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リタイアーのよもやま話

用不用説

2011-06-18 21:56:48 | 老い(健康)

とある本にあった話しである。

その抜粋。


全力を尽くすことを長い間やっていないと、本当の力が
でなくなります。

身体も使わなければ元の力が出なくなるのと同じように、
気合や能力も長い間全力使わないでいると、そのうちに
出せなくなります。

以上。

非常に耳に痛い話しである。

で、残念なことに、わたしたち退職組は、職場から解放
された途端、毎日が日曜日の生活になってしまった。

現役の時は、朝のミーティングで、午前中に結果を出せ。
今日中に、公文を送れとか、とんでもない仕事が突然
わき出して、右往左往することも多々あったが、退職
した今、締め切りにせっつかれることは、基本的には、
ありえない生活である。

毎日が、グータラに生きてすませる生活になってしまっ
ている。

だから、ちょっと仕事をすると、体がだるくなって、
お休みモードに入って、横になってしまう。

明日にしようで、毎日が過ぎてしまう。

用不用説ではないが、まず、精神が朽ちて老いていく、
それにつられて肉体も朽ちて老人になっていく。

わかってはいるが、老いた者にとっては、目の前に見える
ことは、たいがい見たことである。

聞こえてくることは、たいがい聞いたことである。

全力を尽くすことを長い間やっていないと、本当の力が
でなくなります。

と言われても、全力を尽くすことが見当たらないのだ。

やっかいなことに。

老いたくはないのだが。


高齢者の万引き増加、背景に経済的困窮や孤独感

2011-06-18 21:31:16 | 社会

ヤフーのニュースである。


抜粋。


高齢者の万引き増加、背景に経済的困窮や孤独感


万引きで摘発される高齢者が増えている。かつては罪の意識が
低い少年に多い「初発型非行」と言われた万引きだが、山口県内
で摘発された年代別割合では、4年前から高齢者が少年を上回っ
て推移。

 背景に、経済的困窮や独り暮らしに伴う孤独感などがあると
みられ、山口県警は「高齢者の社会参加を促す取り組みが抑止
につながる」としている。

 「年金をギャンブルに使い、お金がなかった」

 5月17日、山口市のスーパーで男性(76)が豚肉1パック
(販売価格232円)を盗んだ疑いで現行犯逮捕された。

男性は独り暮らし。山口署幹部は「寂しさを紛らわすために
ギャンブルに走り、万引きしてしまうとは。

別の趣味があれば、防げた犯罪かもしれない」と、やり切れない
表情で漏らす。

 山口市内のあるスーパーでは、毎月3回、保安員が巡回して
万引きを監視。毎月数人を現行犯逮捕するが、約8割が高齢者
だ。


盗む商品は菓子や酒、肉など食料品が多く、金額は1000円
程度。

5月にも高齢男性を捕まえたが、所持金はほぼゼロだった。

「年金暮らしでお金がなく、盗んだ商品で食いつなごうと思った」
と語ったという。

 店は通常、万引きを警察に通報した後、盗まれた商品の代金
は身元引受人に請求する。

しかし、このスーパーの男性店長(51)は「最近は身寄りが
ない


高齢者が多く、請求できるケースはまれ」と説明する。

 県警によると、2000年に万引きで摘発された年代別割合は、
少年(14~19歳)の43・3%に対し、高齢者(65歳以上)
は半分以下の20・3%だった。

しかし、徐々に差は縮まり、05年に高齢者(28・6%)が少年
(28・0%)を上回った。07年以降は高齢者が30%台前半で
推移し、20%台後半の少年を常に超えている。

 県警生活安全企画課の山本和彦次長は「万引きに年齢は関係なく
なった。

高齢者も1人で解決できない問題を抱えた時、『誰かに構ってほ
しい』と起こす行動の一つとして万引きをする」と分析。

「高齢者の生きがい作りを推進することで、こうした犯罪を減らす
ことができるのではないか」と指摘している。(鶴結城)


以上。

時折、ヤフーのニュースでこのようなのがある。

残念ながら、このようなニュースは、読む方が寂しくなるニュース
である。

このようなニュースを読むたびに、人生って、何だったんだろう?
なんて、思ってしまう。

わたしたちが、若かった頃は、高齢者には、それなりに権威が
あった。

高齢者のあの存在感は、どこにいってしまったのだろう。

そして、わたしたちの戦後の日本って、何だったんだろう。

平和憲法、国民主権の国、日本。

ところで、わたしが病院の行き来で、見かけるホームレスと思わ
れる男性がいる。

彼を見かけるようになってから、2年半ほど過ぎた。

どうして入手できたのか理解できないが、タバコを吸っていたり、
インスタントのラーメンのようなものを食べてたり、自分の髪の毛
を自分でカットしたりしている。

時折、シャッターの閉まった店の軒で寝ころがっている。

こんな暑いのに、クーラーもなく、風呂にはいることもなく、
よく生きていけるものだ。

それにしても、この数年間、彼の健康状態はすこぶる良好
なのである。

何を食べているのか知らないが。

何よりも、自分の人生に思い悩んでいる様子は、微塵もない。

背筋は、ピシッとしており、表情もしっかりしている。
ちゃんと風呂にはいり、ちゃんとスーツでも着ければ、その
まま、会社の管理者をやっていても似合う。

いずれにせよ、自分の人生をはかなむ様子がないのは、わたし
には、理解できない。

(本音をいうと、いくらか羨ましい。彼を見ていると、ホームレス
という人生を選択して生きていける強さへの敬意が生ずる。)

