選択の科学
シーナ・アイエンガー
櫻井 祐子/訳
コロンビア大学
ビジネススクール
特別講座
文芸春秋
という本を読み終えた。
だいぶ前から、本屋で見かけていて、気になって
いたが、ちょっと、本が分厚いので、気持ちが
臆して、そのままにしていたが、最近、本屋で
めくって立ち読みしていたら、妙に気になる部分
があって、買って読む気になった。
気になった部分は、次の箇所だった。
ある老人ホームでの実験
コネチカット州の高齢者介護施設アーデンハウスで
1976年に行われた研究から、この答えの手がかり
をいくつか得ることができる。
心理学者のエレン・ランガーとジュディス・ローディン
は、65歳から90歳までの入居者の自己決定権の認識
を操作する実験を行った。
施設の世話係が、二つの階の入居者を別々に集めた。
ある階の集まりでは、まず入居者一人ひとりに鉢植えを
配り、鉢植えの世話は看護師がしてくれると伝えた。
次に、映画を木曜と金曜に上映するので、どちらかの日
に映画が見られるよう予定を組んで連絡すると言った。
またほかの階の入居者を訪ねておしゃべりをしたり、読
書、ラジオ、テレビなどを楽しむことが許されていると
説明した。
このときのメッセージの趣旨は、入居者にはある程度の
自由は許されているが、かれらの健康は有能な職員が
責任を持って管理する、というものだった。
これは当時の介護施設としては標準的な方針であり、今
なおそうである。
世話係はこう言った。「この施設を、みなさんが誇りに
思い、幸せを感じられるような家にするのがわたしたちの
務めです。
みなさんのお世話をするために、努力して参ります」
次に世話係は、別の階の入居者を集めた。
だが今回は、一人ひとりの入居者に好きな鉢植えを選ばせ、
鉢植えの世話は自分でするようにと伝えた。
それから映画上映会を毎週木曜と金曜に行うことを告げ、
どちらの日に見てもいいと言った。
またお互いの部屋を訪ね合って思い思いにおしゃべりした
り、読書、ラジオ、テレビを楽しむなど、好きなように時間
を過ごして下さいと言った。
このように世話孫は全体として、この新しい家を楽しい場所
にできるかどうかは、入居者次第だということを強調した。
「みなさんの人生ですよ。 どんな人生にするかは,みなさん
次第です」
このようにメッセージは違ったが、施設の職員は二つの階
の入居者をまったく同じように扱い、同じだけの世話をした。
それに、二番目の集団の入居者だけに与えられた選択は、一見
ささいなものだった。
どの入居者も鉢植えを一つずつ与えられ、木曜であれ金曜で
あれ、週に一度同じ映画を見たからだ。
それなのに3週間後の調査では、選択の自由度が大きい入居者
は、そうでない入居者に比べて、満足度が高く、生き生きして
いて、ほかの入居者との交流も盛んだった。
3週間というこの短期間にも、「選択権なし」の集団では、
入居者の70パーセント以上に身体的な健康状態の悪化が
見られた。
これに対して「選択権あり」の集団では、90パーセント
以上の入居者の健康状態が改善した。
6ケ月後の調査では、大きな自由度を与えられた、いや実は、
自由度が大きいという認識を与えられた入居者の方が、死亡率
が低かったことが判明した。
以上。
この話しは、老人ホームに限った話しではなく、通常の高齢者
の生活にも通ずる話しだし、ある意味で、人間における一般論
でもあると、妙に関心した。
ということで、臆した気分も吹っ飛び、読み始めた。
その分厚さに、気持ちがひいてしまうものがあったが、読んで
みると、経験則で理解できる内容で、意外とスピーディーに
読み通してしまった。
感想としては、アメリカ人の著作者に共通の、「くどさ」が
気になったが、視覚障害者がこれだけの本を書けるのは、信じ
られない話しである。
この中で、「個人主義の歴史」について記述があったが、わたし
たちのような東洋人においては、なかなかまとまっていて、示唆
されるものが多いと思った。
ところで、彼女は、「選択日記」出版している。
この中で、上記の「選択の科学」の科学で述べていた内容が、
簡潔に整理されて、記載されていたのは、重宝だった。
「選択日記」はお薦めだと思った。
ところで、この選択日記に「確認バイアス」という項目が
ある。
人間には、すでにもっている信念を裏づけようとする
傾向や、自分の信念の誤りを証明しかねない情報を退け
てしまう傾向があります。これは「確認バイアス」と呼
ばれています。
私たちは日常生活においても、自分の意見を裏づけた
り、以前行った選択を正当化する情報のみを受け入れま
す。しかし、自分の行った選択を最大限に活かすには、
部合の悪いことも直視することが必要なのです。
非常に、耳にいたい話しである。
実は、今回の尖閣諸島のに関しては、この耳に痛い話しが
起こってしまったようだ。
先日も、「世界」の記事について話したが、1858年
以前の尖閣の歴史的位相を見る必要がある。との提言が
あったが、まさにこのことが必要とされている。と、
感じ入ってしまった。
歴史は権力者によって作られる(捏造される)と言われて
きたが、今回の尖閣諸島に関する日本人側の論理は、その
捏造された歴史を既成事実とすることに何の疑いも持たない
で、進行していたということが、あからさまにされたようで、
大いに、その浅ましさ、小賢しい様に、恥ずかしく不条理感
に苛まれている。
世界11月号には、「尖閣問題」東アジアの真の平和の
ためにということで、特集が組まれている。
その中で、このような記述がある。
そもそも領土問題とは帝国主義下の列強諸国による陣取り
ゲームだった。日本が抱える北方(千島・樺太)、西方(竹島)、
南方(尖閣諸島)の領土問題も、いずれもアジアに膨張するプ
ロセスで日本領土化したことがその発生起源になっている。
しかし、植民地を維持することは国民国家にとって、もは
や国際信義面でも経済コスト面でも利益のないものになって
いる。領上が国富を生むという考えは19世紀的な思考であ
る。21世紀の今日では領土(国家)を超えた協働と開発、
そして国家を超えた共通レジームの構築が富と繁栄をもたら
すのだ。
だとしたら、陣取りゲームの辺境に位置する絶海の小島も
また、日韓の地域協力、協働・開発の場にしてはどうか?
偏狭な「国益」に固執するより、その方がずっと多くの「地
域益」を両国にもたらすはずだ。
そもそも、リージョナリズムを進展させようと思えば、既
存の国家は主権の一定範囲を縮小し、より上位の超国家的な
秩序機関に委譲しなくてはならない。同じように、共同管理
をするため、竹島への主権を日韓が一定の範囲で調整しても、
それは「売国」ではない。
以上。
この文章にこのような記述がある。
そもそも領土問題とは帝国主義下の列強諸国による陣取り
ゲームだった。
日本が抱える北方(千島・樺太)、西方(竹島)、南方(尖閣
諸島)の領土問題も、いずれもアジアに膨張するプロセスで日本
領土化したことがその発生起源になっている。
以上。
この遠い過去のわたしたちの不都合な真実に向き合う気持ちが
今、日本国民に必要とされているような反省に至った。
わたしたちは、権力者が作った歴史のバイアスから自由に
ならなければならない。
ぜひ、多くの日本国民に、この「世界11月号」読まれて欲しい
と感じ入っている。
選択の科学のシーナ・アイエンガーは、こう言っている。
選択は人生を切りひらく力になる。
わたしたちは選択を行い、そして選択自身が
わたしたちを形づくる。
以上。
わたしたちは、賢い選択ができるだろうか?
歴史を切り開く力を得ることができるだろうか?