逃げる中高年、欲望のない若者たち
村上龍/KKベストセラーズに、あった話である。
以下、抜粋である。
涙の数だけ強くなれる?
大衆的な歌の歌詞も、時代によって変わる。
わたしがびっくりしたのは、20年近く前、ラジオから流
れてきた「涙の数だけ強くなれるよ」という歌い出しの
歌を聞いたときだった。
今の若者たちは生きるのが本当に辛いんだなと思った。
学校や職場でいじめられたりいやなことがあって、恋人が
いなかったり、ふられたり、別れたりしてよく泣くんだろ
うなと思った。
そして涙の数だけ、つまり泣けば泣くほど人は強くなれる
んだよというメッセージは非常に強烈だった。
J-POPというジャンルの音楽は年末の紅白歌合戦などで耳
にするだけでほとんど聞くことがない。
だが、「夢を捨ててはいけない、いつか必ず夢は叶う、長
く暗い夜はいつも夜明けで終わることを忘れてはいけない
よ」というような励ましの歌詞が多いんだなと思って、
複雑な思いを持った。
もちろん、そんな内容の歌の中にも「よくできた歌」と
「ダメな歌」がある。
だが共通しているのは、「自分にも周囲にもほとんど何も
いいことはないし、これからもいいことは起きないだろうし、
そんな状況を変えることもできないし、シリアスな悩みを
相談できる人もいないし、喜びや悲しみを分かち合える
友人も恋人もいないし、こんな状況はきっと半永久的に
続くのだろうが、それでも集団自殺をしたり通り魔に
なって人を傷つけたりするのは良くないことだから止
めようね」みたいなムードだ。
実際には、何度泣いても強くなんかなれない場合が多い。
悲しいことや辛く苦しいことに泣いて耐えたとしても、
決定的な契機は誰にでも平等に訪れるというわけで
はない。
そもそもいったい何に対して努力すればいいのかもわか
らない。
人生の先輩である大人たちは「夢をあきらめるな」み
たいなことを言うが、そもそも夢がどうのこうのと偉そ
うなことを言う大人たちは夢を持っているようには見え
ないし、だから信用できない。
そんなことを言う大人たちに限ってつまらなそうに人生
を送っていることが多いのだ。
だいたい夢などと言っているうちは、そのことを実現
できない。
松坂大輔投手は、大り一グに旅立つとき、夢が叶いました
ねと聞かれて「メジャーは夢ではなく目標だった」と答え
ていた。
夢は、持っていた方が元気になれるという程度のものだが、
目標は絶対に実現させなければいけない現実だ。
だが、そもそも何をしたらいいのか、何を目指せばいいの
かわからない若者と大人だらけのこの社会で、目標を設定
するのは簡単ではない。
目標という言葉を使うと、泣く人が増えてしまうので、気持
ちを萎えさせないように夢という曖昧な言葉を使うのである。
~~~~~~だから直接
的に、「元気を出してね、あなたのことを大事に思って
くれる人がきっといるはずだからね、うつになっても治
るからね、間違っても自殺なんかしないようにね、自殺
サイトとかに立ち寄ってはダメだよ、いっしよに自殺し
ようって誘いに乗らないでね、通り魔とかもやったらダ
メだよ、必要ないのにナイフなんか買わないようにね、
大事なのは夢だよ、夢を持ってね、夢だから実現しなく
てもいいんだからね」というような歌が好まれるのであ
る。
以上。
わたしたちは、自由・平等の理念で育った。
進歩・発展が前提の価値観が染みついている。
だから、後ろ向きの発言も発想もどこかで、タブー
視している。
しかし、最近、わたしたちの後続の世代から、そうでは
ないんだ。
という主張が聞かれるようになった。
村上龍氏もその一人であろうか?
われわれの世代にとって「不都合な真実」を突きつけてくる
のだ。
いや、これは、実のところ、人間にとっての「不都合な真実」
ではあるまいか。
(公言するのに、憚るのだが)
「パレートの法則=20%」というのがある。
これからすると、2割の人しか、夢を実現できない?
「5%の成功者、95%の平凡な人。」があるようだ。
これにすると、もっと厳しい?
その他、不都合な真実を語る言い回しがある。
だから、すべての人々が、自由・平等の理念、進歩・発展が前提
の価値観が実現するのは、あり得ないということかもしれない。
これは、つらい真実である。
そして、自縄自縛の真実である。
ある意味で、憚りながら公言した人間もその論理に縛られるからで
ある。
自分の人生におこる不条理も身内に起こる不憫なことも許容せざるを
得ない。
つらい真実である。
恐らく最大の不幸な真実は、「自由・平等の理念、進歩・発展が前提
の価値観」が、植民地主義の存在を前提としたものではなかろうか?
なんて、とんでもないことを考えたりする。
もうこうなると、気が狂いそうになるので、思考停止をするしかない。
だから、彼が言うように
「自分にも周囲にもほとんど何もいいことはないし、これからも
いいことは起きないだろうし、そんな状況を変えることもできな
いし、シリアスな悩みを相談できる人もいないし、喜びや悲しみを
分かち合える友人も恋人もいないし、こんな状況はきっと半永久的に
続くのだろうが、それでも集団自殺をしたり通り魔になって人を傷
つけたりするのは良くないことだから止めようね」みたいなムードだ。
ということで、社会の安全弁が成り立っているかもしれない。
もしかして、みんな、うまい具合に自分を騙しているのかも知れない。
かつて、マルクスは言った。
「宗教上の不幸は、ひとつには現実の不幸の表現であり、
心なき世界の心情であるとともに、精神なき状態の精神である。
それは、民衆の阿片である。
民衆の幻覚的幸福としての宗教を廃棄することは、
民衆の現実的幸福を要求することである」
であるが、もしかして、現実のわたしたちは、何らかの阿片を
必要としているのかも知れない。
問題は、それが、本質的にわたしち人間にとって、ふさわしい
解答であるのか、わたしの能力を超えることなので、誰かに
妥当の答えを見つけてもらいたいとしておきたい。