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リタイアーのよもやま話

持ちたくない友

2010-12-29 22:44:45 | 若い時に読みたかった本

渡部昇一氏の「知的余生の方法」にあった
話である。


持ちたくない友

吉田兼好は『徒然草』の中で持ちたい友人について次のように
書いている。

「よき友三つあり。一つにはものくるる友、二つには医師、三つには
知恵ある友」中学から高校の古文の授業で習った覚えがある言葉だ。

こういう友はいい友達だ、という兼行流の友達のすすめだ。

彼がこれを書いたのがいくつの時なのかはわからないが、若いときな
らともかく、年齢を重ねてくると、特に六十歳前後になると、兼好とは
ちょっと違った視点で、人をとらえるようになってくるのではないだ
ろうか。

私などは、兼好とは違って「いい友」より「持ちたくない友とはどんな
人間か」と考える。

そして最初に浮かんできたのが、もうかなり前だが、経済評論家の
斎藤精一郎さんの結婚披露宴に出席させていただいた時のこと
だった。

この時、元通産省事務次官の佐橋滋さんがスピーチをした。

佐橋さんという方はすごい切れ者で、三本武夫さんが通産大臣の頃、
陰で、「佐橋大臣、三本次官」などと言われていたほど、通産行政を
一手に引き受けていた人だ。

この人が、「若いときには思想、信条が違っても、つきあえるものだ。

その違いがかえって面白く、議論を楽しむことができる。

けれども、年をとるとだんだん考え方の違う人とはつきあいたくなくなる
ものだ」といったような内容のスピーチをした。

確かににそうなのだ。

若い時には、考え方が違っていても、友達だからと、ある程度は我慢
してつきあえる。

右翼的な考え方をする者だろうが、左翼的だろうが、文字通り侃々
愕々にやるのがむしろ楽しがっかりする。

私も旧制中学の友だちと、ワイワイやったものだ。

意見の違いが、かえって自分の考え方をはっきりさせることもあるだろ
うし、相手の方がよく勉強していると気付くと「コノヤロー」と、自分も
より深く勉強するようになったりする。

若い時には、考え方の違いが、自分を高めることに役立つこともあるのだ。

けれども、年齢を経てくると、だんだん、基本的な考え方の違う人とは
つきあいたくなくなる。

我慢できなくなる。

一緒にいても面白くない。

だから次第次第につきあいがおざなりになってしまう。

日常的なものの考え方とか習價のことをいっているわけではない。

その人が長年培ってきた、基本的な思想・信条のことだ。

それが違う人とは友情を育めないのだ。

例えば、私は個人の私有財産については、大いに認める立場にいる。

これに対して、旧ソ連や毛沢東や戦時中の日本のように、私有財産を
敵視するような考え方をする人が、いまだに居る。

若い頃には、このような共産主義的な考え方をする同級生とも、田舎
に帰るとよく会ったりしたものだ。

しかし今は、会う気にはならない。

あるいは、かっては仲がよかった政治家がいる。

けれども彼が基本的には中国よりの考え方をするとわかってからは、
つきあわなくなった。

別に、会うたびに思想上の話をするわけではない。

ただの雑談の場合もある。

しかし、基本的な立場が違う人とは、一緒にいるだけで、気持ちが
ザワつく。

くつろいで話せない。

夫婦でつきあおうという気には、サラサラならない。

これが、今と若い時との友人関係の違いだろう。

年を取ってからの「ダメな友」の第一は、ペースになる思想・信条が
違う人なのである。

 

 

支払能力の差

二つ目は、収入の違う人。

収入というよりも、支払能力といったほうがいいだろう。

若い頃は、だいたいがみんな貧乏だから、そんなことは気にならなかった。

同じ大学に入学したのなら、まあ同じような経済状態だと考えていい
だろうし、多少の不足分はバイトか何かで補える。

ところが、年を取ってくるとそうはいかなくなる。

年齢と共に生活のレベルに違いが出てくるからだ。

すると、経済状態が、つきあいに大きく作用してくる。

例えば、ある人に夫婦ともども高い料亭に招かれたとする。

すると、こちらもそれに見合うお返しをしなければならない。

長くつきあっていくためにはそういうことが大切になるからだ。

ファミリー・レストランやそこらだと、大して気にせずともすむ
かもしれないが、一席が何万もするような料亭に招待されたとなると、
友人としてつきあっていくためには、それに見會ったお返しが必要だ
ろう。

