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リタイアーのよもやま話

父親のリハビリ

2011-06-11 22:15:26 | 日記


今日も、病院へ父親のリハビリ等の世話をしに出かけた。

どういうわけか、下半身がだるくて、何もやる気がしない。

出かける前に、鋭気を養おうと、ベットで一休みし、
病院に近づいて、栄養剤も飲んで気合をいれたのだが。

 

いろいろと理由を考えたが、血圧が下がっているせいかも
しれない。

なぜ、今日になって下がっているのかよく分からない。

今日から、夏のようなかんかん照りになり、そのせいで、
体調を崩しているのかもしれないと思ったもりした。

今日は、父親の機嫌が悪い。

ベットの手すりに執拗に手をこすりつけている。
そして、右肩もやはり、寝具にこすりつけようとしている。

目の表情も尋常でない。

さすがに、このような日は、リハビリもままならない。

父親の尋常ではない目をみていると、なんともやりきれない
思いがしてならない。

この状態に手の施しようのない自分に、自責の念がわいて
しまう。

なにも、わたしの責任でもないのだが、この好ましからぬ
状態を目の当たりにするのは、辛い。

帰り際に、甘いシロップを飲ませたので、すこし落ち着いた
かとも思ったが、わたしたちが、帰ったあと、みっともない
格好で、ひっくり返っているかと思うと、なんもやりせない
気持ちになってしまう。

毎日、自宅で、このような生活をして、経済的にも困窮して
たりすると、何がおきても、不思議ではないと思ったり
してしまう。

東日本大震災の被災地の方々は、いったいどういう生活をして
いるのだろう┄┄?

言葉になりませんね┄┄。

 


さて、明日は、自治会の清掃日、午前中は、班単位で、清掃
する。

午後は、明日は、一人で、いつものように、病院に出かける。
どういう1日になるだろう?

今回の台風で、大分、落葉した。

墓の掃除もしなければならないだろう。

父親の更地の草刈りも、自治会の清掃にあわせて、すすめて
きたが、あと少し残っている。

もちろん、自宅の落葉の片づけ、庭の草刈りもこれからだ。

暑い夏、厳しい季節がやってきた。

 


仕事学のすすめ

2011-06-11 21:53:28 | 読書

6月8日の時間帯は忘れたが、NHKのテレビテキスト
「仕事学のすすめ」を偶然に見た。

「はやぶさ」のプロジェクトマネージャー川口淳一郎氏が
出ていた。

わたしは、「はやぶさの大冒険」という本も読んでいたので
大変興味深く、視聴していたが、語られる言葉に学ぶものが
あったので、チラシの後ろにメモッたが、よく読めない。

そこで、ネットをあたったら、その番組をみた人がいて、
印象深かった言葉が、アップされていた。

若干物足りなかったので、本を購入して、先程読み終えた。

良い本である。


彼の語った言葉で、大変印象的な言葉があった。

「見えているものはみな過去のものだから、やっても新しい
ものは生まれてこない。」

ものすごく説得されてしまった。

その他にも、印象的な言葉が数多くあった。

東日本大震災で、政局ばかりで仕事のできない無能な政治家を
みて、うんざりしているが、川口淳一郎氏が、総理大臣になった
ほうが、はやぶさのような奇跡が期待できるかもしれないと、
思ってしまった。

期限というものをシビアに捉え、先の見えないものに、答えを
だす。

最高の人材だと思った。

この本を、高校生以上の若い人に、ぜひ、勧めたいという感想
を抱いた。

勉強になる良い本だと思ったが。

 


天国と地獄

2011-06-11 06:38:47 | 

キリスト教の成立の謎を解く
改竄された新約聖書

バート・D・アーマン=著
津守京子=訳


を読んでいて、興味深い箇所があった。

天国と地獄についてである。

このことについては、日頃から興味のあるテーマで
あった。

今回、この本の中で、そのことについての記述が
あって、大変嬉しく思った。


以下、その抜粋である。

 