そうかと思うと、隣のスーパーに入り浸りの、男やもめの我が
同輩の者達は、数年も経つと、物凄いスピードで老いていく。

そのうちの一人は、もうこの世の者ではなくなったかも
しれない。

この違いに、複雑な思いもするのであるが、わたしたちの
戦後の時代って、何だったんだろう。


捏造された聖書

2011-06-18 11:14:38 | 若い時に読みたかった本


捏造された聖書

バート・D・アーマン=著
松田和也=訳

柏書房


最近買って、やっと読み終えた。

この本について、著者は、「はじめに」おいて、こう述べて
いる。

以下、その抜粋。


 こうして私は、新約聖書の写本への興味に引き戻された。
そして「本文批評」と呼ばれる分野でこれらの写本を研究する
ようになった。

本文批評は実に興味深く、説得力溢れる研究分野だ。

学者にとってだけでなく、聖書に興味を持つすべての人に
とって(聖書直解主義者も、直解主義から立ち直りつつある人
も、どう転んでも直解主義になんてなりそうもない人も、あるい
は歴史的・文化的現象としての聖書になんてほとんど関心のない
人にとってすら)、真に重要なものだと信じている。

だが、何と言っても困ったことは、この本の読者のほとんどが
―たとえキリスト教や聖書や聖書研究に興味のある人であった
としても、そして聖書が無謬であると信じているかどうかは関係
なくー本文批評についてほとんど何も知らないということだ。

しかもその理由も理解できる。

これがしっかりした学問分野として確立してから三百年以上も
経つというのに、これについて解りやすく書かれた一般人向けの
本がほとんど一冊もなかったということだ。

ここで言う一般人というのは、本文批評のことなぞ何も知らず、
その研究に必要なギリシア詰やその他の言語も知らず、それどこ
ろかテキストに「問題」があることにすら気づいていないが、
そこに問題があると言われれば、いったいそれは何なのか、
そして学者たちはその問題にどう取り組んでいるのかというよう
なことについて興味を抱いてくれる人である。

 この本は、つまりはそういう本だ-私の知る限り、そういう
本としては世界初のものだと思う。

本文批評については何も知らないけれど、書記たちが聖書をどんな
風に改竄したのか、なぜそんなことが解るのかというようなことに
興味を持ってくがさるあなたのために書いた。

内容は、この分野について三十年以上にわたって考えてきたことに
基づいていて、聖書観のラディカルな変化を体験した今の私の観点
によるものだ。

今の新約聖書がどうやって出来たのか、オリジナルの著者の言葉が
わからないとはどういうことなのか、その言葉がどんな興味深い
理由で改竄されたのか、そして私たちが厳密な分析方法をどんな
ように適用し、本物のオリジナルな言葉を再現していくか、という
ようなことに興味を持つあなたなら、楽しんで読んでいただけると
思う。

というわけで、これは多くの点て私にとっては個人的な本であり、
長い旅の終着点とも言うべきものだ。

でも他の人にとっては、それぞれの旅のお供になってくれるものだと
思う。


以上。

この文章は、「はじめに」の最後の方に、書かれている。
この内容を読むと、まさに、わたしが待ち望んでいた本のようだ。

わたしの心の中で、長い間、待ち望んでいた解答である。

いつの日か、解答は出てくるものだ。

わたしが、最初に聖書を読んだのは、中学3年か高校生の1年の頃
だから、40年以上も時間が経った。

20代に、唯物論に凝って、「宗教は阿片だ」という言葉が記憶に
残っていたが、それ以上の論理が展開できなかった。

いつかは、待っていた解答に出会うものだ。

この著者が本を書いた趣旨に適う人がいたら、ぜひ、一読を勧め
たい。

できれば、高校生から大学生に読めたら、最高ではなかろうかと
思うのだが。

それから、この本が気に入った理由がある。

それは、本の書き方で「真摯さ」に満ちあふれていることだ。

時折、自分の主張することに夢中になって、勇み足になったり、
辟易するほどの冗長さで、読む方がしらけるものが多々ある
のだが、この本は、誠意あふれた著述になっていて、読んでいて
学問をするとは、どういうことかを知らしめてくれるようで嬉し
く思われてならない。

その本を書く姿勢とは、どうあるべきかということだけでも、
読むに値するようにも思われた。