財界の人に呼ばれて話をするとか、何かのお礼に呼ばれたというの
なら話は別だ。

あくまでも友人同士、あるいは夫婦同士、家族ぐるみのつきあいを
考えてみた場合だ。

このような時、こちらにお返しをするだけの経済的余裕がないと、
そのうちどちらからともなく疎遠になっていくものだ。

お互いに、なんとなく遠慮しなければならない気分になるからだ。

特に配偶者がいると難しい。

支払能力が友人関係に作用することに気付いたのは、五十歳を過ぎ
た頃だった。

ある時、夫婦である出版社が企画した二週間ほどの世界オペラの旅
に行くことになった。

ホテルももちろん一流のホテルで、ヨーロッパを中心に世界の最高級
のオペラ・ハウスを回るというツアーであった。

で、どうせなら誰か友達を誘ってみようか、と見回してみたら、誘える
ような友人は数えるぐらいしかいないことに気がついた。

オペラに興味がある、という条件を除いてもだ。

行けば、夫婦ともども二週間、まるまる楽しめる。

帰国しても、その思い出に華が咲き、つきあいがより楽しく、深まるの
はわかっている。

けれども、どうしても支払能力を考慮せざるを得ない。

となると、その範囲はかなり狭いものになってしまう。

そう考えた時、私は「なるほど、年をとってからのつきあいには、

こういう要素も加わってくるのか」と気付いたのだ。

これはちょっと特異な例なのかもしれないが、とにかく、経済状態が
あまりにもかけ離れていると、友人関係を続けていくのは難しくなる
ものだと思う。

そして面白いことに、同じようなことが同窓会にもいえるのだという。

 

知的レベルの高い友

三つ目に大切なことは、教養の差が大きいと、友達としてはつきあえ
なくなるということ。

個人としては教養がいくらあってもいいのだが、友としてつきあう場合
には、教参が邪魔になることはしばしばある。

こういった時、教養を押し殺してつきあうほど、面倒で面白くないもの
はない。

だから、そういったことを感じさせない人を、やはり友人としては持ちた
いものだ。

私の場合では、例えば谷沢永一さんなどがそうだ。

個人的にもウマが合う。

といって、彼とは若い頃からの知り合いではない。

最初に知り合ったのはもう五十歳を過ぎてからだったと思う。

しかも、私は英語学で、谷沢さんは目本の近代文学だから、本来なら
接点もあまりない。

にもかかわらず、最初にお目にかかった時から意気投合してしま
った。

両方とも本がむやみに好きだから、今では、話し出すと止まらなくなる。

話は尽きず、会えば夜の十二時ぐらいまで話したりする。

それがことのほか楽しいのだ。

しかも常に何らかの得るものがある。

このように、夜を徹して知的な会話のできる人が、友としては最適
なのではないだろうか。

だが、残念ながらなかなかそうはいかない。

若い頃、学校の帰りにコーヒーを飲みながら、一時間も二時間も楽しく
しゃべっていた友達に、今会ったとしても、かつての楽しさは味わえな
い。

むしろ、退屈で我慢ならないことの方が多いと思う。

年金がどうのとか、再就職先がどうの、あそこの飲み屋が美味いの
不味いのといったレベルの話ばかりだからだ。

これが退屈じゃないと感じるようなら、その人自身も退屈な人問になっ
てしまったということなのだ。

こちらが知的に成長すればする程、十年一日のごとく変わらない話に
は退屈以外の何物も感じない。

年金の話も、飲み屋の話も同じことだ。

人間、年齢に関係なく、知的興味を失ってはいけない。

そして、年齢を重ねれば重ねる程、夜を徹して知的レベルの高い
話ができる友、そういった楽しさを味わえる友を待ちたいものだと
思う。


以上。

 

