昨日の日曜日は、自治会の清掃日、各班ごとに、清掃
をした。
朝起き掛けに髭をそり、頭を洗い、早々と朝食をすませ
本来は、9時からだが、8時頃から自宅の周りを片づけ、
8時30分頃から、作業にでる。
だいたいうちの班は、この時間あたりから、作業が始ま
っている。
わたしは、自分の車を持ち出し、集めたゴミを集積所まで
運ぶようにしている。
清掃終了後、この集積所まで、疲れた体で、人力で運ぶのが、
ことのほか辛いからだ。
「根きり」を持ち出し、歩道の雑草取りをする。
この方が手際よく、除去できるからだ。
しかし、この「根きり」が、重たくて、作業の終わるころ
には、立ったり座ったり、下半身が悲鳴をあげている。
そうはいうものの、反省会が終わるのが、10時半頃で、
時間としては、程よい時間で切り上げることができた。
午後は、少しばかり、ベットで休んで、病院に出かけた。
車を運転しながら、いろいろと考えた。
結局、退職者の生活には、「どこかに向かう」ということも
「何かが成る」ということもない生活だ。
このような生活が延々と続く。不毛の生活が。気が遠く
なる。
車を走らせていると、路上では、そのような人々が行き交
っている。
そして、そのうち、忽然とその人々が、わたしの視界から
消えたのに気づく。
夜は、疲れが出て夕飯を食べた後は、体がだるく、クーラ
ーの入ってない部屋で、コンピュータの前に座るのは、
とても、気が向かない。
それで、10時過ぎ頃には、就寝することにした。
夢をみて、よく寝たなとトイレに出かけ、廊下の時計を
見ると、なんと12時である。
その後、再び寝るのであるが、結局、2時間おきに、目を
覚ますことになった。
取り敢えず、定時の6時には、起床し庭にでる。
外は、日はまだ昇らず、南西の涼しげな風が吹いている。
昔のとある日に感じたような、風景にも似て、少しばかり
不思議な光景である。
家の前は、隣のスーパーの駐車場である。
朝のウォーキングかと思われる人が、通りすぎていく。
なんとなく、その気になり、スーパーの駐車場を軽く
一回り歩いてみる。
体の左半分の調子が奇怪しい、ほっておくと、歩行障害か。
筋トレだけでは足りないのか?
自宅近くまで戻ると、先程ウォーキングかと思われた
人は、弁当を3個、ぶら下げて戻ってきた。
ウォーキングだったのか、朝飯を買いに出かけたのか。
どうなんだろう。
どうしてだろう。不眠である。睡眠のリズムが崩れ
る。
何度も何度もとりとめのない夢をみている。
そして、目が覚める。
悪事を働いた人間はどんな夢をみるのだろう。
毎晩、悪夢に苛まれているのだろうか。
昔、蜷川マクベスの芝居を見たら、こういうのがあった。
気丈だったマクベス夫人が夢遊病で苦しんでいた。毎夜、
眠りながら歩き回り、まだ手から血のにおいが消えない、
血のしみが消えないと、深いため息をついている。
悪夢のなか、夫人がもらす寝言から、お付きの者たちは、
王夫婦が犯した大罪を知って、おののく。
その場面を見た時、わたしは、衝撃を覚えのだが。
悪事を働いた人が、このマクベス婦人のように、悪夢に
苛まれるのだったら、なんとも残酷な人生だろう。
それにしても、とりとめのない夢で、熟睡することの
ない夜が続く。
昼間は、ボーッとして一日が過ぎていく。
夜は、晩酌して、睡眠薬がわりに寝るとすれば、認知症
は、必至の話だ。
600万人を越す団塊の世代、パレートの法則が生きて
いれば、順調な退職生活者は、20%。残りの80%は
どのような退職生活をしているのだろう。
昔、読んだ本の中では、国にも家族にも誰にも援助を
うけずに、自分の力だけで、老後の生活ができるのは、
1%という数値があった。
その資料を、とって置かなかったので、残念ではあるが。
家族のない、地域との関わりもない、乏しい年金の生活で、
「どこかに向かう」ということも「何かが成る」という
こともない気が遠くなる不毛の生活が延々と続くと
思われし人が、隣りのスーパーあたりで、見受けられるが
ある日、忽然と姿が見られなくなる。
人生の上り坂を生きるのも、大変ではあるが、下り坂を
生きるのも容易ではない。
上り坂は、その苦しみも、上るもの同士で、手を携えて
いけるが、下り坂は、皆一人で、よろけながら降りてい
く。
「まさか」とは、このことだったようだ。
睡眠薬でも必要になったのか?