天国と地獄

 今日のキリスト教世界の一部、とりわけ、私がある時期関わ
っていたキリスト教社会では、宗教とは、すなわち死後の世界
だけに関わるものだと考えられている。

人々は、非常に個人的な見地からすると、天国での喜びを心底
願い、地獄の猛火に焼かれることを極度に恐れている。

私が出会った信者の多くは、死んだら、魂がどこかへ行くと信
じている。

 私が、このような考えが抱える矛盾を解消できたことは、未だ
かつてない。

一方では、魂の死後の世界は、ある種肉体から解放された世界の
ように思える。

なぜなら、遺体は墓のなかに残されているのだから。

他方、人々は、死後の世界で、肉体的な快楽や苦痛を体感し
祖父母の姿を見分けられると考えている。

しかし、そのためには、肉体を持っていることが前提になる。

 イエスに始まる最初期のキリスト教徒は、天国や地獄が、死後
に魂が行く場所だとは考えていなかった。

つまり、このような天国や地獄の観念も、後世の産物なのである。

 

死後の財界に対する初期の黙示思想的解釈


 多くの学者は、イエスやその信者が、ユダヤの黙示思想家だった
と考えている。

黙示思想は、神義論もしくは「神の正義」の問題に取り組む方法と
して、イエスが生まれる一世紀以上前に誕生した(当時の人々は、
神義論という用語を持たなかった。

これは、十七世紀のドイツの哲学者ライプニッツの造語である)。

神義論は、この世に苦痛や苦悩が蔓延しているのに、どうやって
神が正しいと証明すればいいのか、という問題を孕んでいた。

人々がこれほど苦しんでいるのに、どうして、善意と愛に満ちた
神の意志が働いているなどと、信じられるだろうか?

 古代ユダヤ教の黙示思想家は、現代の哲学的手法を用いて、この
問題に取り組んでいたわけではないが、この思想を受け入れた人々
の問題意識は、現代の哲学者と極めて似通っている。

黙示思想の誕生に先立つ教世紀前に、イスラエルには、神が自分に
背いた自分の民を罰しているからこそ、神の民だけが、かような
苦渋を強いられているのだと考える思想家がいた。

この思想は、時に預言的見解と呼ばれる。

なぜなら、旧約聖書のどのページを開いても、預言者の同様の
見解が記されているからだ。

 しかし、もし人々が、預言者の言うことに従い、神の求める正
しき道へと立ち返り、神の与えた律法に反する行いを止め、神が
求める生き方を始めたとして、それでも彼らは苦しみ続けるのだ
ろうか?

預言的見解は、邪悪な輩が苦しむ分には、理屈が通る。彼らは、
それ相応の報いを受けているのだ。

しかし、正しい人々が苦しんでいる場合には、意味をなさない。

なぜ悪人が栄え、善人が苦しむのだろうか?

 古代イスラエル人は、この疑問に、いくつかの答えを出した。

そのなかでも、特に有名なのが、『ヨブ記』に書かれている黙示
思想である。

黙示思想的世界観は、異なる角度から、この問題に取り組んで
いる。

黙示思想家は、苦しみが一時的な状態だと考えていた。

ある神秘的な理由から、神は、この世界を支配することを止め、
世界に多大な害悪をもたらす邪悪な宇宙的勢力にさせるがまま
にしている。

しかしまもなく、神は歴史に介入し、あらゆる悪を正すことに
なる。

彼は、邪悪な勢力を打ち負かし、彼らが支える正しくない王国を
解体し、地上に平和と正義の王国を、新たに築く。

そして、この世界の邪な支配者や、彼らに与する者たちは、全員
破滅し、貧しく、抑圧された人々が、至高の支配者となるのだ。

 このような黙示思想的世界観が記されている聖書の最初の書は、
旧約聖書の『ダニエル書』である。

この書は、紀元前二世紀半ばに書かれ、ヘブライ語聖書の書のなか
では、一番新しい。

『ダニエル書』が成立した時代に続く数世紀の間に作成された、
死海文書を始めとする、いくつかのユダヤの書物にも、同様の
世界観が窺える。

そして、それはイエスヘと引き継がれていく。

 こうした黙示思想には、神が介入する終末には、死者が復活
するという考えも含まれている。

復活信仰は、古代の神義論者の関心事と直接関連していた。

神の側にいたがために、拷問され、殺された人々はどうなる
のか? 

このような惨劇が起きたときに、神はどこにいたのか? 

しかも、悪の権力者に味方した他の連中が、その結果金持ちに
なり、権力を手中に収め、何の咎も受けずに死んでいくのは、
どうしたことだろうか? 

正義は何処にあるのか?

