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リタイアーのよもやま話

キューポラロケ当時との比較写真

2010-12-09 23:22:05 | 映画・ビデオ

キューポラロケ当時との比較写真

 

 

You Tubeで懐メロを探しているうちに、偶然に見つけた。

1962年、今から48年前の映像と現在とを比較している。

1962年だから、わたしが中学1年の頃の話だ。

田舎生れだが、不思議なことに、川口市のこの白黒の写真
には、何かしら郷愁がわきおこる。

わたしは、高校を卒業して、上京した。専門学校に入学
するために。

1967年の18歳の時だ。70年安保の賑やかさは、未だ遠い
ところにあった。

まだまだ、キューポラのロケ当時の時間が流れていた
ように思える。

60年代なんだからと、勝手に、思っている。

鹿児島から立ちっぱなしの急行?かなんかで、東京まで
来た記憶がある。

ラーメンが80円くらいかな?

時たま、食べる130円くらいの鰺フライ定食が最高の
ご馳走だった。

喫茶店で、コーヒーを飲むなんて、とんでもない
不良のような気がしたものだ。

映し出される見ず知らずの遠い昔の人達が、なぜか
親しい友人のように思えてきたりする。

懐かしい時間が流れて、満たされた気分になる。

こんな時間に出会うなんて、不思議だ。

この写真に写っている人たちは、今何をしているのかな?
なんて、問いかけたりしている。おかしな話だが。

もしかして、いい時代に生れたのかな?

情報化時代のYou Tubeがこんなアナログな時間を
共有させてくれるなんてね。

実は、わたしも故郷の30年前の写真をブログに
アップして昔の面影を残そうなんてやっている。

実際は、自分の子どもの頃のイメージに近いように
修正している。

それにしても、こんな素晴らしいアイデアの作品に出会う
なんてね。

幸せな気分になる。たまには、こんことがあっても、
いいのかも知れない。

アップしてくれた方へ、どうもありがとう。

 


明るくて見えやすい環境とは

2010-12-09 22:15:52 | 読書

森博嗣氏の本にあった言葉である。

 


明るくて見えやすい環境とは、実はその光に支配されている。

わかりやすい言葉には、その言葉に支配された思想がある。

そういった支配を取り除くことができれば、見えにくく、
わかりにくいが、そこには本当の姿がきっとあるだろう。


以上。


わたしたちは、いつも、目的地に、いかに速くいけるかと、
急かされている。

だから、道は、一般道路より高速道路の方がいいし、電車も
各駅停車より、新幹線の方がいい。

勿論、船よりも飛行機の方がいいときている。

なにしろ、その方が快適だ。

自分の遊びの時間であれば、パジェロで、オフロードを探して
走るのも、有りだが。

 

とは言うものの、最近の世情は、日常にあって、大方の人間が
オフロードに放り込まれて立ち往生しているようなものだ。

パジェロなんて、誰もが持ち合わせているわけではないし、
ナビゲーターも持たず、放り出されている。

仮に、もったとしても、残念ながら、たいていの人間は、
このオフロードの世界を走りきる知恵もないし、体力も
ない。


だから、誰もが、明るくて見えやすい環境。わかりやすい言葉。
そういった少しでも安心できるものをと、血眼になって探して
いる。


明るくて見えやすい環境とは、実はその光に支配されている。

わかりやすい言葉には、その言葉に支配された思想がある。

そういった支配を取り除くことができれば、見えにくく、
わかりにくいが、そこには本当の姿がきっとあるだろう。


ということなんだが、

見えにくく、わかりにくい本当の姿が立ち現れ来る時、
粉骨砕身、汗だらけになって、果敢に取り組むだけの
潔さは、当の昔に失っている。

いつしか、わたしたちは、エスカレーターのように、人生が
展開されるものだと、どこかで、思い込んでしまっている。


いったい、どれだけの人間が、彼の言う支配の存在に気づく
のだろう。

そうでなければ、本当の姿は見えてこない。

もっとも、大方の人間は見る勇気がないのかも知れない、
見ないで済むなら、それで済ましたいかもしれない。

 


現実には

2010-12-09 06:52:06 | 読書

Libera リベラ Far away 彼方の光

 

森博嗣氏の本にあった言葉である。


現実には?


「先生??、現実って何でしょう?」
「現実とは何か、と考える瞬間だけ、人間の思考に
現れる幻想だ」


以上。

わたしたちが、時にして、ふと自己の存在を振り返る際に、
心のどこかで、迷いがちらついたりするのか、現実は?

なんて、問いかけるのだが。

猛烈に変わりゆく時代に、自分の賞味期限そのものが
瞬く間に、過ぎてしまう。

ビジネスモデル、ライフスタイル、次から次へと消耗
されていく。

あまりの速さに、幻想そのものが、成立しなくなって
いるのではなかろうか。

だから、時に、強引に強烈な共同幻想を申し合わせ
なければ居たたまれないかも知れない。

わたしたちは、どこかで、自分たちに嘘をつかなくては、
やっていられないし、自己欺瞞も必要な偽善だ。

あまりにも、うつろいやすいわたしたちの日常は、
現実という言葉を「死語」へ、追いやり、本当の
ところ、幻想さえも、駆逐してしまったのかも知
れない。

そして、わたしたちは、虚無へと放り込まれている。


「現実とは何か、と考える瞬間だけ、人間の思考に現れる
幻想だ」ということだが、猛烈に飛び去っていく時代に
あって、幻想は、自分の手のひらから、かっさらわれて
いってしまうのだ。