくるから不思議だ。弓自慢をする武士たちを想像するのも可笑しい。

今日はお年玉年賀葉書の当選番号抽選があったのだが、こちらの弓矢は機械式、的は近的だ。「ぎりぎりと引き絞って、ひょうと射掛ける」なんてことはもうないのだ。徳川家康が没して400年。「通し矢」と日本人の膂力の衰えとはどこかで関連していそうな気がする。




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