 黙示思想家は、正義は行われると考えた。

しかし、それはこの世での人生や現世ではなく、やがて到来する
時代に死者が復活するときである。

神は、すべての死者を、その肉体も含めて蘇らせ、永遠の見返り
や罰を与える。

誰も、その定めから逃れることはできない。最後の幕を引くのは、
悪ではなく神である。

だから、死がすべての終わりではない。

 初期のユダヤの黙示思想家は、このように説していたのであり、
イエスもそうだった。

神の国は、人の子の降臨とともに、まもなく出現する。

だから、人々は、それがこの時代での苦痛を意味するとしても、
生き方を改め、神の側につくことによって、神の国の到来に備えて
おかなければならない。

来るべき新しい時代には、地上に神の国が現れ、至高の支配者で
ある神が、神のやり方で、この国を治めるだろう。

この世界のあらゆるものが、最後には正され、肉体とともに生き
返った人々は、それを目撃し、経験するのだ。

 私たちが知りうる限り、使徒パウロや最初期のキリスト教徒も、
同様の教えを説いていた。

パウロとイエスの決定的な違いは、パウロが、イエス自身が栄光に
包まれれて再来するときに、この王国をもたらすと信じていたこと
だ(『テサロニケの信徒への手紙一』四章ー五章)。

さらに、パウロは、終末における死者の復活が、ある意味で、すでに
始まっていると考えていた。

だからこそ、パウロにとって、イエスの復活が、極めて重大な意味
を持っていたのだ。

死者の復活がこの世の終わりに起こり、しかもイエスがすでに蘇って
いるのだから、自分たちは、終末期に生きているのだと思っていたの
である。

パウロが、終わりの時代に生きていると語っているのも、そのためで
ある。

 しかし、終末の前に死んだ人間は、どうなるのだろうか? 

イエスが戻ってくる前に死んでしまった人々が、一種の仮の存在に
姿を変えて、キリストと共にいると、パウロが信じるようになった
ことは、間違いない。

だから、彼は、『フィリピの信徒への手紙』のなかで、「わたしに
とって、生きるとはキリストであり、死ぬことは利益なのです」と、
語っているのだ二章二十一節)。

明らかにパウロは、イエスの信者が、天国である種の一時的な肉体を
与えられると信じていた。

ただし、それは純粋に、暫定的な措置である。キリストが、栄光と
ともに再来すると、「キリストに結ばれて死んだ人たちが、まず
最初に復活」する。

それから、パウロを始めとするすべての生者が、素晴らしい存在へと
変身し、彼らの肉体は、不死身となる(『テサロニケの信徒への
手紙一』四章十三-十八節、『コリントの信徒への手紙一』十五章
五十‐五十七節)。

こうして彼らは、地上で、永遠に生きるのだ。

 そういうわけで、イエスやパウロや最初期のキリスト教徒にとって、
永遠の命とは、天国ではなく、今現在私たちが立っているこの地上で、
肉体に宿るものなのである。

パウロは、『コリントの信徒への手紙一』のなかで、この点を強調して
いる。

イエスの肉体が復活したという事実は、未来の死者の復活がどのような
ものであるかを示している。

すなわち、肉体を伴って蘇り、その肉体は変質して、不死身となるのだ。

以上。

本来のイエスの考え方を知ることができて、大変貴重な資料と思った。

今回、「キリスト教の成立の謎を解く 改竄された新約聖書」で、
「黙示思想」なるものに、詳細にふれることになって、良かった。

たびたび、この黙視思想に関して、読んでいるうちに、いろいろと
思われてきた。

最初は単なる身勝手な妄想とも考えたが、

実は、何にも悪いこともせず、根拠もないのに、苛めに苛められ
過ぎた子どもが、親に捨てられる恐怖から、自虐的に親に媚びて
いくのと、全く同じよう感想を持った。

たまたま地勢学的に、アフリカ、ヨーロッパ、アジアの交通の要路
という「不安定な中東の地」に国を構えてしまったがために、生ま
れた「不条理」に苛まれた民族の、悲鳴だろうこの「黙視思想」
は。

である。

それにしても、死さえ強いられてなお、親の愛を信じたいという
この黙視思想、なんとも、いじましいことか。

なんとも、悲しい宗教だ。

そして、残酷な神だ。

頼みもしないのに、自分で勝手に人間を作っておいて、人間の
人生を弄ぶ。

まるで、幼児虐待の世界だ。

悲しいね。