吉田兼好の『徒然草』は、高校あたりだと思うが、習った記憶が
ある。

「よき友三つあり。一つにはものくるる友、二つには医師、三つには
知恵ある友」の言葉は、恐らく、社会人になって、一通り、読んだ
記憶があるので、その時に、知ったと思う。

個人的は、「一つにはものくるる友」については、今だに、
こんなにも有名な吉田兼好が、なぜこれを挙げたか、理解できない。

根拠はないが、イメージがあわない。

なんとなく、さもしいように思われてならないからである。

とにかく、似つかわしくないと思っている。

それにつけても、渡部氏の「持ちたくない友」については、
最初は、その発想にギョっとしたが、読んでみると、自分自身の
現状を理解するのに、役立っているのでなるほどと肯いてしまう
ところがあって、面白かった。

 

「持ちたくない友」

【ペースになる思想・信条が違う人】


【支払能力の差】
 二つ目は収入の違う人。
 収入というよりも、支払能力といったほうがいいだろう。


【知的レベルの高い友】
三つ目に大切なことは、教養の差が大きいと、友達としてはつきあえ
なくなるということ。

この三つを渡部氏は挙げている。

まったく、その通りだと、納得してしまった。

渡部氏は、これらの条件を満たす友人がいるということだろう。

大変羨ましい。

やはり、功成り名遂げる事ができた人は、こういうことが叶うのだろう。

さしたる才能もなく、何事も中途半端で凡俗な輩には、残念ながら、
これらの条件を満たす友人にめぐり合うことはないようだ。

どの本で、読んだか覚えていないが、50歳を過ぎたら、人間なんて
変わりようがない。というのを読んだ記憶がある。

また、ヒルティだったと思うのだが、35歳~50歳までは、人間は
変化していく可能性があり、50歳をすぎないと、考え方が定まらない
という内容みたいなのが、あったような気がする。

(ただ、これは、本のどこを捜しても見つけられない。)

それからすると、やはり、ある程度歳をとっていくと、人間は変わ
りようがなく、自分と違う人間と付き合うのは、鬱陶しくなるのかも
しれない。


ところで、特に肯いてしまったのは、【支払能力の差】についてである。

実は、わたし自身の退職後の生活において、その現実に直面した
からである。

現役時代は、皆そこそこの収入があるので、同窓の者同士でも、職場
の同僚にあっても、日頃つきあいのある者同士では、【支払能力の
差】については、意識することがない。

しかし、いったん退職すると、個々の差については、愕然とするもの
がある。

国民年金と厚生年金の差、民間と公務員の退職金の差、公務員の
共働きであったか、そして、親から譲り受ける資産があったか等に
よる退職後の生活の生活格差を目の当たりにして、愕然としてし
まう。

いかに、つきあいのあった友人であっても、国民年金組と厚生年金組
にあっては、非情な現実を突きつけられる。

言葉を失ってしまう。

いかに元同僚であっても、親からの資産のある者とない者との間の
生活格差には、愕然としてしまう。


蛇足だが、独身組と家族持ちとの間に、交わす言葉など見つけること
は、困難だ。わたしは不可能だと思っている。


「人間社会が近代化すると共に、地縁や血縁、友情で深く結びついた
伝統的社会形態であるゲマインシャフトからゲゼルシャフト(Gesell
schaft)へと変遷していく」という考え方があったが、時代が下るに
つれて、社会は、ゲゼルシャフト化が進行し、個人主義が謳歌され、
個人の自己実現の追求がエスカレートするにつれ、個々の「思想・
信条」は肥大化し、「教養の差」も拡大してきた。

そして、とうとう、わたしたちは誰も共通項を持たない存在になった。

と同時に、わたしたちは、自分の存在を確認する術を失ってしまった。

わたしたちは、退職後は皆が、孤独になっていかざるを得ないという
想定していなかった現実に直面することになるようだ。

それにつけても、

今となっては、「若気の至り」としか総括できない左翼かぶれ
の学生時代、仮面引きこもりの読書三昧の人生、
父親が病気になったばかりに、貸家業になってしまった余生

どれもこれも、友人を持つ障害になってしまうなんて、皮肉な
ものだ。